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二一:〇二:五五

二一:〇二:五五


 血で濡れた剣を大トカゲの鱗に擦りつけた。ザラついた大トカゲの皮膚が自らの血で赤く染まる。鱗をなでた、ブツブツいう感触が剣を伝わってくる。そこまでしても血糊は剣の刃から完全に消えることはなかった。あまり血糊がついていると、刃の切れ味に影響しそうだ。いざというときに役に立たなければ、意味がない。桐元はそれが心配になったが、かまってはいられないほどの臭いで鼻が曲がりそうだった。

 桐元と沙紀は赤い通路を進み、出口の扉を探した。熱気の為、二人の服の中は汗ですっかり湿っている。額から汗が吹き出る。顔には汗の水滴が無数に浮かび上がっていた。

「どうして、あのトカゲの攻撃が急に止んだの?」沙紀が汗を拭いながら訊いた。

「これさ」桐元は首に下げた笛を摘んで見せた。胸から流れた汗で蒸れて光っていた。

「笛?」

「そう、この笛だ。大トカゲは首に皮が巻かれていたんだ。ちょうど耳の部分にね。多分、そこに何か細工がしてあったんだと思う。笛の音を聞くと大人しくなるような、なにかのね」沙紀は渋面を作った。今の説明では理解出来ないらしい。

「……どうしてそんなことをする必要があるの?」

「アイテムの効果をつける為に、わざわざ弱点を作ったんじゃないかな?」

「アイテム? 弱点?」沙紀は首をかしげた。その拍子に顎から一滴の汗が落ちた。

「ゲームによくあるだろう? 魔法のアイテムって」

「ゲームって、なんの?」

RPGロールプレイングゲームだよ」

「RPG? ドラクエとか、ファイナルファンタジーとかのこと?」

「そう。でも、俺の言っているRPGはもっと古いやつだけどね。この迷宮はD&DとかT&Tといったテーブルトーク型のRPGを模擬して作られている気がするんだ。パソコン版で言えばウィザードリィやブラックオニキスが、やや近いかな」

「テーブルトーク?」

 沙紀はさっきから鸚鵡返しの質問ばかりだ。確かに彼女にとってチンプンカンプンの話題に違いない。それに比べ、桐元はこの手の話題に詳しい。さきほどの戦闘で大量に分泌されたアドレナリンのせいでちょっと気分が高なっていたためか、意気込んで説明を始めた。

「俺達の年代だとテレビゲームのRPGが一般的だけど、ファミコンやパソコンが普及するまではPRGはボードゲームがメインだったのさ。プレイヤーがひとりひとりのキャラを動かして数人のパーティを作り、ダンジョンを冒険する。その過程で宝物を手にしたり、罠に掛かったり、モンスターと戦ったりするんだ。最終的な目的は色々だけどね」

「じゃあ、さっきの大トカゲはモンスターってこと?」

「そういうこと。現存する生物の中ではもっともモンスターじみているだろう? コモドオオトカゲはドラゴンにそっくりだしね。この迷宮はダンジョンマスターの用意した、巨大なゲーム盤ってわけだ」

 しかも性質の悪い、と桐元は心の中で付け加えた。

「うんと……、ダンジョンマスターってなに?」

「このダンジョンを作った人間だよ。ゲーム中では事実上、神ということになる。ダンジョンマスターは絶対権限を持っていて、プレイヤーは彼に逆らえない。テレビゲームだとダンジョンマスターは不在で、コンピュータが自動的に細かいところをやってくれているから気がつかない人が多いけど、テーブルトークではダンジョンマスターがすべてをやるんだ。そこがテレビゲームとテーブルトークの最大の違いであり、魅力でもある」

「ううん……なんか、よくわからないよ」

 沙紀は眉を寄せ、困った顔をした。彼女には、ちょっと難し過ぎたようだ。

「ええと……例えばテレビゲームでよく村人と会話するだろう? 会話の中から『どこどこの洞窟には魔法の杖があるらしい』とか『これこれの森には魔法使いがいる』とか、有力な情報をくれる場合がある。

