二一:四十:十二
二一:四十:十二
喉の渇きを潤すと、桐元と沙紀は不必要に巨大なトイレ部屋を出た。沙紀はしきりに文句を言いながらも、最終的にトイレの水を口にした。今後、迷宮内で水が補給出来ない可能性を考えると、懸命な判断だ。桐元は沙紀に、用を足すときにした「余計なこと」は言わずにおいた。それは無事ここを抜け出し、ゴール出来てから言えば済むことだ。ただ「たくさん飲んでおいた方がいい」とだけ、助言しておいた。
次のポイントは地図上の白丸の地点だった。トイレを出て通路を進むとすぐ、その場所に着いた。一見、何の変哲もないブロックだった。
「何があるんだろう、知樹?」
「さあなあ? 黒丸は罠、星はトイレか……。順当に考えれば、白丸はアイテムじゃないかな?」
「便利アイテムのこと?」
「ああ、ミスター・ラビが言っていただろう? ラビリンスには他にも便利アイテムがあるって。とりあえず手分けして調べてみよう。怪しいと思ったら手を出さないで俺を呼んでくれ」
桐元は左に、沙紀は右の分かれ、足早に壁に向かった。桐元は壁まで行くとある考えが浮かんで振り返り、もう一度沙紀の注意を促した。
「気をつけろよ、沙紀。黒丸が強力な罠で、白丸が軽い罠かもしれない。その逆だってあり得るんだからな」
背を向けていた沙紀の動きが一瞬止まった。今の桐元の言葉で緊張を余儀なくされたようだ。背中を丸め、喉の奥で声を鳴らす。
「わ、分かった」
沙紀に通路を探させるのは危険かとも思ったが、今はとにかく時間が惜しい。二十四時間以内に、本当にゴール出来るのか不安が募ってきた為でもある。今は、彼女にも手伝ってもらうしかない。
「沙紀、動く時は半歩ずつだ、いいな。それなら床が抜けても、ワイヤーがあっても、大事にはならない」
「うん」
桐元はいくつか、思い当たる注意事項を沙紀に告げながら壁を探した。まず壁から当たることにしたのは、ピラニアの罠が床だったからだ。同じく床に罠を仕掛けるのは考え辛かった。もちろん裏をかいて、もう一度床ということも十分に考えられはするが。桐元は、トイレと同じように、どこかにボタンでも隠れているかもしれないと思い、壁に手を当てて撫で回した。滑らかな壁は妙に冷たく輝いていた。頭の上から冷気と蛍光灯の明かりが絶え間なく降り注いでいる為に、壁は妙に冷たい。桐元は壁を正面に、上から順に手で触りながらしゃがみ込んだ。それが終わると半歩ずつ蟹歩きで横にずれ、それを繰り返す。半歩ずつしか動かない理由は、床抜けを警戒してのことだ。半歩づつの移動ならば、少なくても落とし穴に両足が落ちることはない。
何もないまま壁の捜査が終わった。今度は、まだ踏んでいない床、つまり通路の真ん中を探そうと考えた。振り返って沙紀の様子をうかがったとき、彼女はまだ壁の半ばあたりの位置だった。思ったよりも遅い。まだ、あんなところか……。トロいやつだ……。そう思って床に目を置いた。
「あったよ、知樹、来て」
声に驚き、桐元は沙紀を見た。沙紀は手をいっぱいに上に伸ばし、空調の為にある天井の隙間を指差していた。
「ほ、本当か?」
桐元は沙紀の背中に向かい、靴底で床を叩いて近づいた。おっと危ない。足を半歩ずつにして、ゆっくり歩いた。まさか、とは思うが、床が抜けたらかなわない。焦る気持ちを抑えながら、やっと沙紀のところまでたどり着いた。
「知樹、見て! あそこ、なにか光っているでしょう?」
桐元は沙紀の指の先に目を凝らした。確かに銀色に光る小さなものが壁と天井との隙間に隠れているのが見える。桐元は自分が壁にばかり気を取られていて、空調の溝の中にまで意識が回らなかったことにやっと気がついた。
