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いきなり迷宮に放り込まれて24時間以内に脱出しないと死亡


序章



「ゲームで優勝すれば賞金二億よ、わたしと組んで出場してみない?」

 午後十時半、アルバイト先から帰り、夜食のカップラーメンを啜っていた桐元知樹は、チャイムの音に誘われてアパートのドアを開けた。急にドアノブを引っ張られて体勢を崩した桐元に対し、平藤沙紀の薄い唇から放たれた言葉がそれだった。

「な、なんだよ、沙紀か……」

「なんだとは何よ、なんだとは! こんな可愛い女の子の訪問を受けておいて、少しはありがたいと思いなさいよ、もう!」

 沙紀は、まるで風船玉のように頬を膨らませた。彼女特有の、ご機嫌斜めポーズだ。

「分かったよ、悪かった、悪かった。それで、何だよ、二億って?」

「詳しく話すからさ、中に入れてよ、知樹」

 沙紀が大げさに首を左右に振って部屋の中を覗いた。しきりに誰もいないことを確認しているようだ。桐元は背中に広がる部屋の映像を頭に浮かべて顔を顰めた。客を入れられるような状態ではない。最後に掃除をしたのは……思い出すのも億劫なほど、遥か昔のような気がする。それを察したのか、沙紀が笑いながら言った。

「いいよ、どうせ汚いのはいつものことでしょう?」

 桐元は喉から声を鳴らすと「まあな」と言って体を退け、沙紀を部屋に招き入れた。

「言っておくが、茶は出ないぞ」

「何よ、ケチッ」

 沙紀はぶつくさ文句を言いながら狭い玄関で白いサンダルを脱ぐと、さっさと部屋に上がった。沙紀の髪は短く、薄い水色のポロシャツにカーキの短パン姿だった。湿気の立ち込める熱帯夜、タコ部屋同然のアパートに、彼女の微かな汗の臭いとデオドラントの混ざった匂いが流れた。

「あら、意外に綺麗じゃない?」沙紀は無責任にそう言ったが、桐元は曖昧に頷いただけだった。確かに大きなゴミが転がっているわけではないが、部屋の端には綿ゴミやホコリが群れをなしている。

 桐元は、ちゃぶ台の前に戻り、食べかけのカップ麺の前に座った。

「何よ、それ? まだ、そんなもの食べてんの? まったく不健康な男ね……」

「いいだろう、好きなんだからさ」

 桐元は不貞腐れてそう言うと、伸び切ったカップ麺を箸で摘んで口に押し込んだ。立ち込める湯気で汗が噴き出してくるようだ。沙紀は横目で桐元を眺め、突き出した唇に指を当てている。これは、沙紀が何か文句を言う前兆だ。また来たか……?

 気づかぬふりをし、桐元は残りの麺をかき込んだ。

「それにしても随分と久しぶりね、知樹。携帯にかけても返事くれないしさ?」

 沙紀はそう言いながら部屋の中に目を這わせていた。何か真新しいものでもないか、探りを入れている。女性に貰った手紙などが置いてあれば大変だ。沙紀は相手のことを根掘り葉掘り聞いて来る。沙紀は桐元よりほんの少し生まれが早いというだけでお姉さん風を吹かる上、何かと口うるさい女だった。そのお陰もあって、桐元は彼女を出来るだけ避けている。彼女から桐元の携帯電話に電話がかかってきても居留守を使うこともしばしばだし、自分からは決して彼女に電話をかけることもない。それに桐元は、彼女の顔を見るとどうしても陰鬱な過去を思い出してしまう。ここ最近はさほどでもないが、そのことで悪夢にうなされた時期もあった。桐元がどことなく彼女を避けてしまう理由は、姉さん肌の性格よりも、むしろそちらの理由が濃いようだ。

 それにしても今回は随分と間隔が開いた。沙紀と最後に会ったのは確か……。

「……二ヶ月ぶり、かな?」

 桐元は中途半端に噛んだ麺を飲み込みながら言った。

「七週間ぶりよ」

「ふうん、そんなものか?」

「そんなものとはなによ。電話もよこさないで」

 沙紀は、テレビの上に置いてあるミッキーマウスの縫いぐるみに目を置くと、それを取り上げて眺めた。随分前に、沙紀が桐元にくれたものだ。桐元の趣味から大きく外れるモノだが、部屋からミッキーがなくなると沙紀が暴れ出すので仕方なく置いている。沙紀は大のディズニー好きで、「ディズニーランドに二人で行こう」と今までに十回以上も約束させられている。桐元はそのすべてを反故にしてきた。未だに実行に移したことはないし、これからもそうだろう。

