顔のない男(前)
あれから、私は普通にくらしている。
自分で決めた『戒律』通り、夕方起床して、家事と祈りをすまし、森で食材を確保する。相変わらず、兎は捕まえられない日々。
……いつか、下山してセレス王国以外の国で買い物をしたいと思うけど、国境付近は厳しい道のりで、簡単に行き来できない。あと、お金がない。
お金になりそうなのは、一番高価そうな濃い紫のローブと山で採れたもの、それと自分の髪かしら。
山で採れるものを換金できるかは期待できないわ。だって、他の人達が同じ事をしているもの。
ローブは私にとって数少ない暖かい着物の一つ。
山は寒くて、これがないとキツイわ……
自然と残るは髪だけね。幸い、貴族生活の強要で髪は伸びてるし、もう少し伸びるまで待つつもり。
ある程度の食糧を確保したら下山しようと思う。
強いて不安があるなら、他の人がここへ立ち寄ること。
中でも、熱心な女神教徒が立ち寄ったら、教会を破壊されるどころか私の命まで危うい。
まあ、祈れればいいのだから、最悪、ここから逃げても問題ないわ。
その時になったら、ね。
◆
【新訳■■■教聖書より 顔のない男】
ある日の昼間、アンリエッタが小屋で寝静まっていると、国境を越えたある一団が教会に訪れました。
彼らは女神教の巡礼者でした。
休憩のつもりで教会を訪れた彼らでしたが、そこが異教の教会だと分かり憤りました。
新しい教会で、洗濯物もありましたから、きっと誰かいると教会の奥へ無理矢理押し入りました。
教会の奥にある薄暗い物置に男の後ろ姿がありました。
一団の長が厳しく問いただします。
「貴様! この教会はなんだ!! 異教徒か!」
そしたら、男が振り向きますと、彼の顔はありませんでした。ポッカリと空洞があったのです。穴の底はどこまでも続く漆黒でした。
それを見た人々が恐怖に慄くと、穴の底から嗤い声が聞こえてくるのです。
男女ともわからぬ、人間の声かも定かではない、無数の嗤い声を耳にした彼らは恐怖のあまり、一目散に逃げ去りました。
彼らがようやく走り終えた頃、辺りは深い霧に覆われだしました。
あれは何だったのでしょう。人ではありませんでした。彼らが各々思う中、一人が「アレは教会のステンドグラスにあった異形とそっくりだ」と言いました。
一団の長は恐怖を怒りで誤魔化そうと、叱咤します。
「ふざけるな! 女神様以外の神など虚構なのだぞ!!」
「で、ですが……ならば、あれはなんだったのでしょう」
「きっとあの異教徒による精巧な仮面だったに違いない」
いいや、きっと仮面などではないと誰もが顔色を悪くしていた時、またもや不気味な嗤い声が聞こえました。
霧の中にあの顔のない男がいるのです。
「舐めた真似を! あの者を捕らえるのだ!!」
長が声をあげましたが、皆、恐怖で動けませんでした。
仕方ないので、長が勇敢にも顔のない男へ飛びかかりました。すると、どうでしょう。長の姿がフッと消えてしまいました。
濃い霧で見えませんでしたが、その先は崖になっており、長はそこから落ちてしまったのです。
長が底で無惨に肉体が潰れると、宙を浮いている顔のない男の嗤い声がゲラゲラとけたたましいものに変わりました。
哀れで無様な様を本心から愉快でたまらないという嗤いに、人々は絶望して顔のない男から逃げていくのでした。