二二:一二:二九
二二:一二:二九
桐元が尿意を感じ始めた頃、扉が現れた。通路を塞ぐわけではなく壁際にあるドアといった感じだ。今までいくつか見てきた扉と違い、両開きではなく一枚の金属製の扉だ。扉右側に饅頭くらいの赤い丸ボタンが配置されているのも、お馴染みの光景だった。
「地図でいうと、これが星印ね。一ブロック分の個室みたいよ。やっぱり、トイレかな?」
「多分そうだろう」
桐元は剣を鞘走らせた。床を何回も突いたわりに、切っ先は鋭利に尖ったままで、欠けてはいなかった。沙紀は桐元と剣を見比べてから喉を鳴らした。彼女の目には「ここも危険なの?」という疑問が浮かんでいた。まるでそれら危険のすべてを、桐元が招き寄せているとでも言いたげだ。
「沙紀、ボタンを押してくれ」
沙紀は大きく頷いてから赤いボタンの前に移動した。緊張した面持ちでこちらを向く。桐元は剣を右手に持ち、扉の前で油断なく構えた。今までの扉のような重厚感はない。よく見れば扉の下半分に空気を入れ替える為の溝さえも見えた。換気用だろうか?
「押すよ、いい?」
桐元は黙って頷いた。沙紀がボタンを押すと、電子音があがり、同時に扉がスライドした。ドアが開いたにもかかわらず、聞き慣れた、空気の漏れるプシュッという音は聞こえない。つまり、この部屋は密封状態ではないらしい。桐元は警戒しながら中を覗いた。
中は通路と同じ、白い壁と床で出来た部屋だった。大きさも一ブロック分、つまり三メートル四方のようだ。ただ一点違っているところは、部屋の奥に白い陶器の置物があることだけだ。しかもそれは、よく目にする置物だった。
「あれ、トイレじゃない?」
沙紀が声を上げた。いたって、あたり前の反応に、桐元は黙って頷いた。沙紀は数瞬間をおいてから、恥ずかしそうに目を伏せて言った。
「ねえ、知樹、わたし、おしっこしたかったんだ、先にいいかな?」
「ちょっと待て、沙紀。何かがおかしい……」
「ええ? なにが?」
桐元はもう一度部屋の中に目を這わせた。罠があるとも思えないが、念には念を入れる。全ての床を突くようなことまでする気はないが、足を踏み鳴らして床の上を簡単に調べることくらいは必要だ。散々足を踏み鳴らしたにもかかわらず、何もないようだった。 桐元は、危険がないことを確認し、剣を鞘に戻した。
「罠はないようだな……」
桐元は便器に向かって歩いていき、何の変哲もない白い物体を見下ろした。一見して洋式便所の形をしているのが分かった。椅子のように座って用を足す、極めてオーソドックスなものだ。家庭用のものは便器に座ったとき、後方にあるタンクに貯水する。レバーを押すとタンクの水が一気に流れ、便を押し流す仕組みだ。業務用になるとタンクがなく、直接水流が便を押し流すものもある。この便器の背後に貯水タンクは見あたらず、どうやら後者のタイプらしいことが分かった。だが、便器には、メーカー名が刻印されておらず、桐元が一度も見たことのない型なのが気にかかった。特別製なのかもしれない。
「別におかしくないじゃん、普通のトイレでしょ、これ?」
沙紀が桐元の背後でイライラしながら言った。彼女は、おしっこを我慢している子供のように足踏みをしている。あと五分、沙紀をこのまま待たせれば、本当にお漏らししてもおかしくない。微かなサディズムが桐元の脳裏を横切った。
「便器の先を見てみろ、水を流すパイプが見えないだろう。なぜか、覆いが被さっているんだ。俺は、こんなの初めて見たよ」
「覆いの中にパイプがあるんでしょう?」
沙紀は桐元の疑問を一蹴した。確かに、そうかもしれない。桐元はそう思いながら便器の蓋を押し上げた。蓋の下は普通のO字型の便座があった。ここに座って用を足せば、ことは済みそうだ。だが、ひとつだけおかしな部分がある。ひとつだけだが徹底的におかしな部分が。便器の中には、今までに桐元が見たこともない光景があった。
「水がない……」
「え?」
沙紀が桐元の横に並んで便器を覗き込んだ。いい若者二人が便器を覗き込んでいる光景を想像して、桐元は苦笑した。便器の底はすっかり乾ききっており、水があった気配は微塵もなかった。これには沙紀も驚いたらしい。鼻から息を漏らしながら唸っている。
「なぜ、水がないんだ? 水洗じゃないのか? どうみてもボットンには見えないぞ。それに今どき、ウォシュレットもないのはおかしい」