「電話くらいしてよね」

 沙紀はミッキーをテレビに戻し、気色ばんで桐元を睨みつけた。本当に怒っている。彼女の目は本気だった。桐元は気圧されそうになったので、話題を代えて応酬することにした。まともに口でやりあっても、沙紀が相手では勝ち目がない。

「それで二億ってなんの話だ? 宝くじでも当たったのか? それならおごれよ」

「馬鹿ね、宝くじが当たったって誰にだって話すものですか。まあ、知樹にだけは話すかもしれないけどね?」

 沙紀は切り上がった目を細め、流し目を作ると桐元の顔を覗き込んだ。彼女に見つめられると心を見透かされているような気がしてどうも落ち着かない。桐元は沙紀の視線を避けながら、食べ終わったカップ麺をテーブルの端に押しやった。中には怪しげな油の浮いた黒い汁が丸ごと残っている。実は桐元の好物なのだが、沙紀の前でこれを飲むことは御法度だった。健康を気遣う沙紀に、何を言われるか知れたものではない。

 沙紀は暫らく流し目のまま桐元の反応を待っていたようだが、返事がないので諦めたらしい。

「これは、わたしがバイト先で入手した極秘情報なんだけど、あるゲームに参加して優勝すると、二億もらえるんだってさ」

「本当なのか? 二億っていったら凄い金額だぞ。それに、なんでそんな極秘情報が、お前の耳なんかに入るんだよ?」

「それは……ほら……」

 沙紀は薄い胸を張った。ポロシャツのブラが透けて見えるほど膨らみのない胸だ。彼女は胸が揺れるのを押さえる為にではなく、乳首が出っ張らない為だけにブラをしている。桐元は随分前にそれを口にしたことがあるが、彼女からの返事は強烈な往復ビンタだった。

「……人徳ってやつよ!」

 桐元は肩の力が抜ける思いだった。反論する気力さえ失せる。

 ただでさえ暑苦しい部屋は、二人の人間の熱で溢れ返っていた。背中を滝のように汗が流れる。軽いモーター音を奏でながら首を振っていた扇風機をこちらに向けて固定したが、生温い風が頬を撫でただけだった。

「エアコンくらい買いなさいよね、いい加減……」

「嫌いなんだよ、俺は。エアコンって奴がさ」

 沙紀がポロシャツの襟を引っ張って風を通す仕草をした。端正な顔はともかく、エロチシズムのない沙紀の胸元に、今更ながらガッカリする。あの胸がもう少し膨らんでいれば、今すぐにでも押し倒してやるのに……。桐元は溜息を吐いて、落胆する心を慰めた。

 醤油の塊のようなカップ麺と熱帯夜のせいで喉が渇いた。カップ麺を見ていると余計に喉が渇く。さっさと捨てよう。桐元は萎えた気力を振り絞って立ち上がった。

「麦茶でいいか?」

「えっ、お茶を出してくれるの? ありがとう。でね、その子が言うにはさあ……」

 桐元は申しわけ程度しかない小さな流しでカップ麺の残りを片付けながら、沙紀の話を背中で聞いた。排水溝に細切れになった麺が流れていくのをなんとなく見つめる。

「知樹も持山財閥って知っているでしょう?」

 桐元は排水溝に溜まったゴミを見つめながら「ああ」と返事を返した。まあ、いいか。明日、掃除すればいい。振り返ると、沙紀は畳の上に腰を下ろし、扇風機の頭を自分に向けていた。短めの髪が温い風でたなびいている。

 持山幸造は一代で巨大な財閥を築いた男で、日本で彼を知らない人間はない。先日、駅で拾った週刊誌を捲っていたとき、彼の苦労話が載っていたのを思い出す。持山幸造は若くして単身、バルカン半島に渡り、実地で海運業を学んだようだ。そのせいか、若い頃からギリシャ神話に凝っていて、自宅はパルテノン宮殿さながらの作りだという。年代ものの装飾品、とくに地中海ものを根こそぎ買い漁っているという噂だ。いわばギリシャ神話馬鹿だった。

 持山夫婦には子がなく、妻の姉の子、つまり彼の甥にあたる男が後継者に決まりそうだ、という話だ。長年取り沙汰されていた後継者についての雑誌の特集記事だった。

 その週刊誌には持山幸造と、その後継者たる甥の写真が、不鮮明ながら白黒で載っていた。持山幸造はガリガリに痩せ細った老人で、活力が漲っていた。一方、その甥は、ビシッと決めたスーツにオールバックで、いかにも遊び人という印象だけが桐元の脳に残っている。確か、甥の苗字は持山ではなく別だったはずだ。