 テーブルトークだと村人を演じるのはダンジョンマスターの仕事になるんだ。店で武器を買うときもダンジョンマスターが店員をやるしね。プレイヤーが値切ることも出来るし、マスターがプレイヤーにわざと不良品を押し付けることも出来る。つまり、限りなく現実世界に近づくことが出来るのさ。

 ダンジョンの中にモンスターをどういう配置にするかも、罠を何処に仕掛けるかも、すべてダンジョンマスターの一存で決めるんだ」

「ダンジョンマスターの思いのままってわけね」

「そう。その時々によって好きなようにゲームをアレンジ出来る。ゲームの最中でさえも、それは可能なんだ。気に入らないプレイヤーは一歩、歩く度に罠に掛かる、とか、妙に強力な敵ばかりが現れる、とかね。いい意味では臨機応変に出来るし、悪い意味ではバランスが欠けてしまう恐れがある」

「バランスが欠けるとどうなるの?」

「テレビゲームの世界で言えば『くそゲー』かな? テーブルトークだと、プレイヤーがやりっぱなしで家に帰るね、普通」

 沙紀は「ふうん」と気のない返事をした。この話は、たいして彼女の興味をそそらなかったらしい。切れ長の目が左右に動き、それから思わせぶりに上を向いた。

「それでRPGと、その笛とどういう関係があるの?」

「テレビゲーム版にも、よく魔法のアイテムがあるだろう? 翳すと敵が逃げる、とか、火を吹く杖とか、空飛ぶ絨毯とか。それのひとつがこの笛ってことだよ。でもまさか、この世に魔法があるわけじゃないので、ちょっと工夫しているってわけ。笛を吹けば大トカゲが大人しくなるってのは、いかにもゲームでありそうなアイテムだろう?」

「ふうん……でもなんで、知樹はそんなこと知っているのさ? オタクなの?」

 沙紀の目がオタクを見る目に変わった。桐元を変質者、またはその同類と決めつけている目だ。ただちょっとだけ違うのは、少なからず愛情が感じられることくらいだ。

「オタクじゃないぜ、俺は。死んだ親父が、テーブルトーク好きでさ。子供の頃、よくつきあわされたんだ。子供が大人のマージャンにつき合わされるのと同じだよ。

 でも、ひどい親父でさ、俺ひとりで、戦士と魔法使いと盗賊と僧侶、つまりワンパーティ全部やらされたんだぜ。よくルールも分からなかったのに……。当然、親父はダンジョンマスターでよ、妙な怪物をたくさん作っていたんだ。中世ヨーロッパが舞台なのに、ヤマタノオロチなんかが出て来るんだぜ」

 父親の姿が脳裏に浮かんだ。桐元を前に熱心に怪物の説明をする父……。桐元にとっては父親の道楽に付き合わされて迷惑なはずだった。それでも桐元にとって、数少ない父親の記憶だった。こうやって話している内にも、心の中がわくわくしてくる。死んだはずの父親が近くに居るような、そんな錯覚さえ感じ始めていた。

「なんだか、楽しそうね……」沙紀がくすくすと笑い声を上げる。

「楽しいものか、宿題も手伝ってくれないくせに、自分の遊びにつき合わせやがって。ほとんど毎週末、拷問だぜ、まったく……」

「いいじゃん、お父さんとの思い出があるだけさ。わたしにはないもん……」

 桐元は押し黙ってしまった。うかつだった……。自分も沙紀も、早くに両親を亡くしている。それでも桐元の方が、父親との記憶があるだけマシなのだ。沙紀の父親は生活に追われていつも忙しく、彼女を構ってはくれなかった、と昔に聞いたことがある。しかも、気がついたら、そのままポックリ逝ってしまったのだ。

 桐元は黙って歩きながら、考えていた。俺よりも沙紀の方が不幸なのだろうか……。

 思えば桐元が、他人に父親の話をしたのは初めてだった。なぜ話してしまったのか?

