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8-15 講師

 ヤスの退場のあと昼食を取り終え、借りた食器を洗って席に戻ったところで、対面に座る咲茅さきが話しかけてきた。


「ときにな、自分……物理いける口?」

「ん? 物理の勉強ってことなら、んまぁ……ぼちぼち?」

「ほーかぁ」


 唐突な質問に無難な答えを返すと、咲茅は残念そうな顔をしたのに対し、その隣のなーこはニヤリと笑う。


「まったまたぁ〜。前の期末〜、満点だったよねぇ〜? ぼちぼちじゃ〜、ないよねぇ〜?」

「ちょっ」


 個人情報漏洩(ろうえい)どうの以前に、なぜ当然のように俺の成績を知っている。


「くふふっ、あた〜りぃ〜」

「あっ! ……はぁぁ、オマエってヤツはよぉ」

「あは☆」


 まさかのカマかけ……答案を受け取る時の俺と先生の表情あたりから、好成績と推測してのことだろうな。


「……んまぁ、前回はたまたま調子良くてな?」

「ちょ、ほんまに満点なんかぁ!」

「わわぁ、さすが大地君!」

「……普通にスゴすぎ」

「いや……まだまだ勉強足りてねぇよ」

「はえぇ、自分謙虚やなぁ〜」


 夕やなーこと言った、いわゆる本物達を見てきた今となれば、学校のテストで満点取った程度では誇る気にもなれない。


「ほならな! 来週中間テストやん? そいで……ちぃとでええし、うちに教えてくれへん?」

「ええっ、急だな?」

「ん、ちゅうのも……うち次赤点取ったら、ほんっっっまに……ヤバイねん。親父に殺されてまう」

「お、おう?」


 何ごとにも動じなさそうな咲茅が、こうして顔を真っ青にする程となると、物凄く厳しいご家庭なのかもしれない。


「なんか大変らしい事情は分かったけど、そもそもさ……」


 部外者の俺より明らかに適任と思われる、周りの手芸部メンツに視線を送ってみる。


「あー、言いたいことは分かんでぇ? せやけど……」

「えとぉ、ごめんなさい。私は師匠にお教えできるほど得意ではなくて」

「……私が解説とか無理すぎ」

「な? あと部長も仲ええけど、うちと同レベの崖っぷち組やし、お互い何の足しにもならへん。なははっ」

「ふーん。てか、なーこじゃダメなん?」


 全国トップのスーパー才女に教えてもらえば、まるっと秒で解決だろうに。


「なこやん、かぁ……せや、なぁ……」


 だが咲茅は渋い顔でそうつぶやいており、何か頼めない事情でもあるのだろうか。


「くくっ。遠慮せずいつでも聞きたまえ」

「ほー、さよか。ほな試しや、どないなるか見ときぃ?」


 才女モードに変わってニヤニヤするなーこを前に、早速と咲茅は物理の問題集を開いて、摩擦力のパートの基礎問題を指差す。


「まずこれや。なめらかな面やら粗い面やら、滑りだす直前がどうたら、けったいなことばっか言いよる」

「それはだね、いわゆるお約束と言うものさ」

「お約束てなんやねん!? 漫才やっとんちゃうで!?」

「おや、滑る滑らないの話だろう?」

「ほんまやな――ってじゃかしいわ!」

「……ぷふっ」


 隣の席で黙々と作業を始めていた目堂が吹き出した。聞いていないように見えて、ちゃんと聞いているらしい。


「ま、一人ウケたしええわ。ほいで?」

「高校物理で言うなめらかな面とは、摩擦係数がゼロということだね」

「ん、んん? 摩擦係数ちゅうと、問題文に書いとるこれかいな?」

「うむ。要するに、摩擦を無視できるほどツルツルな面ということさ」

「ほー、ごっつぅツルッツル……氷みたいなもんイメージしたらええんやな? ほなら、氷の摩擦係数? とやらは、ゼロっちゅうこっちゃな?」

「いいや、氷の摩擦係数はそれなりに高い」

「なんでやねん!? 滑らへんならフィギュア選手廃業や!」


 うむ、咲茅のツッコミが的確かつ早すぎる。この子、地頭はすごく良いんだろうなぁ。


「氷上で物体が容易に滑動するのは、表層が圧力溶融し擬似液体層となって氷を覆っているからで――」

「わっからへんがな! あかん、やっぱなこやんの話はむつかしすぎるてぇ」

「あいすまない。さっちゃんに合わせて説明するとなれば……ふむ、これはわたしにも解けない難問だねえ。くくく」

「どうもアホですんまへんなぁ!? ほんま、なこやんはイジワルやでぇ」

「……んん?」


 なーこは聞き手が理解できない説明をするはずがないのに、どういうことかと思ったが……悔しそうにねる咲茅を楽しげに眺めるドSっ娘を見て納得した。


「うふふっ♪ なーこちゃんは、普段はとっても凛々(りり)しい師匠の可愛らしい反応が見たくて、ついついからかってしまうのですね。分かります! でもたしかに、お勉強はあまり進みませんねぇ」

「せやせや――っえ? ほんまに?」

「む? 何を勘違いしているのだい。このぽんぽこぴーの学問への無関心さを、ただただ嘆いているだけだとも。そも、普段は眠りこけておきながら、困った時だけ助けを乞おうなどと──」


 そんな辛辣な物言いをしつつも、少し頬を赤らめキョロキョロするなーこの顔を見て、周りの目が生温かくなっていく。


「む、むぅ。……あたしモノ部で〜お仕事あるからぁ〜? まったね〜♪」


 不利を悟ったなーこが、そそくさと出て行こうとしたところ、ひなたがフォローとばかりにその後を追って手をつかむ。


「なーこちゃんっ、私もお手伝いしていいかな?」

「わわっ、もっちろんだよぉっ! えへへ、やったぁ〜♪」


 仲良く手をつないで退出していく二人を見て、色々な意味で嬉しくなる。頑張れ、なーこ!

