8-07 夢現
そうして信頼ジャンケンは無事に幕を閉じ、いつもの和やかな雰囲気に戻ったのだが……まだ夢から醒める気配はない。それでどうしたものかと思っていたところ、
「さぁーて、次は何しよっか?」
目の前にちょこんと座ったメイドさんが、楽しげにそう言ってきた。
「俺はそろそろ学校行く支度しようかな」
「ええ〜? もーパパってば、夢なのに何マジメなこと言ってるのよぉ。ま、それもパパらしいけど?」
「う、むぅ」
とりあえず普段通りの行動でもして、醒めるのを待とうと思ったのだが、確かに意味は全く無いな。
「ね、せっかく夢でもパパと会えたんだから、もっと色々したいなぁ?」
「例えば?」
「んー……もっかい聞いてみるけど、このメイドさんに何かご奉仕希望とかは? ……んと、簡単めの、ね?」
「うーん、やっぱ特には無いかなぁ。夕はいつも充分過ぎるくらい良くしてくれてるしさ」
「そっかぁ。じゃぁね……代わりにあたしのお願い聞いてもらっていい?」
「え……メイドさんがご奉仕される側ってのは、どうなん?」
「あははっ。いーのいーの、夢なんだし細かいこと気にしなーい!」
そう言われると身も蓋もないが、確かにその通りだ。しかたない、ここは割り切って付き合ってあげるか。
「それでメイドさん、ご希望は?」
「え、えーとぉ……それわぁ……」
だが夕は恥ずかしそうに顔を赤らめ、とても言い辛そうにしているので、
「あー、なでなでして欲しい、とか?」
以前に大変高評価だったコレかなと試しに聞いてみる。
「ん、それもスッゴク嬉しいけど……そ、そのぉ……あ、あのね……」
そこで夕はモジモジしながら上目遣いになると、蚊の鳴くような小声で呟いた。
「………………ちゅーしたい」
「っんん!?」
危ない危ない、危うく夢の中で気絶するところだった。
「なななに言ってんの!?」
「だだだってぇ、現実じゃこんなこと……夢でくらい、いいじゃないの!」
「いやでも、今さっき飛ばし過ぎたって反省したばっかだぞ?」
「うんっ、だからっ、一歩下がってる! 順番通り!」
「え、そう……か?」
「そうよ!」
一般的な順番からするとキスのが先かもだが……それでもだいぶ飛んでね?
「うーん──ってちょちょ、夕さん!?」
そう考えている間にも、夕が膝立ちでゆっくりと擦り寄ってきていたので、軽く両手を前に出して止める。
「むぅぅ……大地ぃ、夢の中でまで女の子に恥をかかせる気?」
「うっ」
これまでも良いムードになることは何度かあったが、俺がヘタレ過ぎたりヤスの横槍が入ったりで強制終了していて、こればっかりは申し開きもない。そんな中、こうして夕が勇気を出してここまでしてくれているのだ、応えてあげないと男としてカッコ悪すぎる。ましてや、夢なのだから。
「わ、わかった」
「っ! ああ、嬉しいなぁ……夢だけど、夢みたいよ」
少し瞳を潤ませ、心底嬉しそうに微笑む夕を見て、胸にすごく温かな気持ちが広がる。
「………………そ、それじゃ……おねがい、しましゅ」
「は、はい」
夕が身体をさらに近付けつつ、改まってそう言ってきたので、思わず畏まって答えてしまった。……や、やばい、めちゃくちゃ緊張してきたぞ。
「初めて……じゃないけど、ちゃんとするのは初めて、ね」
「そう、だな」
「私いま、すっごくドキドキしてる。えと……大地も?」
「お、おうよ」
初回はただの事故だった上に、俺の方は初対面だったので、ドキドキする余地もなかったが……今では、俺を誰よりも慕ってくれていて、俺が最高に惚れている子となったのだから。
「……あっ、ほんとだね。えへへ」
俺の左胸に手を当てて喜ぶ夕を見て、さらに鼓動が早くなるのを感じる。
「ね、私のも、確認してみる?」
「なっ……それは、また今度で」
「んふふ、夢でも照れ屋さんなのね」
夕はそう言って微笑むと、俺の胸に置いた右手を少しずつ上げて左頬に優しく添え……
「そんなあなたが、大好きなのよ」
愛を囁きながら、目を瞑って顔を近付けてきた。するとその夕の手から、少し甘くも爽やかで落ち着く、とても不思議な香りが──ん、んんん!? どういうことだ!?