 いや、なぜ、今まで話さなかったのだろうか? ドラゴンとの死闘で、死を感じたからだろうか? 桐元が、はじめて死を身近に感じたのは父親の死のときだった。死の思考が無意識にだぶったのかもしれない。そう考えると、通路の熱気さえも忘れた。

 目の前に扉が現れた。いつの間にか、二人は扉にたどり着いたようだ。

 扉の形状は今まで見たものと変わりなかった。扉の左側には何もない。右側の、ボタンがあるはずの場所には、金属のカバーがかかっている。

「ねえ、ボタンがないよ。扉の右にも左にも」

「多分このカバーの中だな」

 桐元は壁から突き出た金属製のカバーを素手で叩いた。コンッ、という硬く渇いた音がする。引いたり押したりしてみたが、一向に動く気配はない。どうすれば開くのだろう? 桐元はカバーの前にしゃがみ込んで、まじまじとカバーを見た。カバーの上に小さな鍵穴のようなものが見える。鍵穴があるということは、鍵があるのか?

「これ、なにかな、知樹? 鍵?」沙紀も鍵穴を発見し、先回りして訊いてきた。

「鍵だよな、やっぱり……」

「でも、わたし達、鍵なんか持ってないよ。カードキーしかないもん」

「ああ、これは普通の鍵だよ。カードじゃなくて、金属の。つまりは、どこかで手に入れないといけない、ということだけど……」

「でも、地図には何も描いてないよ」

 沙紀は地図を広げてまじまじと見た。確かにここまでの通路で手に入れたアイテムは、大トカゲ封じの笛だけだ。ここまでの通路のどこかに鍵が隠されている可能性もあるが、すべての通路を探し回っている時間の余裕はない。二十四時間の制限時間付きでは、どう転んでも鍵は見つからないだろう。

 だが、それはゲームマスターも分かっているはずだ。開かない扉があっては通れない。そして、ひとつでも扉を通れないチームがあれば、カードキーを七枚集めることは不可能となり、すべてのチームがゴール不可能となる。ゲームとしては面白味のない、最悪のシナリオだ。

「考えられるのはひとつだな」

 二人は通路を戻って大トカゲの死体のところに向かった。全身が火照るように暑く、汗が止まらない。早くここを出なければ、干からびてしまうだろう。桐元は足を速めた。

 大トカゲは紫色の舌を出して倒れていた。まさに絶命、といった顔だ。周りには、さっきよりも更に強力な臭いが立ち込めている。熱気と湿気を帯びた空気がトカゲの死臭と絡み合って、滑りを帯びて体に纏わりつく。

 閉め切った通路なので蝿が飛び回ることはなかったが、これが屋外ならば、ハエの大群がたかっていただろう。桐元は吐き気を堪えながら剣を抜き、刃の腹で大トカゲの首を押して、横に傾けた。素手で触って噛みつきでもしたら食いちぎられる、と警戒したからだ。だが、大トカゲは完全に死んでおり、その心配はないようだ。

 桐元は剣をしまった。それから、大トカゲの巨大な頭を足の裏で押しこんで曲げた。これが人間の死体なら罰当たりこの上ないが、トカゲ相手では良心も痛まない。大トカゲの喉が靴で押されて上に向いた。スポーツ靴のゴム底に、固い布団を押しているような感触が伝わる。大トカゲの皮膚の気味悪さに顔を顰めながら、桐元は首の下を捜した。

「あったぞ!」

 思ったとおり、革製の首輪に金属の鍵がぶら下がっていた。鍵は銀色の金属で出来ていて、大きさから判断して、出口の扉にあるカバーの鍵であることは間違いなさそうだ。鍵は小指くらいの大きさで、ピッキングに強いディンプルタイプだった。

 大トカゲを倒し、鍵を奪わなければ扉は開かない、というわけだ。よく手が込んでいる。テレビゲームなら「ピロリン、鍵を手に入れた」と勝手にやってくれるが、現実の世界だとそうはいかない。イマイチ親切心に欠ける。ダンジョンマスターの素顔が垣間見えたような気がした。