「そのバイトの子、持山幸造の縁戚みたいなのよ。かなり遠い親戚みたいだけど。でね、これは持山幸造会長の個人的な企画らしいんだけど、七組の男女を募集してゲームをさせるって話なのよ。その賞金がなんと二億! どっかの島に、東京ドーム何個分かの大きさのゲーム会場をわざわざ作ったって話だけど」

「ほう? それは凄いな」

 落ち着いた声で答えてはいたが、桐元は心の中で「本当かよ?」と叫んでいた。興味をそそられはするが、沙紀に足元を見られるのは癪だった。桐元は冷蔵庫から出した水出し麦茶を、小さなグラスに悠然と注ぎ、両手に持った。

「凄いでしょう?」

「だが、気になる点もある」

 沙紀が桐元の顔を見上げながら首を横に倒した。少女の面影を残すその顔は、屈託のない可愛いらしいものだった。沙紀は元来、美人といってよいほどの女だ。十人居れば、一番は無理でも、二番目くらいの美貌は備えている。だがなぜか彼女には、彼氏が出来ない。性格もフレンドリィで男にモテそうなものだが、彼女から男の気配さえ嗅いだことがない。桐元が知っているだけでも、沙紀と付き合いたいと言ったことのある男が十人もいる。うち半分の男は今でも沙紀と付き合いたがっているはずだ。沙紀はそれらの男達に全く無関心に見えた。

 桐元はテーブルの前に座るとグラスのひとつを沙紀の前に置いた。沙紀は小さな声で「ありがとう」と呟いた。

「それで、気になる点って?」沙紀はそれが訊きたくてうずうずしていたらしい。

「まず……二億、二億って言うけどよ、それって円なんだろうな?」

「え?」

「二億ペソとかはなしだぞ。二億ドルはOKだけどな」

「何よ、知樹。二億円に決まっているでしょう」沙紀は馬鹿にした笑い声を上げた。

「それはいいとしよう。で、なんで、そいつは自分でゲームに出場しない?」

「なんだ、そんなことか……。その子はまだ高校生で十七歳なのよ。本人はやる気満々だったんだけど、出場資格は十八歳以上なの」

 桐元は現在二十二歳、沙紀は二十三歳。沙紀の方がひとつ年上だが、生まれが早いだけで学年は一緒だ。当然、ふたりとも十八歳の年齢制限には引っ掛からない。

「ねえ、知樹、出ようよ。二人で二億円もらっちゃおうよ。ね、ね?」

「ううん? そんなにうまい話がそうそう転がって……」

「転がっているのよ、これが! しかも目の前に。これを逃す手はないわ」

 沙紀は桐元に顔をぐっと近づけた。デオドラントと汗、それに日焼け止めとファンデーションの混ざり合った複雑な匂いがした。ついでにさっき食べたと思われる冷やし中華の匂いまでしている。

「ゲームっていったって、ル……ルールは?」

「知らない」

「何だよ、それ、無責任過ぎるぞ、沙紀」

「だって知らないんだもん」

 沙紀は河豚のように口を膨らませた。怒るとすぐに頬を膨らます。そんなところは高校生の頃からまったく変わっていない。桐元は腕組をしながら深く考えようとしたが、部屋が暑過ぎて思考が集中出来ない。考えても無駄なので、あっさり諦めることにした。

「怪しいな、それってまさか『命がけのゲーム』なんじゃないのか?」

「まさか……」

 沙紀は大きな笑い声を上げた。彼女の笑い声は相変わらず快活でエネルギッシュだった。周りの人間も一緒に元気にさせる、そんな笑い方も昔から変わっていない。

 ……まさか、殺し合いと言うこともないだろう。

「じゃあ、どうやってゲームにエントリーする?」

「明日の昼に、二人で渋谷に行くの。そこで面接をすればOKよ。すでにアポもとってあるわ」沙紀は楽しそうに言った。

「おいおい、やけに用意が良過ぎるんじゃないのか?」

「だって、知樹、断わらないでしょう?」

 沙紀は切れ長の目を流して寄こした。再び心を見透かされたようで桐元は目を反らした。完全に見切られている……。だが、沙紀の敷いたレールに載せられるのが、ちょっと気に食わない。桐元はささやかな反抗を試みた。

「明日はバイトがある」

「辞めちゃいなさいよ、せこいバイトなんか、どうせ時給千円かそこいらでしょう? こっちは二億よ。に、お、く。最新型のエアコンだって買えるわよ」

 エアコンどころの金額じゃないだろう……。まったく、思考の貧相な奴だ。アルバイトの時給が、実は千円でなく九百二十円であることは口に出さない。馬鹿にされるのがオチだ。