「ウォシュレットがないのは普通でしょ。知樹の部屋にもないじゃん、和式だし。でも、水がないのはおかしいよね、やっぱり。壊れているのかな、これ?」
桐元は便器の背後に、壁についた緑色のボタンを見つけた。これが流しボタンだろう。桐元は右手を伸ばし、そのボタンを押してみた。途端、トイレの中から風の噴出す音が上がった。ちょうど店のトイレなどに設置されている温風タオルのような音だった。その光景を二人はしばらく見詰めていた。
「知樹、分かったよ。これ、水じゃなくて風で流すんだ。凄いね」
沙紀が歓声を上げた。確かにそのようだ。桐元は喉の奥で唸って、沙紀に同意する。こんな仕組みのトイレを見るのは初めてだし、思いもよらないアイディアだった。
「もう、いいでしょう、知樹? 出ていってちょうだい。おしっこするから」
「ああ……」
桐元はそう言いながら扉に向かい、歩きながら天井を見上げた。予想通り、防弾ガラスに覆われた監視カメラが天井に張りついていた。これからする沙紀の行為は、ばっちり盗撮されることになる。いや、隠し撮りではなく堂々と撮っているから「盗撮」ではないのかもしれない。桐元は声もなく笑いながらトイレを出た。沙紀が用を足す間、扉の前で待つことにする。腕に巻いた腕時計型タイマーを見ると残り時間は二十二時間とちょっとしかない。ゲーム開始から既に二時間が経過し、いくつか緊張の場面もあった。そろそろ尿意を催してもおかしくない頃だ。それを見越してのトイレ設置なのだろうか。
この迷路を作った人間の洞察力というか、想像力がちょっと鼻につく。それにしても、わざわざ水の流れないトイレにした理由は何だろうか? なぜ、水ではなく、風で流す必要があるのか? 桐元は頭を巡らせながら唾を飲み込んだ。空調の完備された通路は異常なほど乾燥している。二時間以上飲み物を口にしていない喉は、すでに渇き始めている。休憩室でペットボトルの水を飲んで以来だ。案内人の助言に従い、いくらかの食料も口にしている。そこで桐元の脳が答えを導き出した。トイレを水洗にしなかったのは、出場者に水を与えない為ではないだろうか? 二十四時間、水も食料もなし。それはかなりシビアな状態だ。『食』と書かれたテーブルに座ったチームが、水のペットボトルとカンパンの袋を手に入れたのを思い出す。桐元は食料と水を手にしたチームの有利性を、今更ながら理解した。空腹では体力も知力も失われてしまう。その状態で別のチームと戦い、生き残るしかないのだ。『食』チームを倒せば食料と水が手に入るかもしれないが、真っ先に彼らと当たるとは限らない。扉の向こうから沙紀の排尿の音が消え、風の吹き上げる音がした。続いて、彼女の声で「いいよ」と聞こえた。扉の下にソリッド上の隙間があるので、通路まで音も声も聞こえてしまうようだ。桐元はボタンを押して中に入ると、沙紀が口を膨らませて立っていた。
「どうした? うんこが風で流れなかったのか?」
「違うわよ、トイレットペーパーがないのよ、ここ。不親切ね、まったく」
「じゃあ、どうしたんだ? まさか沙紀、おまえ、手で拭いたのか?」
「だから、うんちなんかしてないわよ、もう!」
沙紀はこれ以上ないほど頬を膨らませ、顔を真っ赤にして怒った。頭の上に茶瓶を置けば、中の水が沸騰しかねない勢いだった。ちょっと沙紀をからかい過ぎたか? 桐元は含み笑いをもらしながら言った。
「おれもションベンするからな」
桐元は沙紀の目の前で堂々とズボンのジッパーを下ろした。もちろん、沙紀に覗き込まれるなどと思ってはいない。目を背けるのも計算済みだ。
「ちょ、ちょっと待ってよ、変態。女の子の前でどうどうとおしっこしてどうすんのよ、この恥知らず!」
沙紀は慌てて膨らんだ頬を引っ込めたが、顔の赤みは一層増したようだ。
「時間がもったいないから、そこで聞いてくれ」
桐元は、沙紀が今閉めたばかりの便器の蓋を上げ、便座も上げた。便器の底は見事なまでに乾いていて、沙紀の尿は痕跡すらなかった。相当強力な風流が出たに違いない。便器の底には奥に向かって大きな穴が見えた。便はそこへ流れる仕組みなのだろう。その穴の上に、箸の先で突いたほどの穴が見えるが、その目的は分からない。ウォシュレットかな、とも思ったが、おしり洗浄ボタンの類は見渡す限り、どこにもなかった。桐元は無意識に、その小さな穴に向かって用を足しながら言った。
