二三:〇五:三四
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「なんにもないじゃん?」
「ないな……確かに、なにもない」
「でも、地図は間違いないと思うよ」
沙紀は地図を眺めてから渋面を作り、前方の通路を恨めしそうに見つめた。見つめていれば、サンタのおじさんがひょっこり現れるとでも思っているような顔つきだ。暗闇の通路以来、沙紀がナビゲート係となって地図を握っている。尤も、今までのところ、分かれ道があったわけではなかったのでナビの必要はなかったが。桐元と沙紀は地図に黒丸の打ってあるブロックまで辿りついていた。予想に反し「何もない」ので、どうすべきか計りかねてしまった。ブロックの前で、二人は思わず立ちつくしていた。
「このまま、無視して行っちゃおうか?」
「いや、それはまずいぞ。よした方がいい」
桐元は前方の天井に目を向け、更に後ろを振り返った。予想通り、前方にも後方にもカメラが設置されている。やはり、おかしい……。通路の天井にカメラが設置されているのは今までと同じで、よく目にする光景だ。だが、その設置間隔には独特の癖がある。通路上には、だいたい五ブロック間隔でカメラが配置されているが、死角が出来ないよう曲がり角には五ブロック分の間隔がなくてもカメラが設置されている。
今、桐元達が立っている場所は一方の角からもう一方の角まで六ブロック分あり、そこに二ブロック間隔でカメラが二台設置されていた。六ブロック分の真ん中にカメラを一台設置すれば充分に機能を果たすはずなのに、だ。それに地図上の黒丸印のブロックを挟むようにしてカメラが設置されていることにも、桐元は冷ややかな違和感を覚えた。
罠ではないだろうか? それが一番説得力のある説明に思える。罠にはまる人間を見て喜ぶ人間。このゲームを企画した人間は、そう言う輩に違いない。桐元は沙紀に向かってそれを口にした。
「じゃあ、ここに罠があるって思うのね、知樹は?」
「その可能性は充分にあると思う。俺達が罠にはまるところをカメラで撮ろうとしていると思えば辻褄も合う」
桐元は黙って、前方の天井にあるカメラを指差した。沙紀が眉を寄せ、下唇を突き出す。まるで、細かい毛のびっしり生えた毛虫を見てしまった子供の表情だ。あるいはその毛虫の毛をすべて剃り上げた姿を見てしまったときの顔なのかもしれない。
桐元は剣を抜いた。それを見た沙紀の顔に緊張が走る。『毛虫をふんづけないで』そんな台詞が出てくるか、と思ったが言葉はもっとシンプルだった。
「どうするの?」
「用心に越したことはないからな。調べてみよう。沙紀はちょっとそこで待っていてくれ」
そう言うと桐元は目を床に置き、足元に剣を突き立てた。カリッという音がして刃が跳ね返る。剣の切っ先が硬い床に突き刺さることはない。桐元は通路真ん中の、三十センチ幅の道を想定して調べることにした。三十センチの幅があれば充分に人ひとり通れるはずだ。通路を端から端まで無理に調べる必要も、時間もない。要は、この通路を安全に通られさえすればいいのだから。一歩進んで十センチ間隔で床を突き、床に罠がないことを確認する。
「ねえ、なんで真ん中を通るの? 壁に沿って行けばいいじゃん?」
沙紀が首を伸ばしながらマヌケな声を上げた。自分は安全なところに居るので、緊張感がない。ところで、あいつの首ってあんなに長かったか? 桐元は後ろを振り返って思った。
「いや……」桐元は作業を止めず、前に顔を戻した。「壁に罠があることも考えられるだろう? 壁際にいたら、壁からいきなり矢が飛んで来ても避けられない」
「ふうん」沙紀は、部屋で金魚に餌をやっているときのように気のない返事を返した。「ねえ、知樹? 真ん中にいれば、矢が飛んで来ても避けられるわけ?」
「多分、無理だろうけど……」桐元は床を突きながら言った。