 桐元は高校を卒業して以来、定職に就かずにアルバイトを転々として暮らしていた。今やっているのは運送業の荷物運びで、三週間勤めたところだ。単調過ぎるので既に飽き始めていた。重労働で疲れるわりに時給が安いのも難点だ。

「まあそうだな、ひとり頭一億。失敗しても元々だしな……」

「あら? 知樹は八千万でわたしが一億二千万よ」

「何だよ、それ?」桐元は開けた口を閉じて、沙紀を睨みつけた。

「情報料よ、当然だわ」

 沙紀は口をへの字にして桐元を睨み返した。彼女の鼻腔が、微かに膨らんでいる。一歩も引かない、そんな決意が彼女の目に輝いて見えた。

 暑苦しい部屋の中で、頭に血が上った。

「ふざけるなよ、沙紀。半々じゃなきゃ俺は出ないぞ」

 桐元は興奮して思わずテーブルを叩いた。ここで負けてはいられない。何しろ二千万円なのだから……。桐元の額から、体内のミネラルを豊富に含んだ汗が滴り落ちた。

「じゃあ出場するのね、知樹? はい、五:五で決まり!」

 桐元は口を開けたまま呆然と沙紀の顔を見つめた。

 や、やられた……。

「じゃあ、そういうことだから。明日は一緒に渋谷に行くわよ、いいわね。今日は遅いからここに泊めてもらうわ。わたし、シャワー浴びるからバスタオル貸してね。それと、のぞくなよ!」

 沙紀は立ち上がると、桐元の返事も待たずにバスルームに歩き去った。桐元はまたもや沙紀に乗せられてしまったことに気づき、外気より熱く、湿気の篭った溜息を吐いた。

 しかも、泊まっていくのかよ……相変わらず無警戒な女だ。

 ついでに言うと、のぞかねえよ……。



 低めのテーブルの前に座らされていた桐元は、薄い小麦色の液体を入れた丸いグラスを見つめていた。窓の外はこうこうと輝く炎天下で、見ているだけで目が焼けそうだ。そのくせオフィスの中は、利き過ぎのエアコンのせいで冷蔵庫のように寒い。これだからエアコンは嫌いなんだ、と思いながら、桐元は考えながら腕組みをした。熟れ過ぎた柿のような色のパーテーションの向こうで誰かが話しているのが聞こえる。それ以外、オフィスはおしなべて静かだった。


「十一時半にアポをとっているのよ」と沙紀に急かされながら午前十一時二十八分にこのビルに入った。何を生業にしているのか不明のその会社は、渋谷と恵比寿のほぼ中間にあった。細長い八階建てビルの三階、東光商事というのが会社の名前だ。

 赤字で東光商事と書かれた全面ガラス張りのドアを開け、オフィスに入ると、エアコンの冷気と共に「望月」という名札をつけた禿げ頭の中年男が顔を出した。背が百六十センチくらいしかなく、ずんぐりした体型をしている。弁当箱のように顔が四角く、どことなく栗をイメージしてしまう顔つきだった。

 沙紀が望月に愛想笑いを返しながら用件を伝えると、二人はすんなりと奥に通された。席に着く早々、桐元と沙紀は、望月から十分ほどの簡単な説明と、いくつかの質問を受けた。質問内容は、親、兄弟の有無、現在の職業、健康状態、等が主だった。

 桐元は早くに両親を亡くし、兄弟はない。両親の死後、叔父が桐元を引き取り、面倒を見てくれた。叔父夫婦のひとり娘、つまり桐元にとって従姉が既に嫁いでいた為、辛うじてひとり分の経済的余地が残っていたようだ。叔父は元来無口だった。桐元を人並みに扱ってくれはしたが、お世辞にも情が深いとはいい難い男だった。桐元は、この叔父に恩義を感じはしたが、大学に行かせてくれるだけの費用を出してくれるはずもなく、必然的に進学は諦めざるを得なかった。

 桐元は高校卒業後すぐ、就職先も決まらないまま叔父の家を出た。桐元が「家を出る」と挨拶に行くと、叔父夫婦は隠しもせず「ほっ」と安堵の溜息を吐いたことを、昨日のことのように覚えている。それ以来四年間、桐元は勝手気ままに暮らしてきた。叔父夫婦と連絡を取ったことは一度もない。彼等の生死さえ不明だった。

 沙紀も桐元と似たりよったり、という境遇であり、天涯孤独の生活を送っていた。沙紀が六歳のとき、母親は若い男と共に蒸発。その後、父親は沙紀を男手ひとつで育ててくれたが、彼女が十二歳のときに交通事故で亡くなってしまった。沙紀は一時、孤児院に預けられていたが、母方の大叔母という人物に引き取られた。中学卒業後、沙紀は桐元と同じ県立高校に通い、そこで桐元と知り合った。高校卒業と同時に叔母の家を出て自立しているのも桐元と同じだった。

