3 敵を知らず、己を知らず
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場所は王宮の研究室だった。寝室の隣にある。マクナイア王女の、『魔法使い』としての自室。まだ日は上がっておらず、明かりは蜜蝋製の揺らぐキャンドルに頼っていた。
……マクナイアは、台の上に置いた黒水鏡、『水面』に映る遠隔投影の光景を見ていたが……考え込んではなんども首を振った。
(私が……我島が見えていたのに。思い出せない……あの少年は、バレット・アウトロードなの? あんな子が……まさか。他の生徒の可能性が高い。しかし、秘めた実力はきっと……)
マクナイアはさらに踏み込んだ情報を得ようと、水面に魔力をまた垂らした。12歳の新米魔法使いにとっては、しんどい労力である。
と。
水面に、『割り込み』が入って真っ赤になった。緊急警告である。
王宮内に魔物が入ってきていた!
剣や斧で武装した人間の形はしているが、頭部は角の生えた山羊の魔物……この研究室にもう何体も迫っている!
悪態を吐くなんてはしたないと、内心だけで罵る。
(なにやっているの……常勤だけで何十名だかいるはずなのに、ここの王宮の警備兵はそんなにひ弱なの? それとも無能? 私、もうろくに魔力ないのに……!? 私の部屋の護衛兵がいない!)
ストレスで胃が重くなる。あんなのに襲われれば一撃でマクナイアなんか即死だ。
酸っぱい味がのどから逆流しかけたが、それを冷静に飲み込み。マクナイアは策を練った。とある『可能性』に賭けて。
まずは、『魔力探知』……これは? やはり、敵の魔力は低い。つまり。
……即決。(『兵は拙速を貴ぶ』)
マクナイアは、研究室の入り口の扉の鍵を、開けた。扉も開け広げた。
長く続く渡り廊下の向こうには、すでにその山羊頭が六体も歩み寄っているのが、夜の闇の中でもキャンドルの薄明かりで見えた。
「キ、キ、キ、キィーッ!」そいつらはマクナイアを見つけると、奇声を上げて走り寄ってきた!
マクナイアは研究室の奥、ぎりぎりまで下がると、身の丈ほどある魔法の杖を手に、タイミングを計った。
(撃っ!)
軽く念力を発すると、廊下を頼りなげにぼんやり照らしていたキャンドル台は次々と倒れ、明かりは消えて真っ暗になった。
ここで音を立てずしゃがみ込む。
恐怖を我慢して待つ。乱れた靴音が迫るのに、胸が苦しいし胃が痛んだ。
数秒後……
頭上で空気を切る音が響いた。それで敵の位置がわかった。
魔法の杖をこんなことに使いたくなかったが、両手で握りしめて……思い切り右から左へ振り払う!
ガッ!!
「痛っ!」男の叫び声。
激しい衝撃の感触が突き抜けた。子供の力でも、これなら人間の脚の骨くらい簡単に砕ける。そう、「やはり」、人間……
(『劣勢ならば、逃げよ。……互角ならば勇戦せよ!』)
そして目を閉じ、念じる。
(爆!)
閃光が放たれ、まぶたの下でも目が痛かった。ごくわずかしか魔力がなくても、それを純粋に光だけに変えられるなら、凄まじい輝きとなるのだ。
熱量にはまるで変わらないから肉体的なダメージは与えられないが……敵の目は一時的に失明する。
次いで。
(発泡!)
こんどはちょっと手間取ったが、洗顔用の水と石鹸に念を送る。ブクブクと泡が浮かび、無数のシャボン玉となって部屋に次々と飛んでいった。
シャボン玉は侵入してきたザコ魔物……否、もはや変装した王国兵士たちとわかっている……に、舞っていきはぶつかって割れて、を繰り返した。
兵士たちは石鹸水を浴び、手にしていた剣や槍を滑らせて取り落としていった。
ここで、誰かの魔法のホワイトライトがLED照明並みの明るさで、室内を照らし出していた。
「まだ来るというのなら」マクナイアは、精いっぱい声に『ハク』を入れた。それでも甲高い子供の声しか出せなかったが。「シャボン玉に毒か酸を混ぜるわよ」
この声に兵士たちはみな、廊下に片膝をついて頭を下げ、ひれ伏していた。被り物の悪魔の衣装を頭から剥いで。
その後方からゆっくりと歩きよる白い長衣の優男……マクナイアは知っていた。
王宮次席魔術師の、ソルト。37歳……教育係。つまりマクナイアにとって父親代わりの……憎ったらしい男。
そいつはやはり、嫌味な笑い声をかけてくる。
「さすがです、マクナイア様。齢12にしてこれほどの戦術腕、有している見習いは他にいません……」
「非礼の償いをしてもらう」
「マクナイア様!? お戯れを……まさかわたくしを殺すなどと」
「バカね。『敵を知り己を知れば百戦危うからず』。こんな基本すら知らないで私の参謀だなんて。私の敵情視察を邪魔した報いは、とうぜんよ」
「しかし、その魔力は残っていない。そうですね」
事実だった。対してソルトはいつでもマクナイアを殺せる。声にいらつき、マクナイアはソルトをにらんだ。
「なぜ私を……」マクナイアは言いかけて口ごもった。
「再生させて助けたか、それも王女として。ですね」ソルトはくつくつ笑った。「いわゆるチートですよ。我が王国軍一個旅団数千名に憑依していた敵軍『深き者ども』の群れを、あなた一人の計略で壊滅させたのだから……武力も魔力もなかったのに……あなたの能力は傑出している」
「私はけっして、おまえらの手駒になどならない」
「いえ、駒はわたくしどもですよ、王女殿下」温和な声だが、ソルトの細い眼は冷笑していて誰しもぞっとするほど気味が悪く映る。「『孫子の兵法』、ですか……ならばまず、姫はご自分をお確かめください」
ソルトは魔法を使った。虚空に楕円形で等身大の鏡が現れ、マクナイアを写していた。
(私……こんな美少女!?)
と、当たり前だと気づく。肉体を完璧に再生できるくらいなら、顔の作りだって自在だろう。
しかし、よくある『可愛い』系の女の子である。動物……ウサギかリスか? の縫いぐるみのようなもので、こんなルックスの子は、幼いころは可愛いのだが。大人になるとたいてい人並みになってしまうものだ。
対して、我島として生きていたころは、自慢だが人形みたいな『美人』系だった。モデルルックス、大人の女である。
そう、我島先生として生きていたときの……教え子たちと戦わねばならないのか?
みんな大人になっているはずだ。生き延びているのなら。
教え子たちと……実の息子。
あの子は父の嫌な点ばかり似すぎた。能力面は。対して性格は……とても従順だった。それが片親で生きる処世術だったのだろうけれど。
……? ……!?
(名前が……思い出せない。なぜ? 他の教え子たちはほとんど忘れていないのに、よりによって実の息子の名が……)
しかしそれにかまけている時間はなかった。
マクナイアはひとこと命じ、ソルトたちを下がらせると、また『検索』のために一人水面を覗き込んだ。
疲れていたが、急いでいた。まだ敵の戦力どころか、味方の戦力も把握していないのだから!
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