二三:三五:〇五
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地図の表記で、まず始めに分かったのは網目の部分だった。桐元と沙紀は地図に沿って通路を直進し、何事もないまま金属製の扉に行き当った。扉は両開きの作りで、例の山手線を思わせるものとほぼ同一だった。右脇にお札挿入口のようなカードリーダはない。代わりにあるのは、赤いボタンがひとつだけ。ちょうど、スーパーマーケットなどに設置されている障害者用トイレの扉についているボタンに、形も大きさも似通っていた。
「どうする、知樹?」
「ボタンを押してみるしかないだろう。ここを通る以外に道はないんだから。……でも、ちょっと待てよ。地図によると、この扉の向こうは網目になっているな。通路の先に、もうひとつ扉があって網目は消えているようだけど」
「つまり扉と扉の間が網目なのよね。ううん、……網目の通路か……一体なんだろうね?」
桐元は「さあな」と答えてから少し考えた。当然、考えて答えが出るわけもない。だが、危険があるかもしれない。桐元は腰に手を回し、剣を抜いた。右手に伸びた白銀の刃が、蛍光灯の元で映えた。重厚ではあるが重過ぎることはないようだ。桐元はこういった武器に不慣れだった。過去に使ったこともない。尤も、現代の日本人が剣や刀を振り回す状況など滅多に起こるものでもないだろうから、使ったことがないのは、どのチームも同じだろうが……。
桐元は柄を握り締め、数度、剣を振ってみた。刃が小さいので振り回されることもなく、扱い易い。これならば、桐元でもなんとか使えそうだった。ミスター・ラビはこの剣をショートソードと呼んでいた。確かに普通の剣、つまり長剣よりは随分と短い。だからショートなのだろう。長剣といえば通常、刃渡りは一メートルを超える。そんなものを頭上に振り被れば天井に切っ先が当たってしまうし、横に凪げば味方に当たりかねない。二人が並んで剣を振るには、このくらいの短い剣がベストだ。
「そんなもの出してどうすんのよ、知樹?」
沙紀の顔が不安を現して歪んだ。彼女の切れ長の目が、桐元の顔と白刃とを何度も行き来する。
「扉の先に何があるのか分からないだろう? 用心に越したことはないのさ。沙紀は地図を持っていてくれ。それと俺の側を離れるなよ、いいな?」
「うん……」
桐元は右手に剣を握ったまま、左手で赤いボタンを押した。右側にボタンがあったので、計らずも腕がクロスしてしまった。これでは何かあったときに即応出来ないことに気づき、ボタンを押した左手をすぐに戻した。同時に桐元は体を翻し、扉の前から壁際に足をスライドさせて隠れた。扉の中から何かが飛び出してくるのを警戒しての動作だ。空気の漏れる音がして扉が両側に観音開きの逆の動きでスライドした。扉が全部開き切る前に、桐元は地図にあった網目の意味を察した。なるほど……そう言う訳か。
「暗闇というわけだな……」目の前の通路に蛍光灯の明かりはなかった。真っ暗な空間がぽっかりと口を開けていた。
「沙紀、地図を見せてくれ」
沙紀が地図を突き出した。桐元は構えた剣を下ろし、沙紀の出してくれた地図に目を落とした。地図を眺めている二人の前、開いたばかりの山手線の扉が、発射ベルもないのにいきなり閉まった。ボタンを押せば開き、数十秒後に自動で閉まるタイプのようだ。それが分かっただけでも心強い。地図にある網の掛かった部分は、何度も角を曲がりながら続いていたが、数えてみると僅か九ブロック分しかない。距離としては、たいしたことはないようだ。だが、完全に密閉された地下通路での暗闇は、通常の生活を送っている人々が体験する闇とは違う。つまり、光がまったくないことを意味する。夜、人里離れた森を歩いたとしても、月や星くらいは見えるものだ。ましてや住宅街ならば、繁華街でなくても無数の光が溢れている。電信柱の外灯、家の外灯、家から零れる光。遥か遠くの繁華街の光さえも明るく目に映る。
都会育ちの桐元も当然、真の闇の経験など一度もない。喉を鳴らして、唾を飲み込んだ。暗闇……。これが第一関門、という訳だ。桐元は溜息を吐きながら剣を鞘に戻した。
「沙紀、地図を持ったまま俺の左手に掴まっていてくれ。絶対に地図を落すなよ」
「わかったわ。でもどうするの? 真っ暗だよ、ここ」
「昔、ものの本で読んだことがあるんだ」
沙紀が切れ長の目を更に細め、怪訝な表情を作る。浜松町の裏通りにいる「怪しい占い師」を見るような、胡散臭い目で桐元を見つめた。
「どんなこと?」
「絶対に迷路を抜けられる方法……」
「凄いじゃん、知樹。なんで今まで黙っていたのさ?」
沙紀の顔が一気に明るくなった。こういったときの沙紀の顔は、桐元でもドキリとするほど魅力的に見える。見ていて気持ちがいい。