 そう心の中で声援を送りつつ、前に向き直ったところで……なんと咲茅が軽く頭を下げながら、顔の前でパンッと両手を合わせてきた。


「ちゅーわけで……頼むっ、こすやん! うちを助けてぇなぁ!」

「こすやん!?」


 思えばひなたの場合も、初対面の時の「ひな」呼びが「ひなやん」に変わっていたので、仲良くなると「やん」付きに昇格するシステムなのだろうか。


「……まぁ、少しくらいなら。でもあんま期待すんなよ?」

「ほんまかっ! いやぁ、恩に着るでぇ」

「ん……」

 

 そうなし崩し的に安請け合いしたものの、人に勉強を教えたことなどないので、正直なところ不安だ。ちなみにヤスは理解する気が無いから、その場しのぎに答えを投げるだけで済むし、真面目に教えたことはない。

 それで早速と期待の目を向けてくる咲茅を前に、どうしたものかと困っていたところ……部室の外から聞き慣れた声が届いた。


「おや、ゆーちゃんではないか」

「こんにちは、ゆっちゃん」

「ど、ども。こんにちは」

「くくっ、中に居るとも。気にせず入りたまえよ?」

「う、うん」


 まさかの、これ以上は無いほどの、完璧過ぎる適材がやってきた!


「あー、ちょいと最強の助っ人呼んでくる」

「え、助っ人?」


 咲茅にそう言って急いで外へ出れば、夕が入口の前で少し困り顔をしていたが、俺を見るなりパァッと笑顔になる。


「あ、パパぁ! やっぱりここに居たんだね」

「おう。何か急用──例のヤスの件とか?」

「んにゃ、そういう訳でも? その……会いたかった、だけ。えへへ」

「っ! お、おう……」


 嬉しすぎる事を言って、照れ顔でモジモジする夕。可愛すぎか。


「くふっ。いと微笑ましきかな」

「「っ!?」」


 そう言い残してひなたと去って行くなーこに、夕と一緒に慌ててしまう。ここは学校で人目も多い、うっかりデレッとしないよう気を付けないとだ。


「――っそう、丁度いいところに! 実は緊急で頼みたいことがあるんだ」

「え、そなの? 何かしらぁ?」

「それが実はなぁ──」


 状況をかいつまんで話すと……


「うん、分かったわ。任せてっ!」


 咲茅の臨時講師を快諾してくれた。


「助かるぜぇ。でも、なんか悪いな?」

「んにゃ、パパにお願いされるなんて、あたしにとって最高に嬉しいことだもん。それに物理学者の端くれとして、迷える学徒を導く使命もあるからね。そうやって次世代への智の継承を積み重ねて、ひとは未来を紡いでいくのよ」

「そか、ありがと」


 こういった夕のプロ意識、すごく格好良いよな。


「……ただ、頼んどいてアレだが、ひとつ不安があってな。このまま小学生の夕が出て行っても、なんというか、先生として見てくれるかな? ものを教えるって、信頼が重要なとこあるだろ」

「ふっふっふ、へっちゃらよ。こんな事もあろうかとっ!」


 そう言って夕は懐から何かを取り出し、ドヤ顔で掲げてみせる。

 それは……赤い覆面だった!


「どんな場合を想定してんだ……」

「あはは。ほら、何かあったとき、ゆづの顔として見られるとマズイでしょ? 最悪これ被って逃げれば、身バレのリスクだいぶ減るかなぁと」

「あー、それは確かにな」


 ゆづとしての知り合いが高校に居ることはまずなさそうだが、何があるかは分からないので、用意しておくに越したことはない。


「でしょ。昨日はパパに秒で見破られちゃったからね、割とガチ目の変装道具にしたのよ。――ハイッ。どぉ?」

「おお~、これなら仮に知り合いに見られても絶対分からんな」

 

 赤い覆面に昨日のサングラスを装着した夕は、顔のパーツが全て隠れているので、首より上だけなら小学生には見えない。


「それでも子供の体格は当然隠せんが……顔さえ見えなけりゃ、雰囲気次第で何とかなるかもな」

「うん。大人っぽいお姉さんで、頑張るねっ!」


 その元気良くうなずく仕草は、可愛らしい子供そのものだったが、


「……今朝みたいに、ねぇ? うふふ♪」


 あでのある声でそう付け加えて、いつも俺を手玉に取る夕さんの姿も見せてきた。


「ははは……頼もしい限りだ」


 なので講師として立てば、こうして上手く切り替えてくれるのだろうと期待しつつ、二人で部室へと戻っていくのであった。


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