 望月は桐元と沙紀の話した内容を青字の万年筆でびっしりと、行間の妙に開いたルーズリーフに書き込み「間違いはありませんか」と二度繰り返した。


 桐元は冷えきった室温よりも温い麦茶を飲み干すと、壁の時計に目を移した。もうすぐ十二時になろうとしている。望月が「少々お待ちください」と言って奥に消えてから既に十分余りが経とうとしていた。

「いやに待たすな……」桐元がテーブルを人差し指で叩きながら言うと、隣の沙紀は拝むような手つきで二の腕を摩っていた。

「検討しているのよ、きっと」

「検討って?」

「もちろん、ゲームの出場資格よ。私達がそれをクリアしているかどうか、でしょ」

「昨日、沙紀が言っていた、十八歳以上ってやつか? そんなものは俺達の外見を見れば一発で分かるだろう? それに俺は運転免許証も見せたんだぞ」

 桐元は「ほらごらん」といわんばかりに手を広げた。

「うん、そうだけど……それ意外にも条件がいくつかあるのよ」

 沙紀は剥き出しの二の腕を勢い良く摩った。彼女の皮膚に鳥肌が浮いている。二人が座っている位置は、天井から降り注ぐ冷気の直撃を受けていた。何故、こんなに冷房が強烈なのだろうか? 桐元も腕を組んでいた腕に力を込め、胸を暖めた。

「なんだよ、沙紀、その条件って? 知っているなら言えよ」

「う、うん……ええとね、家族がいないこと」

「なんだって?」

「家族がいちゃダメなの。つまり、ゲーム出場者は『天涯孤独』が条件なのよ」

「なんだ、それ? どうしてだよ?」

 桐元は沙紀に命令されて今朝、髭を剃ったばかりの顎を撫でた。剃り終わってから沙紀にチェックされ、剃り残しを指摘されたので再度剃る羽目になった。結局、沙紀の了承を得たのは四回目で、その頃には桐元の皮膚はひりひりと痛み、一部、血が滲んでいた。

「理由までは私も知らないわよ。でもこれって私達にはうってつけの条件でしょう?」

「俺には叔父さんがいるぞ。沙紀だって、たしか母方の叔母さんがいただろう?」

「大叔母さんね。親戚がいても連絡し合ってなければいいのよ」

 桐元は先ほどの望月の質問を思い出した。「二年以内に連絡を取った親戚はいませんか? 親戚でなくても学校の先生とか、恩人とかは?」桐元は「いないです」と答え、沙紀も「いません」と答えた。望月はいたって事務的に「そうですか」と応えた。

 天涯孤独。それはつまり社会から孤立した人間だ。逆にいえば、突然いなくなっても、誰も困らない人物ではないだろうか? ではなぜ、そんな人間をわざわざゲーム出場者に選ぶ必要があるのか?

 そういえば、望月は最後にこうも言っていた。「この話を誰かにしましたか?」

 桐元は昨日の晩、沙紀がいきなりアパートに押しかけて来て、そのまま今朝ここまで連れてこられた。誰にも話す余裕などなかった。話を持ってきた沙紀自身も桐元以外に話してはいないようだ。

「もしかしてヤバいんじゃないのか、これ? 家族がいちゃダメ、話しちゃダメって、どういうことだよ? 変だろ?」

「今更、何言っているのよ。どんなことにもリスクはつきものでしょう? それに、二億円の為だもの、なんでもありよ」

「そりゃ、そうだけど……」

 パーテーションの向こうの会話が唐突に終わり、人が席を立ち上がる気配がした。「それじゃあ、明日」と言った台詞が聞こえ、二人の男女がこちらに向かって歩いて来た。

 桐元は口を開けたまま、近づいてくる五分刈の大男を見上げた。彼は一九〇センチを優に超えるほどの巨躯で、みっちりした白い厚手のTシャツに薄い青のジーンズを履いていた。シャツから零れる両腕は、筋肉が溢れ出すほど盛り上がっている。絵に描いたようなゲジゲジ眉毛の下には落ち窪んだ小さな目が光っている。大振りな唇は硬く結ばれ、何がそんなにつまらないのか顰め面のまま歩いている。

 一方、男の後から来る女の方もかなりの長身で、桐元と同じくらいの身長がありそうだった。少なくても一七〇センチは超えている。痩せ型なのに胸はCかDカップ、一見モデルかと思えるほどすっきりとしていてスタイルが良い。短めの髪を後ろで束ね、大きな瞳と共に快活に見える。薄桃色の、襟の大きなシャツにベージュのパンツという井出達で、前を歩く無骨な男とはあまりにも対照的だった。彼女から、都市的に洗練された女の匂いのようなものを感じる。