「ねえ、なんだと思う?」
「分からないな」桐元は手を伸ばしてみたが、やはり手の届く範囲ではない。
「肩車しよう、俺が沙紀を持ち上げる。逆でもいいぞ」
沙紀は「馬鹿」と言って口を膨らませた後、ぱっかりと股を開いた。桐元は、しゃがみ込んで沙紀の股間に頭を突き通した。柔らかい臀部の肉が桐元の首を包み込む。桐元は沙紀の重みに顔を顰めながら、壁に両手をついて踏ん張った。
「お、重いな……」
「失礼ね」
下で踏ん張っている桐元には、沙紀の顔を見る術はないが、口を膨らましているのは間違いない。沙紀の太腿を握りながら、腰に力を入れて背筋を伸ばす。吐く息が勢いづいて、口と鼻から音を出して漏れた。女ひとり持ち上げるのにヒイヒイ言っていては大の男が情けない。腰が砕けそうになるのを、歯を食い縛って堪え、なんとか沙紀を持ち上げた。すると、すぐに彼女の声が上がった。
「取れたよ」
「ふうっ……」
やれやれ。思わずそんな言葉が脳裏に浮かんだ。桐元は立ち上がったのとまったく逆の動作で再びしゃがみ込んだ。桐元が沙紀を床に下ろし、彼女の股から頭を抜こうとして腿の上部を掴むと、くすぐったいのか彼女が内腿を引き締めた。沙紀の腿で首が絞まり、思わず呻き声が漏れる。
「く、苦しいだろ、沙紀……」
「ごめん、ごめん」
桐元は咳をしながら立ち上がった。目にも涙が浮かんでいた。ここで水を一杯、と言いたいところだが、近くには水道もなければ、水の吹き出るトイレもない。
「それで一体、何があったんだ?」
桐元は溜息を吐きながら沙紀に聞いた。何度か喉を動かして唾を飲み込む。
「笛みたいね、これ」
沙紀は鎖にぶら下がった銀色の笛を振り子のように横に振った。それはちょうど、煙草を四分の一に切った程度の非常に小さな笛で、恐らくステンレス製だと思われた。桐元は手で椀を作ってそれを受け取り、口に当てて息を吹きかけた。耳に聞こえるか聞こえないほどの高音が笛から出た。桐元がその音色を奏でながら首を傾げていると、沙紀は尤もな疑問を口にした。
「何かしら、この笛? 随分と高域の音よね。なんか嫌な音……気持ち悪い」
「ああ……何に使うのか想像もつかないな」
「どうする?」
「捨てるわけにもいかないだろう。役に立つかもしれない」
沙紀は曖昧に頷いた。役に立つわけがないじゃん。彼女の目はそう言っていた。
桐元は鎖を広げ、頭を通すと笛を首にかけた。首の下に小さな笛が横たわった。なんの役に立つのか分からないものを手入するのに、余計な時間を取られてしまったようだ。
「もう、ここはこれでいいだろう。他にアイテムがあるとも思えない。先を急ごう」
「うん」
二人は気を取り直すと、再び通路を進んだ。
桐元と沙紀が、通路をさほど進まないうちに再び扉に突き当たった。扉は金属製で密閉型、右脇に赤いボタンがある。どうやらトイレではなく、暗闇の通路同様、道を塞ぐ為の扉のようだ。
「また暗闇なのかな?」
沙紀は不安そうに眉を寄せて言った。もし暗闇の通路だとしても、解決策を知っている分、気が楽だ。片手を壁に着けて歩けばすむ。だが、今回はそうではない、と桐元は思った。どうも、暗闇以外である気がしていた。
「暗闇じゃないだろう。地図に網掛けがない」
「そうか……じゃあ、何かな?」
「分からない」
桐元は拳で扉を軽く叩いてみたが、低い音が返ってきた。扉はかなり分厚いようだ。銃で撃ったとしても跳弾するだけで貫通しそうにない。もちろん銃など持っていないが。
「どちらにしろ行くしかないな。沙紀、ボタンを押してくれ」