「でも、あまりにも馬鹿らしいから、なあ……」
「それで、どういう方法なのさ。もったいぶらないで早く教えてよ、知樹?」
桐元は軽く咳払いをした。言い方をちょっと間違えると、間違いなく沙紀にひっぱたかれそうだ。
「片手を片側の壁につけたままひたすら歩くと、いずれ必ず出口に辿り着く」
沙紀の顔が強張った。マヌケ面を形作ってから硬直してしまったようだ。彼女の目には、中身がケーキだと思って箱を開けたら、立派な干し椎茸が出て来たときのように、失望の色が浮かんでいた。
「なにそれ? 馬鹿みたい」
「でも、今回はこの手が使える……」
沙紀は聞いていない風だった。桐元にからかわれた、と思っているのだろう。立派な干し椎茸を口に含んで賢明に噛んでいるような顔だった。桐元はもう一度、赤いボタンに手を伸ばした。無論、今度は腕をクロスさせないように気をつけた。
「行くぞ、沙紀」
「う、うん……」
暗闇の中、桐元は進んだ。一歩一歩をゆっくりと足を進ませる。のろのろと足を動かし、少しずつ確実に進む。まったく何も見えない暗闇に、桐元は不安を感じずにはいられなかった。沙紀は桐元の手を力いっぱい握り締めていた。置いてけ堀にされないよう、母親にしがみつく子供のようだった。無理もない。とにかく真っ暗で、目を開けているのか、それとも閉じているのか、上下左右も、前後さえも分からない。これでは誰かに鼻を摘まれても分からない。落とし穴があれば、確実にはまってしまうだろう。
耳に聞こえる音は通路に流れる空調の音、それに自分の息遣いと、沙紀の息遣いだけ。通路は不自然なほど静かだ。桐元は右手を壁に着けながら歩いていたが、本当にこれが壁であるのかさえ不安になってきた。足元の床も実は変わっておらず、今もずっと同じ場所なのではないか? 実は一歩も進んでいないのではないか? 考えれば考えるほど不安は募った。
「ねえ……」
沙紀が、消え入りそうなほど心細い声を出した。確かに沙紀の声ではあるが、彼女が本当に声を出しているという保障はどこにもない。
「ねえってば……」沙紀が桐元の手を引っ張った。
「ねえ、返事をしてよ、知樹!」
「なんだよ?」
沙紀は桐元の声が聞けて、少しだけ安心したようだ。手を引くのを止めた。暫らく沈黙が続いた後、沙紀が言った。
「ううん。なんでもない……」
沙紀も不安なのだ。不安で不安で仕方がなく、声を出さずにいられない。だが、この手を握っている相手は、本当に沙紀なのだろうか? そんなことまで考え出すと、もはや不安は際限なく広がる一方だ。桐元は冷静になろう、と思って深呼吸をした。まさか暗闇だけなのに、これほどの恐怖を感じるなど、思ってもみなかった。一体どれくらいの時間が経過したのかさえ分からない。どれくらい歩いたのかも分からない。視界を奪われると、時間感覚までも麻痺してしまうものらしい。そのまま進むと、いきなり壁に突き当った。正面に立ち塞がる壁を叩くと、やや曇った音が返って来た。壁を叩いたときの乾いた音とは明らかに違うようだ。
「ここだよな、扉は?」
「うん、多分そうだよ。角を曲がった回数で覚えていたもん」
沙紀が地図を振る音が聞こえた。彼女は地図を見ようとしているのかもしれないが、暗闇ではどうしようもない。こんなとき、懐中電灯があればこんな思いをしなくて済むのに……。今更ながら『光』チームの有利性を痛感した。
桐元は右手を伸ばし、前の壁を触った。明らかに壁とは違った感触だった。更に手を滑らせると、縦に走る溝が見つかった。両開き扉の真ん中の部分だろう。沙紀の手を握った左手をぐっと引き寄せ、桐元は言った。
「沙紀は扉に手をついたまま動かないで待っていてくれ。俺はボタンを探す」
「え? う、うん」
沙紀はひとりにされるのが不満のようだったが、そうするしかない。暗闇の中、二人でめいめいに迷走するよりもひとりは止まっていた方がよい。桐元は扉に左手をつけたまま右に向かった。入り口の扉の形態からして扉の右側にボタンがあるはずだ。扉と壁を繋ぐ段差が指先に当たり、さらに手探りで壁の上を撫でた。滑らかな平面が続くだけで何もない空間を、桐元の手がボタンを探してさ迷った。
「ちくしょう、見つからないぞ」
「ちゃんと探してよ、きっとあるよ」
「ダメだ、ない」
桐元は手を這わせ、ボタンを必死で探した。むきになって手を這わせたが、思ったような感触がまったく得られない。
「ねえ、あった?」
「ないよ。反対側かもしれない」
桐元は扉に手をつけたまま、沙紀の居る方に戻った。右も左も分からないまま進むのは、思ったよりも根気がいった。思わず桐元の額から、どっと汗が吹き出る。このまま暗闇の中から脱出出来なかったとしたらどうしよう?