「地図の裏を見てみろ。確か、『トイレを探せ』って書いてあっただろう?」
沙紀が手元に地図を出し、裏返して眺めた。
「うん、書いてある。でも、トイレあったじゃん?」
「多分、そういう意味じゃない……」
沙紀が驚いて、桐元の立っている方に顔を向けた。だが、桐元がまだ用を足している最中なのを見て、短い悲鳴を上げた。彼女は慌てて顔を横に背けた。沙紀に見られたかな……? まあ、いいか……。桐元は用を続けた。
「ど、どういう意味よ?」
沙紀は背を向けながら言った。桐元は放尿を終え、モノを振りながら答えた。
「そこに書かれている意味は『トイレを探す』のではなく『トイレの中を探せ』という意味だと思う。あっ、手についちゃった」
「ちょっと、汚いわね、手を洗いなさいよ」
「でも、水道がないだろう?」
桐元は手に着いた尿を服で拭き、便器の蓋を閉めてから流しボタンを押した。轟音が起こり、便器が小刻みに震えた。
「ピラニアの水槽があるじゃん」
「あの水槽で手を洗ったりしたら、手がなくなっちゃうだろう?」
桐元は先程の罠のことを思い出した。確かに上手くやれば、水槽の水くらいは飲めるかもしれない。手で直接、水を掬わなくても、服を水槽に浸けて絞れば多少の水はなんとかなる。少々生臭いことを我慢すれば、喉の渇きだけは潤せるかもしれない。
「とにかく、トイレの中を探してくれ。沙紀は壁と床をくまなくな。俺は便器を調べてみるから」
そう言って桐元はしゃがみ込み、便器に手を当てて摩り始めた。見れば見るほどおかしな作りで、どうやって設置したのかネジ一本存在しない。便器の表面は陶器のようで、よく見るメーカー品とさほど違いはないようだ。表面を探し終わった桐元の手が、便器の裏側に向かった。通常、パイプがある部分に覆いの被さっている。便器と同幅の筒が壁に繋がっている。ここから強力な風力が供給されているのだろう。筒の下には子供が這って進める程度の隙間がある。
桐元はその隙間に手を入れ、便器を撫でていると、何かが手に当たるのを感じた。指先くらいの、小さなボタンのようだった。桐元は躊躇せずにそのボタンを押した。途端にトイレから音が鳴った。さっきの風流の音とは明らかに違う、もっと優しくおおらかな音だ。
「なに?」沙紀が壁に手を当てながらこちらに顔を向けた。
「さあ?」
桐元は床から顔を上げた。音はどうやら便器の中から起こっているようだ。何かが便器の蓋を打っている音らしい。桐元は聞いたことのある、さわやかな音に「まさか」と呟きながら、便器の蓋を開けた。すると中から、公園の水道で見るような放射線状の水流が立ち上った。
「水だ」
「ええっ、うそ?」
沙紀が早足で駆け寄って来た。桐元は飛び出している水に手で触れてみると、冷たくて気持ちのよい液体が指を撫でた。手で掬って眺めてみると、液体は完全に透き通っている。水道水のように綺麗に見える。危険はないだろう。
「飲めるんじゃないのか、これ?」
桐元が言うと、沙紀は顔を顰めた。
「こんな水、飲めるわけないよ。トイレの水なのよ、これ」
沙紀は、信じられない、と心の中で毒づいているに違いない。
「だけど、わざわざ『知』の情報に『トイレを探せ』と書かれていた上に水が出たとなると、この先、水道がある可能性はゼロだぞ。他のチームは水さえ飲めないんだからな。二十四時間、水分まったくなしじゃ、体がへばるぞ」
桐元が言っている間に水流は一気に小さくなっていった。つまり、ボタンを押してから水が噴き出している時間は一分程度のようだ。桐元は再びしゃがみ込んで、トイレの後ろに手を回した。
「俺は飲むからな、沙紀は好きにしろよ」
桐元はボタンを再び押すと、トイレの中から水が噴き上がった。桐元は渋面を作っている沙紀を尻目に、便座に両手をついて水に顔を向けた。口を大きく開けて上半身を乗り出す。トイレの水ったって、糞尿が混ざっている訳でもあるまいし……。だがそこで水流が出ている穴を見つけ、桐元は思わず口を閉じた。
「どうしたの?」
沙紀が不思議そうに微笑みながら訊いてきた。
「いや、なんでもない……」
桐元はそう言って、噴き上がる水に口を着けた。その穴は、さっき桐元が用を足したときに狙った場所だった……。