「──ちょー待った!」
「……ふぇっ? も、もぉ、なによ?」
鼻先まで迫った顔の前に手を差し入れて止めると、夕はパチッと目を開き、「せっかくの雰囲気が台無しだわ」とばかりに大層不満げな顔をする。……夕、今回もマジでごめん! でもそれどころじゃないんだ!
「いま、香水つけてる?」
「え? あー、うん。交代前にすぐ落とせるよう、手の甲にちょびっとだけね。……あ、もしかして嫌いな香り、だった?」
「いやいや、夕らしい香りですっごくいいと思う――じゃなくて! 大変なことに気付いちまったんだよ!」
「え、と、そうなの?」
「ああ。落ち着いてよく聞いてくれ」
それで夕もただ事ではないと察したのか、至近距離にあった顔を少しだけ引き、少し真面目な表情に変える。
「それでな……その香り、俺は今まで一度も嗅いだことないんだ。俺の夢でそんなこと、絶対ありえんだろ」
「え、これは私が見てる夢なんだし、別に不思議じゃないけど?」
「いやいや俺の夢だし」
「いやいやいや私の」
「――ええいどっちでもいい! と言うかどっちのでもないし!」
「んんー?」
夕は完全に信じ込んでいるようで、何のことか分からず小首を傾げている。
「よし、じゃぁ頬でもつねってみるんだ! 痛いはずだ!」
「あはは。なに言ってるのよぉ、夢なんだから痛みなんてあるわけ…………いひゃい!?」
夕は頬をむにょーんと餅のように伸ばすと、目をまん丸にして驚き……そしてすぐに顔を青ざめさせていく。
「そ、そそそ、それって、もしかして?」
「ああ……ここは現実だ」
「んなあああ!?」
いま思えば物理的に破綻した現象も全く起きていないし、それにいくら俺の夢とは言え、夕の解像度があまりにも高すぎた。一昨日の夢と同じパターンですっかり夢だと思い込んでいた訳だが、そんな俺の言動はまるで現実らしくないものに見えただろうから、夕までもが勘違いしてしまったようだ。それと最初に夕が言っていたように、夕は普段からゆづの視点で世界を見ていることが多いので、夢と現実の境が曖昧に感じるのもあるかもしれない。
「え、え、え、待って待って待って……私、現実の大地とあんなヤバヤバなゲームしたり、今もこんな大胆なこと、しちゃってたって……こと?」
「そう、なるな」
「──っっぁぁぁ……お願いよぉぉ、夢だと言って!」
「ああ、まったくだ……」
俺も夢だと思って、それはもうスゴイ感じに夕を褒め散らかしたし、夕さんの誘惑にメッロメロになるだらしない姿も全部見られていたし……ぐわぁぁぁ、これからどんな顔して夕と過ごしたらいいんだよっ!?
「よしっ、夕!」
「うん……」
「忘れようっ!」
「うん……」
とりあえず記憶を闇に葬り去ることにした。
もはや手遅れ感しかないが、このプチ黒歴史に今後一切触れないよう努力すれば、傷は最小限で済むはず。……ただあの超積極的に誘惑してきた夕が、俺の夢設定でもなく現実の夕となると、その意外な一面にはやはり驚きだが……まぁ誰でも多少の建前と本音はあるし、普段は純真無垢の塊な夕だって、本当は大人のお姉さんなんだし――っいかんいかん、忘れよう! 色々な意味で危険過ぎる!
「あのー、夕さん? そういう訳だし、とりあえず一旦離れてもらっても?」
「うん……」
だが夕は生返事を返すのみで、顔を伏せたまま動く気配もない。それ程ショックだったのか、と心配になっていたところ……夕はゆっくりと顔を上げた。
「……ね、大地」
「お、おう?」
「夢じゃないけど…………だめ?」
「っ」
その美しい瞳を潤ませ、上目遣いでそう囁いてくる夕。その姿があまりにも色っぽくて、思わず息を飲んでしまう。
「え、と……」
「わ、私……あのゲームしてた時から、ずーっとドキドキしっぱなしで……しかも、こんな……ここまできちゃったら、止めるなんて、もう……むりっ!」
目がとろんとさせた夕が、俺を勢い良く押し倒すと、抱き抱えるようにして覆い被さってきた。すぐに夕の上気させた顔が近付いてくると、その熱く浅い吐息が顔にかかり、脳が痺れて思考が遅くなっていく。
そして……
「ね、しよ?」
その甘い囁きが届いた瞬間、俺の頭にパシンと何かが切れる音が響いた。