 桐元は女と一瞬、目を合わせた。女は無表情のまま桐元を一瞥しただけで脇を通り過ぎていく。鼻筋の通ったオメメぱっちり美人で、桐元の好みだ。桐元は大男の中にすっぽり入りそうなほど華奢な、彼女の引き締まった尻を見送りながら思わず微笑を浮かべた。

 あの二人はどんな関係なのだろうか? どうしてもそれを考えてしまう。桐元の視線に気づくことなく、二人は吸い込まれるようにオフィスの出口に消えた。

「なにデレデレしてんのよ、知樹?」

 沙紀が桐元の顔を覗き込みながら言った。沙紀の切れ長の目は、蔑むような視線を桐元の顔に突き刺さしていた。かなりご機嫌斜めのようだ。

「なんだよ、デレデレなんかしていないだろう? 変なこと言うなよ」

「ふんっ。知樹の目玉にあの女のオッパイがハッキリ映っていたけど?」

「お、おまえ……」

 桐元は拳を握り締めたが、こちらに向かって歩いて来る望月を認め、口篭った。沙紀はその隙に口を膨らませ、そっぽを向いてしまった。望月は手品で使うような薄っぺらなハンカチを額に当て、汗を拭きながらこちらに歩いてくる。この男は相当の汗っかきのようだ。

「お待たせしました。OKが出ました。出場決定です」

 望月は嬉しそうに、そう言ってから席に着いた。その間も、くしゃくしゃになったハンカチで顔を拭くことを忘れない。

「やった」沙紀は奇声を上げると桐元の背中をドンと叩いた。OKが出た途端、倒れ掛かっていた機嫌がピンッと垂直に戻ったようだ。桐元は急な打撃にちょっと咳き込み、沙紀に「よせよ」と言ったが、もう一度肘で脇を突かれただけだった。

「いやあ、ぎりぎりでした。よかったですよ、お二人がみえて。明日にはゲーム開始ですからね。さっき、もうひと組が決まったばかりでして、これでやっと六組だったんですよ。七組揃わないんじゃないかと思って冷や冷やしました」

 望月は一方的にそう言って捲し立てると、ほとんど球になったハンカチで顔を拭った。彼は黒くなった歯の間から煙草臭い息を吐くと、何やら書類の束を机の上に出した。桐元はそれを見て、少々うんざりしたが、気を取り直して口を開いた。

「決まったもうひと組って、さっきの二人組のことですか?」

 桐元は親指で入り口のドアを指した。

「ええ、三木良介さんと岸根優さんのコンビです。明日、あなた達と一緒に飛行機に乗って頂きます」

「飛行機?」

「はい。会場は飛行機で南に数百キロ行った島ですから……」

 桐元は唸った。この暑い夏の盛りに、何が楽しくてさらに南に行かなければならないのか? その一方で、岸根優とまた会えると思うとちょっと嬉しくなった。あわよくば彼女と、お知り合いになりたいものだ……。だが、ちょっとした心配事もある。三木の巨体の重みで飛行機が落ちたりしないだろうか?

「よかったじゃん、知樹?」

「なにが?」

「またあのオッパイ女に会えて」桐元は、むっとして沙紀に向き直った。

沙紀はつんと顎を突き出し、そっぽを向いていた。

「お前だって良かったじゃないか、あのでっかいゴリラがお好みだろう? お前は昔からマッチョが好きだったからな」

 沙紀はそれを聞いて口を膨らませた。膨らんだ頬が目を押し上げたので、切れ長の目が更に細くなる。よく膨らんだ風船玉を頬の両脇から潰してやろうか、と思ったが、大人気ないので止めにした。そんなことをすれば、沙紀の反撃を誘うことになる。望月は、レベルの低い二人の会話に聞こえないふりをして事務手続きを続けた。

「では、ここに銀行の口座番号と名義名をお願いします。賞金が出た場合に直接、振り込まれますので……」

 沙紀はそれを聞くと再び機嫌を直した。「におく、におく」と口ずさみながら紙に書き始める。桐元が沙紀の態度に呆れ返りながらボールペンを持って書類に向かった。それを見ていた望月が、ハンカチをしまいながら言った。

「くれぐれも、このことは誰にも話さないようにお願いします……」


 帰り道の横断歩道で信号待ちになった。とてつもない太陽光線に空腹が加わり、今にも倒れそうだ。一番暑い時間帯。誰も道になど出ていない。こんな時間に外を歩くなど、自殺行為に等しい。沙紀はハンカチで首筋を拭きながら「カキ氷食べたい」を連発していた。桐元は出来るだけエネルギーを使わないように低い声で沙紀に言った。