焦りで、桐元は息が苦しくなった。右手を扉につけながら、左手を前にかざして進むと、いきなり何か柔らかいものに触れた。
「きゃっ、何するのよ、エッチ」
「沙紀? ちょっと待て、そっちに行くから。扉に体をくっつけていろ、いいな?」
桐元は右手を扉から離すのに抵抗があったので、沙紀の体に触りながら進んだ。
「ちょ、ちょっと知樹。変なところ触らないでよ、スケベ、バカ!」
「ん? なんだ、これ?」
桐元は右手に掴んだ柔らかいものを、何度か揉みしだいた。
「も、もう! 早くボタンを押しなさいよ、変態!」
桐元は沙紀の体を過ぎて、さっきとまったく同じ手順で壁の上に手を這わせた。背後から、妙に興奮した沙紀の鼻息が聞こえる。手を伸ばすと、今度は簡単にボタンが見つかった。出っ張ったものが手に当たり、ボタンと思われる丸い感触があった。
「よし、あったぞ」
プシュッ。空気の抜ける音と共に扉が開き、蛍光灯に照らされた通路が目の前に広がった。二人は早足で通路に出ると、背後で閉まる扉を黙って見守った。桐元はそのとき、暗闇通路の天井にカメラが設置されているのを見逃しはしなかった。黒いガラスのドームの中、確かにカメラがこちらを見下ろしている。
「ふう……やったね、知樹。このままずっと暗闇だったらどうしようかと思ったよ」
「ああ、そうだな。まさか、ボタンが逆側についているとは思いもしなかった。冷や汗ものだぜ」
桐元は額に噴出していた冷たい汗を袖で拭った。それから閉じた扉の右側に目を落とした。ボタンがある。やはり扉の右側だった。
「なんで出口だけ逆だったんだろう? こっち側には右にボタンがついているのに、さ?」沙紀が首を倒しながら、唸っていた。
「単なるお遊びだろう?」
「お遊び? なにそれ?」
暗闇の中にカメラがあること自体、おかしなことだ。恐らくあれは赤外線カメラか暗視カメラの類だったに違いない。暗闇の通路にわざわざカメラを置く理由は不明だが、扉のボタンを左右反対側に配置し、桐元達の狼狽する姿を見る為だと考えれば辻褄が合う。どうやらこの迷路を作った連中は、きつい冗談がお好きなようだ。少なくとも、大人のすることじゃない。いい趣味とはいえないが、徹底したエンターテイメント根性が潔いとも言える。
「沙紀、地図を見せてくれ」
沙紀が汗で所々湿った地図を突き出した。彼女も暗闇通路を抜ける間、手に汗を掻いていたのだろう。桐元は地図に目を通してから沙紀に顔を向けた。
「やはりこの地図は正しいようだな。今の暗闇の通路は地図の通りだったようだ」
「うん、ラッキーだね。地図がなかったら、恐怖で気が狂いそうだよ。暗闇がどこまで続くか分からないもん」
「確かに、他のチームはきっと暗闇に苦しむだろうな、ひとチームを除いては」
「ひとチームって?」
「『光』チームさ。奴等はスタート時に懐中電灯をゲットしていたんだ」
「そっか。『光』チームって、そういう意味なのか。わたし達が最初に出会うチームだよね、確か?」
「そうだけど……」
桐元の頭に剣劇シーンが浮かぶ。時代劇のチャンバラよろしく、剣が乱れ飛ぶ。それをすべて避け、相手に渾身の一撃を見舞う。果たしてそんなにうまくいくものだろうか?
「それって、彼等に勝てば懐中電灯が手に入るってことよね?」
桐元は曖昧に唸って返事した。『勝つ』という言葉の意味を考えると吐き気がしそうだった。負ければ自分達は死に、彼等に地図が渡ることになる。勝つにしても無傷で、とはいかないかもしれない。相手の剣が、桐元の腹に突き刺さる映像が脳裏に浮かぶ。痛、痛、痛、痛……。思わず身震いせずにはいられない。桐元は気を取り直し、手首にあるタイマーを見た。すでにスタートから一時間が経とうとしていた。地図に目を戻す。
「次はこの黒丸のところだな」
「これ、なんだろう?」
「ううん? 行ってみれば分かるさ」
今の桐元に黒丸が何か、分かる訳がない。それが、どんなに単純な謎かけ問題だったにせよ、文字自体がまったく面識のないドイツ語で書かれていては、解くことはおろか読むことも出来ない。つまり、いくら考えても分かるわけがない。それと同じだ。
「行こう」
それでも沙紀は未練がましく地図を見て、ナントカ語を読もうと眉間に皺を寄せている最中だった。
「行くぞ、沙紀」桐元は歩き出した。
「あ、ちょ、ちょっと待ってよ、知樹」沙紀が考えるのを止め、後をついてきた。
「パンッ」
急に尻を沙紀に叩かれた。尻の表面が痛みで痺れる。
「な、なんだよ、沙紀。なにをする?」
「変なところを触ったお返しだよ」
沙紀は歯を見せて笑った。どことなく嬉しそうに見えた。変なところって、どこのことだ? 桐元は考えながら、白く照らされた通路を進んだ。桐元は先程の掌の感触を思い出してみた。柔らかくて丸かった。だが結局、沙紀の言う『変なところ』はいったいどこのことを指すのか、分からずじまいだった。