沙紀は頷くと、扉横のボタンを押した。今回は特に警戒もしないで扉の前に立っていた。まさか、扉が開いた途端、何かが襲ってくることもないだろうと思えた。扉が両側にスライドすると、目の前に通路が現れた。一目でこの通路が普通ではないことが分かった。今までの真っ白い通路と違い、扉の先は真っ赤だったからだ。途端に、むっとする熱気が桐元の顔を打った。この通路の中は空調が利いていないのか、まるで熱帯のように温度が高い。いや、空調が利いていないから、というレベルではない。かなりの高温だった。
「地下サウナかな……そんなわけないよな……」
桐元は赤い通路を気味悪く思ったが、進まないわけにもいかず、静かに足を入れた。後ろにいた沙紀を手招きすると、彼女は躊躇しながらも通路に入ってきた。同時に、音を立てて扉が閉じる。
「なんなの、ここ? 凄く暑いよ」
「それに湿気もあるな」
「空調が壊れているのかな?」
「そうじゃないだろう。空調が止まっているだけじゃ、これほどの湿気はないはずだ。それに通路が赤いのも気になる。恐らくこの環境は人工的に作り出したものだろう」
桐元は頭を動かし、通路の壁を見渡した。壁が赤く見えるのは、どうやら明かりが赤く灯ってからのようだ。通路自体は、壁も床も今までとなんら変わるところはない。桐元は鼻で息を吸い、口で吐きながら、少しでも不快感を下げるために腕まくりをした。長袖のままでは熱くてたまらない。途端、剥き出しになった腕の皮膚が熱でひりひりした。しかも、臭い……。この通路は、どことなく動物じみた臭いがする。
「ねえ、人工的に作ったって、どういうこと?」
沙紀が訊いてきた。どういうことだ? 桐元はゆっくりと足を進めながら、心の中で鸚鵡返しに沙紀の言葉を繰り返した。天井を見上げると案の定、カメラが短い間隔で設置されている。この先に何かあるのは間違いなさそうだ。少なくても普通ではない。妙な予感がして、胸騒ぎが止まらない。桐元は手に剣がないことに思い立ち、腰の剣を引き抜いた。銀色のはずの刃が赤く鈍く光っていた。
そのとき、どこからともなく何かが擦れ合うような音がした。
「なに、今の音?」沙紀が不安に抱きつかれたような声を上げた。
「気をつけろ、何かいる……」
桐元は声を落しながら沙紀に向かって言った。彼女は、自分の腰にある剣の柄に手を置いてはいたが、それでもまだ剣を抜く気はないようだった。通路はT字になっている。桐元は細心の注意をはらいながら顔を突き出し、左右を見た。右側が突き当たりになっているが、そちらには何もいなかった。桐元は突き当たりの方は無視し、左に進んだ。
ガサッ、ガサッ。再び妙な音が通路に響いた。まるで誰かが、ザルの上で小豆を転がしているような音だった。
「ねえ、知樹、なんの音?」沙紀が心細い声を上げた。
押さえ気味に声を出してはいるが、通路が静かなのでどうしても声が響いてしまう。桐元は「しっ」と言ってから、ゆっくりと足を進ませると、沙紀は桐元の後ろから離れないようについてきた。彼女の不安が空気を伝わり、ひしひしと感じられた。
「沙紀も剣を抜いておくんだ」
「ええっ? わたし使えないよ、こんなの……」
「いいから言うとおりにしろよ。それに俺との距離を二メートル以上開けて、ついてきてくれ。間違って背中を斬りつけられたらたまらないからな」
沙紀は口を膨らませはしたが、表情は硬いままだった。沙紀は素直に桐元の指示に従い、剣を抜いた。彼女の右手にも赤い刃が光る。剣を握っているというよりも、剣に握られているような姿だ。これほど剣の似合わない人間も珍しい。
桐元は角を曲がり、開けた長い通路に出た。
「うっ……」桐元は思わず声を漏らした。