「随分と出場決定が早くないか? ちょっと履歴書を書いて出しただけだぜ? それに『天涯孤独』って条件だって嘘をついてもバレないだろう、あれじゃ」

「だって一週間前に、FAXで送ってあるもん。わたしと知樹の情報。探偵でも雇って、調べたんじゃないの? ねえ、カキ氷食べようよ、ねえ?」

 ま、またしても……。体温が一度上昇した。またしても沙紀にやられたようだ。


 次の日の早朝、桐元と沙紀は羽田から小型ジェット機に乗った。行先は南に数百キロ、数年前に財閥総帥の持山幸造が個人的に手に入れた絶海の孤島だ。飛行機に案内してくれたポロシャツ姿のガイドの話だと、以前の島の名前は不明だが、今はこう呼ばれているという。「倶霊多クレタ」と。

 桐元と沙紀は荷物らしい荷物もないまま、機に乗り込んだ。機内は真ん中の通路を挟んで両側とも席は一つ、機の後方には縦向きではなく横向きの席が見える。商談用か何かだろう。流石に、沙紀と二人だけで横向きに並んで座る気にはなれないので、二人は通路を挟んで横並びに座った。

 案内のアロハは最前列に一人で座っている。興味なさそうに、黙って薄っぺらな雑誌を捲っている。彼は妙な臭いのする煙草を吹かしていて、その煙が桐元の席まで漂ってきていた。嫌煙家の桐元は、わざと咳払いをして不快を示したが、彼には通じなかったようだ。恐らく気づいているが、煙草を止める気はないのだろう。

 桐元は気を取り直して席の後ろを覗いた。桐元達の後方席には、昨日、東光商事で会った巨漢の三木と、岸根優が座っている。三木は桐元の真後ろ、優は斜め後ろの位置だ。

 三木が狭苦しそうに椅子の上に巨体を乗せている姿は、見ているだけでむさ苦しい。彼は苦虫を噛み潰したような顰め面で、丸太のような腕を組んで目を瞑っていた。無骨を絵に描いたような男だ。どこにも面白味がない。隣に座った優は静かに目を瞑り、席をリクライニングさせていた。短パンから覗く脚はスラリと伸び、白い滑らかな肌を露呈していた。大きな瞳も、形のいい唇も、今は閉じられている。白いポロシャツの胸の部分は、大きく実った果実が隠されているかのように膨らんでいた。まるで女神が横たわっているようで、いつまでも見ていたい気持ちになる。だが、優の方を見ていると、彼女の前の席に座る沙紀と必然的に目が合ってしまってバツが悪い。

 案の定、沙紀は口を膨らませながら桐元を睨んでいた。今にも叫び出しそうだ。桐元は沙紀の視線を避けるように前を向き、溜息を吐いた。沙紀はそれでも桐元を睨み続けている。桐元はもう一度溜息を吐いてから窓の外を見、考え事に耽った。沙紀はそのうち諦めてプイッと顔を背けてしまった。これでよし……。沙紀は放っておけば良い。

 三木と優……。桐元には、この二人が恋人同士とはどうしても思えなかった。あまりにも見た目も雰囲気も違い過ぎ、接点が見えない。いわば水と油にしか思えない。二人は賞金を得る為に結託しただけの即席コンビなのかもしれない。桐元と沙紀が友人ではあっても、恋人同士ではないのと一緒だ。気軽に会話できる状況ではないので、それを確かめる術はないが……。

「離陸します」機内にアナウンスが流れた。

 機は急加速し、甲高い唸り耳の中に満ちた。途端に耳が痛くなる。耳に指を入れられてぐりぐりされたような不快感が伝わってくる。腰が浮く感覚があるとすぐ、窓の外に市街地と海が広がった。小型機なので、ジャンボ機よりも上昇力があるのだろう。窓を覗いた。地面が横に見える……。分かっていても気持ちが悪い。桐元は初めて乗る飛行機に、早くも酔い始めていた。目を瞑って、機が平行になるのをひたすら待った。

「水平飛行に入りました。シートベルトをお取りください」

 機長のアナウンスが入るとすぐに窮屈なシートベルトを外した。やっと、真っ直ぐに飛び始めたようだ。それでも桐元の頭の中では未だにぐるぐると回転している。沙紀はさっさと横の席で目を瞑り、睡眠不足の補充を始めたようだ。昨夜、一緒に寝た熱帯夜のアパートで、彼女は無数の寝返りをしていた。相当暑苦しかったに違いない。あの部屋で寝るには、それなりのコツがいる。住み慣れた桐元でさえ、寝苦しかったのだから、無理もないだろう。ふた晩寝たくらいではコツはつかめない。