「沙紀。俺がこのまま足で抑えているから、その鍵をとってくれ」

「ええっ? わたしがやるの? やだあ」

 沙紀の顔が、幽霊でも見たかのように歪んだ。トカゲの死体でこの顔ということは、人間の死体を触れと言われたら、確実に気絶するだろう。

「いいから早くとれよ。トカゲを押さえている方がいいなら、変わってやるぞ」

 沙紀は大きな鼻息を吐いた。不詳ながら同意の印だ。

「首輪に剣の先を差し込んで切り取るんだ」

 沙紀は気味悪そうに顔を顰めながらも、剣を抜いて首輪に切れ目を入れた。「臭い、臭い」を連発しながらも、なんとか鍵を切り取った。所要時間、およそ三分。

「これだな、間違いない」

 桐元は鍵を受け取ると、逃げるように大トカゲの死体から遠ざかった。沙紀を置いて、早足で出口に向かう。とにかく、臭いがひどい……。

 沙紀は「ちょっと待ってよ」と言いながら剣をしまい、泣きそうな顔で、桐元の後を追いかけてきた。


 再び出口の扉に着くと、桐元はカバーの上にある鍵穴に鍵を差込んだ。鍵はすっぽりと納まり、右に四分の一回転させる。途端にカバーが下にスライドし、いつも見る赤いボタンが現われた。桐元が躊躇なくボタンを押すと、すぐに扉が開いた。目の前に見慣れた白い通路が現れる。沙紀が真っ先に扉から体を出して両手を広げると言った。

「涼しい……」

 桐元は鍵を捻り戻そうとしたが、びくともしなかった。一度差し込んだら二度と抜けない作りなのかもしれない。他にも同様の通路がある可能性は大きい。この鍵があれば、もう大トカゲと戦わなくても済むかもしれないのに……。

 桐元は、うんうん唸って鍵と奮闘した。無駄だと分かっていたが賢明になって鍵を回そうとした。目を上げると、沙紀は両手を広げ、冷房の利いた空気を胸いっぱいに吸い込んでいるところだった。

「ああ、涼しいや。こっちの通路は空調が利いているよ。なにしているの、知樹。早くきなよ」

「ああ」

 桐元は鍵を諦めて扉を跨いだ。桐元の背後で、扉が勢いよく閉まる。人を挟まないように、ある程度の距離に誰かがいる場合は、扉は閉じない仕組みらしかった。

「ふぅ」

 桐元は溜息を吐いた。通路は確かに涼しい。赤い熱帯通路とは、まるで別世界だ。閉じた扉の右側にボタンがあった。押してみると、扉が電子音と共に開いた。目の前に赤い通路が再び現れた。締め出しになったわけではないようだ。通路を戻ることも出来るということだ。

 桐元が冷気を浴びながら考えていると、扉は一息ついて、すぐに閉まった。冷えた空気を胸いっぱいに吸い込み、肺に染みついた大トカゲの死臭を追い払った。それから腕時計型のタイマーに目を落とし、残り時間を見る。

 ゲームの残り時間は二十一時間を切っている。桐元はゲーム開始から僅か三時間足らずで、早くもどっと疲労を感じていた。度重なる罠と戦闘が精神を蝕んでいた。尾てい骨と肘が多少疼くが、怪我らしい怪我がないのがせめてもの救いだった。

「行こう……沙紀」

「うん」


 桐元達は次の地図上ポイントである黒丸まで警戒しながら進んだ。何事もなく通路を進み、あっという間にその位置までたどり着いた。桐元も沙紀も、締め切った通路で疲れ始めていた。その為、体力を温存しようと思い、申し合わせたように会話はしなかった。

 だが、目の前に何らかのポイントがあるとなれば別だった。

「黒丸だから、また罠だよね、やっぱり?」

 沙紀は緊張した声を上げた。桐元は沙紀の質問に黙って頷く。

「でも、なんで罠ばかりあるのかな?」

「プレイヤーを緊張させるためさ」

「緊張させる?」

「予測していないところに罠が現われれば、それ以降すべての通路を調べなければ、通れなくなるのが人情だろう? 罠があるかもしれない通路だったら、誰だって怖くて大手を振って進めなくなる。この効果は大きいぜ。特に地図なしの迷宮で罠ありとなれば、罠がない通路より何十倍も通過に時間が掛かるからな」