通路の一番奥に何かが横たわっている。赤い光を浴びている為、赤みがかって見える。それが何なのか、一瞬では分からないが、人間並かそれ以上の大きさがあった。微かに動いていることから、動物であろうことは間違いない。
マズい……桐元は黙って息を飲み込んだ。あの姿は……。
背後で沙紀の足音がした。桐元は振り返って彼女に目配せしようとしたが遅かったようだ。彼女の悲鳴が通路に響く。
「な、なんなの、あれ?」
沙紀は通路奥に居座る大型動物を見て、我慢出来ずに声を張り上げてしまった。桐元は動物に向き直り、叫び声を背中に受けながら身を固めた。沙紀はパニックを起し、剣を握ったまま、桐元の背中にしがみついてきた。沙紀の腕が桐元の腹に回され、彼女の剣が前方に突き出す。もう少しで袖を捲り上げた腕を切られそうになる。
「馬鹿、よせ、危ないだろう」
その動物は低い姿勢から頭を持ち上げ、こちらを睨みつけた。こちらを発見したようだ。頭を上げても、姿勢はかなり低いままだった。桐元の腰の高さにも及ばない。呻きとも、咆哮ともつかない声が通路に轟く。首をもたげたその様は、桐元が子供の頃見た、ある動物そのままだった。ただし、大きさは段違いにデカイ……。
「な、なんなのよ、あれ、恐竜?」
「違う、トカゲだ。しかも、ワニ並みにデカイ奴だ」
「う、嘘でしょう? あんなトカゲがこの世にいるわけないじゃない!」
「多分、世界最大のトカゲ、コモドオオトカゲだろう」
頭から尻尾の先まで優に三メートルはあろうかという大トカゲが、こちらに頭を向けた姿勢で舌を出し入れしている。首には金属の棘が生えた首輪をはめている。ペットにしては余りにも可愛げのない装飾に、桐元は度肝を抜かれた。悪意の塊としか言いようのない外見に、気分が悪くなる。
大トカゲは紫色に光る舌を伸ばしながら蟹股の四本足を伸ばした。足は短いので歩き辛そうに見える。大トカゲは、ちょっと首をかしげた格好で、こちらに向かって突進を始めた。蟹股とは思えないほど勢いが良く、高速で接近してくる。
「ちっ」桐元は舌打ちを上げた。
大トカゲのあの行動は、完全に捕食目的だろう。彼は、桐元と沙紀を餌として認識したようだ。彼等にあるのは獰猛な食欲と、旺盛な性欲だけ、と昔、図書館で読んだ動物図鑑の記述を思い出す。一度喰らいついたら離さない、獰猛で原始的な捕食動物だ。
大トカゲは桐元よりも太い、鱗で覆われた胴体をくねらせながら、物凄い勢いで接近してきた。
「沙紀、逃げろ」
「ええ? でも、知樹はどうすんのよ?」
「戦うしかないだろう」
桐元は目の前まで迫った大トカゲに剣を突き出した。大トカゲは無表情のまま、桐元の攻撃をいともあっさりと外した。野生動物のもつ超人的な反射神経に、桐元は驚嘆した。鶏並と思っていた大トカゲの知能は、その獰猛さと反射神経で、取り乱した人間の英知を完全に凌駕ーしている。大トカゲは上半身を持ち上げ、大口を開けて桐元に圧し掛かってきた。桐元の頭がすっぽりと入るほど巨大な穴が目の前に迫る。水の腐ったようなトカゲの息を嗅ぎながら、桐元は叫んだ。
「おおっ!」
桐元は手に剣を持っていることも忘れ、背中を屈めてその場を逃げ出した。背後では沙紀が大声を上げながら無意味に剣を振り回している。桐元は沙紀を庇いながら壁際まで下がった。壁まできてから身を翻し、大トカゲの横をすり抜けて通路の反対側に逃がれる。巨大な尻尾が床を這い、桐元の足がすくわれそうになる。
桐元はのたうつ尻尾を避けようとして、無防備な姿勢で床に倒れ込んでしまった。肘から床に叩きつけられ、前腕がジーンと痺れる。骨が折れたかと思うほどの衝撃だった。痛みが肘を超え、肩にまで達した。だが、今はそんなことに頓着しいている暇はない。剣を握る手が痛むが、ここで剣を手放すわけにはいかない。