「ふうん……」
彼女は暇そうに通路を眺めながら、桐元の様子を見守っていた。剣を握る手が汗ばんだ。緊張で背中からも汗が吹き出てくる。だが、通路の半ばまで来ると、桐元もこのブロックには何もないのではないか、と思い始めた。更に床を剣で突く腕が痛くなり始める。剣は短く軽めではあったが、何度も床を突いていれば、流石に重く感じてくる。同じ床面積に対して突く回数が徐々に減り、おざなりになっていく。桐元はそれでも自分の直感を信じ、身を引き締め、剣を床に突き刺し続けた。
「やっぱ。何もないのかな……」
ガタンッ。大きな音がして急に目の前の床が抜けた。桐元は驚いて後方に飛び、床に尻餅をついてしまった。全力で百メートルを走り切ったくらい脈が打ち、アドレナリンが大量に血液中に溶け込む。背後では迷宮中に響き渡るほどの大声で、沙紀が悲鳴を上げていた。
「あ、危なかった……」
桐元は抜けた床を見ながら声を漏らした。自分でも驚くほど声が震えている。目の前には、ぽっかりと開いた四角い穴が見える。
「だ、大丈夫なの、知樹? ねえ、怪我はないの?」
「あ、ああ、大丈夫だ」
桐元は床に、尻と両手をついていた。さっき調べた三十センチ幅をこえて手を付いている。別の罠がなかったのは幸いだった。引っ込めた足が震えている。それでも桐元は、後ろを振り返って沙紀に笑顔を見せた。笑顔とは名ばかりで、恐らく引きつった顔にしかなっていないだろう。沙紀はハの字にした眉の下、目尻に涙を浮かべていた。桐元は彼女の顔を見上げながら「大丈夫」を三回唱えた。自分に言い聞かせると共に沙紀を安心させる為だ。桐元は床に放り出してしまった剣を見つけると、握って立ち上がった。
「ねえ、そっちに行ってもいい?」
沙紀は急に心細くなったらしい。泣きそうな声を上げた。桐元が頷くと、沙紀は桐元が通って来た道をなぞり、爪先立ちでこちらに歩いて来た。少しでも面積を減らして歩けば罠にはかからない、と思っているようだ。沙紀がほとんど飛び跳ねるように桐元の背中に抱きついた。彼女は桐元の耳元で、ほっと息を吐いた。
「見ろよ、沙紀……」
桐元は底の抜けた床に、握った剣の先を指した。水槽だった。床下に突如現れた水槽は、たいした大きさではなかった。一般的な家庭の風呂桶二つ分程度といったところだ。水槽の両脇には床の抜けていない通路が残っていて、人間が充分に歩ける隙間が残っている。桐元は水槽の縁まで近づき、中に目を落とした。腰くらいの深さの水が湛えられており、黒く見えるほどたくさんの魚が泳いでいた。桐元はこの魚に見覚えがあった。上から見ても、突き出した下顎がはっきりと確認出来る。
「これイケスなの? それに、この魚なに? 熱帯魚みたいだけど?」
沙紀はそっと顔を出して、水槽の中を覗いた。腕で桐元にしがみつき、体を密着させたままだった。空調の利いた通路のために冷えてしまった皮膚に、沙紀の温もりが伝わってくる。桐元は『変なところ触らないで』と叫んでやろうか、と本気で考えていたが、無意味なのでやめることにした。沙紀はきょとんとした表情のまま、水槽を見下ろしていた。彼女は、罠の中身が熱帯魚である必然性が理解出来ないのだ。罠にはまって水槽に落ち、熱帯魚と仲良く水泳。そんな罠がある訳がない。沙紀は後方から見ていただけなので、穴の中に竹槍でも突き出ていると思ったのだろう。そんな穴に落ちれば誰でも大怪我をする、立派な罠だ。だがこれは、もっと不吉で陰険な罠であることに沙希は気づいていないようだ。
「建物の玄関の水槽にこの魚がいただろう? 覚えていないか?」
「ああ、あれね? 居た、居た。ええと、何だっけ?」
「ピラニアさ」
桐元は平然と言ってのけた。沙紀が飴と間違えて梅干を口に入れてしまったような顔をする。この迷宮の持つ意味と悪意とを、やっと理解したようだ。