「ふうん……そうか。罠があること自体が、罠なわけね……」うまいことを言うな。

 桐元は沙紀にちょっと感心して、鼻を掻いた。

「それに罠を探すってことには別の意味もある。通路を探しても、必ずしも罠だけが見つかるわけじゃないからな。隠し通路を発見したり、アイテムを見つけたり出来るかもしれないだろう?」

 沙紀は「そうか」と、何度も頷きながら通路を眺めた。

「じゃあ、罠を探すぞ」

 桐元は剣を抜いて床を叩き始めた。ピラニアの水槽のときと同じ手順だ。同じ罠があるとは思えないが、それでも床を突く以外にどうしようもない。大トカゲの背骨を砕いたときについた血と脊髄が渇いて、剣の刃に赤くこびりついていた。剣を床に叩きつける度、鉄の臭いを放つ粉が零れ落ちた。

「わたしもやるよ、知樹は右をお願い」

 沙紀も剣を抜き、床を叩き始めた。今回は彼女も手伝う気らしい。二人は横に並んで床を叩いて進んだ。桐元は何気なく思い出した。父親とテーブルトークをやっているとき、何度も何度も、矢の罠にはまったことを。そのときは親父に「ほい、サイコロだ」と言われて、「何?」と聞き返したものだ。「矢だよ、矢の罠だ。一、二、三が出たら無傷。四が軽症、五が中くらい、六が致命傷だ。さあ、振った、振った」

 ほとんどサイコロゲームと化したゲームを、桐元はどうしても楽しむことは出来なかったが、親父は目をむいて楽しんでいた。

「沙紀、床と壁に気をつけろよ。矢が飛んでくるってのが、罠の常套手段だからな」

「了解」

 通路に剣を叩く音がこだました。これといっておかしなところもないままブロックの中をすり足で進んだ。さっきはブロックの半ばまで来たとき、急に床が外れてピラニアの水槽が現れた。その先にも罠はあったのだ。ブロックの大半を捜査し終わったとしても油断は出来ない。気を緩めないで進んだ。だが、それでもブロックの半分まで来ると流石に疲れてきた。

 剣が短いので、床を叩くときにどうしても中腰になる必要がある。腰に疲労が溜まり、違和感を覚え始める。桐元は手を広げて背伸びをした。大の字になって、背筋を伸ばす。若干だが血行が戻って腰が軽くなった。地下迷宮で腰痛は勘弁願いたいものだ……。

 突如、ゆっくりと上げた左手に何かが当たり、抵抗を感じた。高さはちょうど首くらい、場所は肘の辺りだった。

「なんだ?」

 桐元が呟くと、沙紀がこちらに顔を向けた。桐元は違和感を得て、左腕を上げるのを止めた。一度、腕を下げ、肘を見下ろした。左腕の、腕まくりした袖が、半開きのカエルの口のように、ぱっくりと裂けてしまっていた。まるで剃刀でさっくり切られたような、見事な刃筋だ。

 桐元は突然「かまいたち」にでも襲われたかと思い、息を飲み込んだ。だが、締め切った迷宮内で、かまいたちなどあるわけがない。

「どうしたの?」

「動くな、沙紀……どうやら、罠を見つけたようだ」

 沙紀は石像のようになって、その場で硬直した。その姿が「達磨さんが転んだ」を思わせ、滑稽だった。しかし、この状況ではとても笑えそうにない。周囲は罠に囲まれているかもしれないのだから。

 桐元は急に動くようなことはせず、何気なしに目を通路の先に向けた。首の高さの中空に目を据えてみる。何も見えなかった。何も見えないのだが、微かに線のようなものが空気中に透けて見えた気がした。