大トカゲは頭を捻り、桐元の姿を認めると、追ってきた。だが、体が長い分、Uターンは苦手のようだ。大トカゲは鋭く伸びた爪を壁に押し当てながら、何度も引っ掻いた。黒板を引っ掻く爪の様に、生理的な苦痛を呼ぶ音が真っ赤な通路に反響した。
桐元は床から起き上がり、膝を着いて体勢を戻そうとした。必死で動いているのに、自分の動きがのろく感じる。桐元は何とか立ち上がり、大トカゲに剣を叩き込もうと振り上げた。巨大な尻尾がいきなり襲ってきて壁に当たり、凄まじい音をはじき出す。
桐元は上体を仰け反らせて尻尾の攻撃を避けたのでバランスを失い、再び床に尻餅を着いてしまった。尾てい骨を強かに打ちつけ、腰全体が痺れる。苦痛が背骨を伝わって頭蓋骨に達した。それでも、あの鱗で覆われた尻尾を食らうよりもよほどましだ。あんな尻尾の一撃を喰らったら、ひとたまりもない。
桐元は額を落ちる大量の汗をものともせず、剣を握り締めた。突如、大トカゲは頭を左に向けた。それから大トカゲは、桐元を無視して勢い良く通路を走り出した。
どうした? 何故、こっちに来ない? 答えはひとつしかない。つまり、もうひとつの餌の方に向かったようだ。カリカリと爪が床を打つ音を残し、大トカゲが猛スピードで突進を始めた。
「ま、まずい、沙紀の方に……」
桐元は床から立ち上がり、尾てい骨を摩った。ヒビでも入ったのかと思うほど痛い。 それでも、もつれる足を引きずるようにして大トカゲを追った。
沙紀がやられる……。桐元は歯を食いしばって走った。通路の角を曲がると、沙紀が行き止まりに向かってまっしぐらに走っていくのが見えた。金属の棘をあしらった革の首輪をつけた大トカゲが、気でも狂ったかのようにそれを追っている。
大トカゲは重戦車のごとく沙紀に突進していた。その姿には躊躇も後悔もない。沙紀を見て、食欲だけが湧き起こり、その欲望を満たすために行動しているに過ぎない。
沙紀は悲鳴を上げ続けていたが、既に声は擦れてしまっていた。剣を振り回してはいるが、団扇の様に非力に見えた。あれでは、例え大トカゲに剣を当てられてもダメージは望めない。
行き止まりの壁を背にして沙紀が立つ。大トカゲは声を上げて沙紀に襲いかかった。
「きゃあああああっ」
「沙紀ぃっ」
沙紀は体を横に滑らせて大トカゲの突進をかわすと、頭を抱えて床に転がった。大トカゲは目標を失い、頭から勢い良く壁に激突した。通路に、除夜の鐘を思わせる轟音が響いた。大トカゲは無残に、壁に弾き返され、ショックの為にきょとんとしている。それでも平然と口から舌を出し、何もなかったかのように、沙紀に目を向けた。生きた化石のようなこの下等捕食動物は、壁に激突したくらいでは脳震盪を起こすこともないらしい。
桐元は大トカゲの背後から攻撃を加えようと接近したが、巨大な尻尾が常に左右に動き、壁を打つので、たじろいだ。
早く倒さなければ……。沙紀を襲おうと横を向いた大トカゲを見ながら、桐元は急に思い出した。子供の頃、捕まえた小さなトカゲ達は首の辺りに穴があった。それが耳だったはずだ。だが、この大トカゲは、革の首輪が完全に耳を覆ってしまっている。これでは耳が聞こえないのではないだろうか?
どうでもいいことのように思えたが、桐元の中で急速に何かが回り出した。
耳……音……? 首輪……。
最初は、殺傷力を上げるために首に棘をつけているのかと思った。だが、その割には首輪が幅広に過ぎる。なぜか? 桐元は頭の中で閃きが起こるのを感じた。
まさか……?