「しかも、ご丁寧に床が落ちた時に、粉になった血液が落ちるようになっていたらしい。みろよ、水が少し赤くなっている」
ピラニア達は血のにおいに沸き立ち、快活に泳ぎ回っていた。
「沙紀はここに残っていてくれ。俺は迂回して通路のあちら側に抜ける道を探す。水槽がひとつとは限らないからな」
沙紀は水槽で気持ちよさそうに泳ぐピラニアを見下ろしながら黙って頷いた。桐元は剣で床を突きながら水槽を右に迂回して進むことにした。なぜ右に行ったのかには理由はない。ただの勘だった。どうしても、床を突く剣が慎重になる。突然床が抜けるところを目の前で見た以上、緊張しないわけにはいかない。もし、あの水槽に落ちていれば、死ななかったとしても唯では済まなかっただろう。足の肉を食い千切られ、歩くことも困難になっていたはずだ。その結果、自力でのゴールは不可能となり、じわじわと出血して死んでいくしかない。別のチームに見つかり、カードキーを巻き上げらた挙句、殺されてしまうかもしれない。どちらにしろ死ぬことに変わりはなく、大した違いはないだろう。
水槽の脇を通り、次のブロックまでもうすぐとなった。地図を信じれば、次のブロックまで行けば、罠はないので安全だ。桐元は床を突く剣を止め、前方の床に目を凝らした。何かある……。壁際に一辺を接する形で四角く薄っすらと、床に線が見えた。大きさから判断すると、後ろの水槽よりも幾分小さめだった。
「どうしたの?」沙紀が後ろから心配そうに問いかけてきた。「ねえ、また、見つけたの? 知樹?」
「ああ、見つけたよ。見ていてくれ」
桐元は腰を引いてバランスをとると、剣を上げた。四角く縁取りされた線の内側に、思いきり剣を叩きつける。
ガタンッ。床の抜ける音と共に水槽が現れた。さっきのものより一回り程小さい水槽だった。中には先ほど同様、びっしりとピラニアが泳いでいるのが見える。小さい水槽だが、放ったピラニアの数が多く、密度が高いようだ。
危なかった……。この通路は、真ん中と右側にピラニアの罠があったことになる。普通に真っ直ぐ歩いていれば、必ずどちらかの水槽に落ちていただろう。左側の通路が手つかずで残っているが、もはやそんなことはどうでもよい。罠があるに決まっているのだから。桐元は一度息を吐くと気を取り直し、剣を突き立てながら新たに見つけた水槽の左、つまり通路の真ん中を通って次のブロックに辿り着いた。やっと安全地帯に入り込んだ。額と背中は、汗でねっとりと湿っていた。
「来いよ、沙紀。俺の通った道順で来れば大丈夫だ」
沙紀は頷いたが、かなり不安がっているようだ。目の前の水槽で優雅に泳ぐピラニアを見つめながら、彼女は口を引き締めて立っていた。
「早くしろよ、沙紀。それとも俺が手を引いてやらないとダメか?」
「いいよ、ひとりで行けるよ」
沙紀は早足で水槽を避けて床の上を通ると、桐元のいるところまであっという間に辿りついた。沙紀は大きな溜息を吐くと、忌々しそうに背後の水槽を眺めた。
「誰がこんな罠を仕掛けたのよ、もう!」
「もちろん、このゲームの主催者だろう?」
「趣味が悪すぎるわよ」
沙紀が天井のカメラに向かって叫んだ。天井からぶら下がった一つ目小僧は、こちらを見下ろして微笑んでいるように見えた。あのカメラの向こうで、ニヤニヤしながら桐元と沙紀の一挙手一投足を誰かが見守っているに違いない。そう思うと桐元は、怒りが全身を駆け抜けた。
「俺も同感だ……魚を飼うなら、金魚かメダカにしてくれればいい」
桐元はそこまで言って、金魚もメダカも熱帯魚ではないことを思い出した。それに、金魚の生簀にはまってしまえば、冷たい水に浸かることになる。それでも、温い生簀でピラニアと一緒に泳ぐよりは数段マシだ。
「俺は、罠になんかはまらないぞ」
「わたしもよ、はまるもんか」
沙紀はカメラを見上げ、その先にいる誰かさんに舌を出した。