 桐元は慎重に一歩だけ下がり、ゆっくりと剣を振り上げた。一瞬だけ見えた線に向かい、ゆっくりと垂直に刃を下ろす。剣が金属音を放ち、空中で刃の動きが止まった。

 やはり、何かある……。

 剣を十センチほど持ち上げ、再び下ろすと、何かにあたった反動で剣が少しだけ跳ねた。剣を細かく振り、同じ動作を繰り返すと、空気を切るビンビンッ、という音が鼓膜に響く。

「そこになにがあるの、知樹? なに、それ?」

 沙紀は律儀にも、さっきの場所から一歩も動かずに言った。ちょっとでも動くと、自分が、「達磨さんが転んだ」のオニになるとでも思っているようだ。

「金属のワイヤーだ。しかも目に見えるか見えないかってほど物凄く細いぞ。壁から壁に渡してあるようだ。気をつけろ、サクッと切れるぞ」

 大トカゲの亜熱帯通路で暑さに耐えられずに腕捲りしていて正解だった。腕まくりをしていなければ、桐元は薄い袖の左腕を切っていただろう。それどころか罠に気づかず、ここを歩いていれば、首を半ば切断していたかもしれない。

 桐元は背筋に冷たいものを感じ、震えながら安堵の息を吐いた。桐元はワイヤーの下を潜った。剣でワイヤーの下を探すことも忘れない。頭上にだけ気をつければ、下にはワイヤーはないようだった。罠のワイヤーを超えてから、更に剣を縦に何度か振って他にワイヤーがないか確認しながら進んだ。

「ここに首の高さにワイヤーがあるから気をつけろよ」背後の沙紀に言った。

 桐元は用心深く剣を振りながらブロック内を進んだ。罠の種類さえ分かれば、対応は簡単だった。剣を縦横に振りながら進めばいい。剣に抵抗があれば、それが罠だ。今のワイヤーは横向きだったが、縦や斜めに引いてある可能性も充分にあり得る。剣を縦にも横にも振る必要があった。桐元が次のブロックに移る寸前、振り下ろした剣が微かに抵抗を受けた。その場所に何度も剣を当てると、さっきと同じく空気を切る音が聞こえた。

 罠だ。脛の高さにワイヤーが張られている。

「ここは足だ。気をつけて跨げよ」

 結局、このブロックには二本のワイヤーがあったようだ。双方の壁から垂直に伸びたワイヤーが首と脛の高さに張られていた。それ以外の罠は見つからなかった。沙紀は一本目のワイヤーを大げさにしゃがみ込んで通過し、二本目は必要以上の大股で跨いだ。沙紀は怪我ひとつなく罠をすり抜けることが出来た。上出来だ。

 だが、こちらのブロックにたどり着いて緊張の糸が解けたのか、彼女は床にへたり込んでしまった。

「おい、沙紀、しっかりしろよ」

 桐元はそう言いながら、剣を鞘にしまった。腕まくりした左手の袖が気になったので、手首まで伸ばしてみる。袖はボロ布のようにところどころ穴だらけになっている。つくづく切れたのが自分の皮膚でなくて良かった、と思った。多少なりとも、自分には運があるらしい……。

「も、もう、イヤ……」

 沙紀は情けない顔でそう言うと、床を両手で叩いた。その拍子に床が抜けてピラニアの生簀が現れるのではないか、と本気で桐元は思った。彼女は呼吸を荒げ、肩を喘がせていた。彼女の中の気持ちが決壊し、ついに切れてしまったようだ。

「イヤよ、こんなの。いや……」

 沙紀は狂ったように叫び声を上げた。典型的なヒステリーだった。桐元はしばらく沙紀をそのままにしておき、言わせるだけ言わせておいてから、毅然とした態度で言った。

「なにを言っているんだ、俺を無理矢理、この殺人ゲームに巻き込んだのは、沙紀の方だろう?」

 桐元はそう言いながらも、逃げ出したい気持ちを抑えた。もし、ここで桐元が弱音を吐けば、沙紀は更なるパニックに陥る。そうなれば桐元達に生き残るチャンスはなくなるだろう。二人で協力しなければ、この迷宮から抜け出し、ゴールするのは難しい。いや、不可能だ。