沙紀が通路の角で逃げ場を失い、悲鳴を上げる。沙紀は半狂乱となり、大トカゲの口から半メートルの距離もない行き止まりの角で泣き叫んでいた。大トカゲが巨大な口を開け、沙紀に襲いかかろうと身構えた。桐元は首から提げた笛を思い出した。鎖を引き出し。口に当てて思い切り吹いた。耳にかろうじて聞こえるか聞こえないかの音が入ってくる。大トカゲの開けた口が沙紀に襲いかかる瞬間、時間が停止したかのように止まった。
大トカゲはつまらなそうに口を閉じると、沙紀にそっぽを向き、横にあった壁を登るような格好で、伸びた爪を引っ掻き始めた。まるで何かから逃がれようとしている姿のようだ。急に大人しくなった大トカゲに、沙紀は呆気にとられていた。天使に鼻をつままれたような顔だ。彼女の視線は、トカゲと桐元の顔を行ったりきたりしていた。
桐元が手招きをすると、沙紀は地べたを這いながらこちらに逃げて来た。
「な、なに、なんなの?」
沙紀は涙と鼻水を垂れ流しながら、桐元の足元に抱きつき、砕けた腰を懸命に立てようとあがいた。抜けた腰がなかなか元に戻らないようだ。その間も桐元は笛を吹き続けた。大トカゲは桐元達から逃げようとしているのか、懸命に壁を引っ掻きながら立ち上がっては床に伏せ、を繰り返した。鱗で覆われた背中を無防備に、こちらに向けている。
こうやって見ると、子供の頃に捕まえた、ちっこいトカゲと大差なく見える。
桐元は手で合図して「ここで待っていろ」と沙紀に伝えた。沙紀は不安そうではあったが、手を脚から放すと素直に頷いて桐元から離れた。
桐元は笛を吹きながら、剣を握り締めた。そろりそろりと足を進ませる。尻尾を警戒しながら、大トカゲの背後から忍び寄った。大トカゲの尻尾の威力は強力で、まぐれ当たりでも気絶するほど無双だ。あれを喰らうわけにはいかない。
桐元は射程距離まで接近し、剣を振り上げた。そのまま力を込めて大トカゲの背中に斬りつけた。分厚い皮を破り、剣が大トカゲの背中に突き刺さった。打ち込まれた刃は半ばまで肉に埋まり、赤黒い血が鱗から溢れ出る。
桐元は笛を吹くのを止め、口から外した。笛は鎖で首から垂れ下がった。
大トカゲは手足をバタつかせながら床に腹ばいになって倒れ込んだ。大トカゲは苦しそうな呻き声を上げ、尻尾が力なく左右の壁を打つ。桐元は血で汚れた剣を大きく振りかぶり、床に倒れ込んだ大トカゲの背中、まだダメージのない背中の部分に渾身の一撃を見舞った。背骨を断ち割る感触があり、真っ赤な血と肉が辺りに飛び散った。赤く照らされた通路が更に血で染まり、桐元の頬に生暖かいものが飛んで来た。
トカゲは短い断末魔を繰り返していた。桐元はさらに数度、大トカゲに剣を打ち下ろした。胴体が裂け、半ば切断された格好で大トカゲは絶命した。桐元は息を荒げ、血の滴る剣を持ったまま、後ろにいる沙紀に振り返った。
「だ、大丈夫か、沙紀? け、怪我はないか?」
息も絶え絶えに声を出す。沙紀は床にへたり込んでいたが、いきなり立ち上がると桐元に走り寄り、抱きついた。桐元は血糊のついた剣を体から離し、二人の服が汚れないようにした。沙紀は声を上げて子供のように泣いた。桐元に頭を擦りつけて泣きじゃくる。桐元の顔についていた血が、沙紀の額にも移る。
「知樹いいいっ」
沙紀の手元には、既に剣はなかった。逃げるときに落したのだろう。それから暫らく、桐元は沙紀を腕に抱いていたが、大トカゲの強烈な死臭に目も鼻も悲鳴を上げ始めた。湿気と熱気、それに死臭が混ざり合い、吐き気を催す臭いが通路一杯に発生していた。
桐元は息も絶え絶えに、咳き込みながら言った。
「早く、ここを出よう。これじゃあ、臭くて叶わない」