 それにパニックに陥った仲間ほど手に負えないものはない。怖いのは敵だけではなく、足を引っ張る味方でもあるのだから。

「だって、こんなの馬鹿らしいよ。どうしてわたし達が、こんな危険な目に合わないといけないの?」

「ゲームに参加した以上、ゴールして大金を手にするか、死か、どちらかだけだ」

「わたし、止める。リタイヤする」

「無理だ……」

 桐元は天井を見上げた。ドーム型のガラスの中でカメラがこちらを見下ろしている。この会話まで、モニターの向こうの人間に聞こえているのだろうか?

「リタイヤとはつまり、死だ。諦めたら、俺達は死ぬ……沙紀だけでなく、俺も……」

 沙紀は床にへたり込んだまま頭をうな垂れていた。拳は力なく握られている。彼女は高額の賞金につられ、安易にゲーム参加したことを後悔しているのだろう。それは桐元とて同じだ。だが、一度ゲームに参加してしまった以上、ゴールする以外に生き延びる道はない。もう、賽は投げられたのだ。

「さあ、立って……」

 桐元は沙紀の腕を取って引き上げた。沙紀は不貞腐れた唸り声を上げながらも素直に立ち上がった。すでに今の状況がどうしようもないことは、彼女にも分かっているのだ。

「さあ、地図を見せてくれ」

 沙紀は尻ポケットから地図を出すと、桐元に突き出した。沙紀は暗い顔をしている。まるで決して晴れることのない悩みを抱えた子供を見ているようだった。彼女は精神的に相当まいっている。だが、それでも桐元は構わずに言った。

「次の扉を出ると、光チームと合流だ。戦う羽目になるだろう……」

「どうやって戦うの?」

 沙紀が震える声で言った。不安を湛えた目は控えめに光っていた。

「剣で切り結ぶんだろうな、やっぱり。彼等の動きを封じてカードキーだけ奪えば殺さなくても済むけど、あちらだって必死だ。剣を振りながら突進してくるに違いない」

「殺すの?」

「殺すか、殺されるか、だ」

 『殺す』と、明言するのだけは避けた。

 だが、答えは変わらない。通路で誰かに会えば、命を懸けた戦いを展開することになるだろう。つまり相手を殺さなければ生き残れないのだ。

 沙紀は喉を鳴らすと唇を噛んだ。顔には疲労と悔恨の情が浮かんでいる。

「これはサバイバルゲームだ、戦わなければ俺達が死ぬ」

「でも、人殺しなんか出来ないよ……」

 それは桐元とて同じだった。それでも心を鬼にして言った。

「だったら俺達は死ぬしかない。俺達はダンジョンマスターの作った迷宮に入った。ここはダンジョンマスターが考え、作り上げたゲーム盤の上だ。彼のルールに従わない者はどの道、排除される運命だ。法を犯したものが、国に処罰されるように。生き残りたければ、彼の作り出したルールに沿ってゲームをクリアするしかない。二〇時間以内にあと六枚のカードキーを手に入れなければ、俺達は確実に死ぬんだ」

 沙紀は黙って床を見つめていた。泣いていると思ったが、涙は出ていないようだ。これほど落ち込んでいる沙紀の顔を見たのは、喜一の自殺を責めた、高校生のとき以来だ。

 沙紀はあのときよりも数段大人びて見えるし、実際に大人になっている。だが、不安を隠そうとしないその顔には、少女の頃の面影が色濃く残っていた。そんな沙紀の表情を見ていると、桐元はあの頃の光景をイヤでも思い出してしまう……。

 桐元は脳裏に浮かんだ過去の記憶を掻き消すように、声を荒げて言った。

「別のチームに遭遇したら、剣を抜いて一気に襲いかかる。切っ先を制せば勝機も生まれるはずだ。俺は男を倒すから、沙紀は女を倒してくれ、いいな?」

 沙紀は歯を食い縛りながら、重々しく頷いた。

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