 桐元は沙紀と妙な関係を持ったことはない。桐元のアパートに彼女が泊まっても、手出しはしない。沙紀もそれを知っていて、無防備に泊まってしまうのだ。

 乗客達に会話のないまま機内の時間は過ぎ、桐元は早くも寝息を立てている沙紀を横目で眺めた。少女の面影を残す沙紀の寝顔を見ながら、桐元は過ぎ去った日々を夢想していた。



 桐元知樹は中学卒業後、県立高校に入学した。叔父の家から駅二つ分行った場所にある高校で、偏差値は中の下といったところだった。高校卒業と共に叔父の家を出ることを心に決めていた桐元は、学校で禁止されていたアルバイトで、こつこつ金を貯めていた。

 叔父夫婦は、そんな桐元の行動を黙認していた。叔父のくれる毎月五千円の小遣いだけでは欲しいものはおろか必要なものさえ買えないことを知っていたからだ。桐元は部活やクラブに入ることもなく、高校一年生の春からせっせとアルバイトを続けた。

 放課後さっさと帰る桐元は、交友関係が比較的地味だった。特に人嫌いなわけではないが人恋しい性格でもなく、口が達者なわけでもない。自分の部屋にテレビがないので、前日放送された番組の話題で級友と盛り上がることもない。叔父の家で唯一テレビのある部屋は六畳の居間だけで、そこには常に叔父が居座っていた。必然的にテレビを見なくなり、叔父が読み終わった新聞と公立図書館で借りてきた本だけが、桐元の娯楽のすべてだった。そんな桐元にも、ひとりだけ親友と呼べる人間がいた。同級生の北畠喜一だ。喜一は裕福なサラリーマンの父親を持つひとりっ子で、生真面目な少年だった。おっとりした喜一は、歳に似合わず冷めた性格の桐元と何故か馬が合った。会話は少なくとも心が通じ合える仲だった。二人はいつも学校でつるんでいた。

 桐元が二年生になると、三つ目になるアルバイト先の食品工場で同級生の平藤沙紀と顔を会わせた。彼女も学校に内緒でアルバイトをしている口だった。沙紀は二年生になって、初めて桐元と同じクラスになった女の子だ。それまでまったく会話のなかった二人だが、アルバイト先でお互いの境遇を話すようになり、それをきっかけに瞬く間に意気投合した。二人の友情は男女の壁を超えて膨れ上がり、学校でも頻繁に話す仲になった。余りにも仲が良いので、二人は級友達から頻繁にからかわれもした。桐元を介し、喜一と沙紀が知り合うまで、さほどの時間は必要としなかった。三人が友達になることは言わば必然といえた。三人はいつでも共に行動し、お互いに冗談を言い合いながら青春を謳歌した。

 三年生の夏、桐元が進学を断念したことを沙紀に告げると、沙紀もまったく同じ考えであると言った。一方、喜一は成績優秀で当然のことのように大学進学を目指していた。そんな夏休みのある日、桐元はファーストフードのハンバーガーショップで、予備校帰りの喜一と待ち合わせた。そこで桐元は、喜一の切実な告白を聞くことになった。

「俺さ、沙紀のことが好きなんだ……」

 夏だというのに色白の喜一は、ウーロン茶をストローで啜りながら顔を赤らめて言った。喜一が奥まった感情を吐露するのは稀で、ましてや恋の告白など聞くのは初めてだった。喜一の顔は目の位置が内側に寄り過ぎていて、妙に赤い唇が特徴的だった。ウブで、誰でも好感の持てる顔つきだった為、同級生からは「喜いちゃん」と呼ばれ、親しまれていた。好きな女のいることを桐元に告白した喜一は、いつにもましてウブに見えた。

 桐元はかねてから、喜一の沙紀に対する想いに薄々感づいていた。沙紀を見る喜一の目が日に日に情熱を増していくのを、桐元は見逃しはしなかった。確かに沙紀は可愛げがあるし、桐元が見ても魅力を感じる女だった。数年後には、かなりの美人になるであろうことは容易に想像出来た。だが、桐元は病的なまでに巨乳好きであり、Aカップマイナスの沙紀には女としての興味が湧かなかった。それさえ目を瞑れば、沙紀は限りなく理想に近い女とさえ言える。沙紀の勝気なところも桐元には興醒めではあったが、おっとりした性格の喜一には、姉さん肌の沙紀はもってこいだ。尻に敷かれることは明白だが、喜一にはそれがお似合いのようにも思える。

「分かった、喜一。俺に任せろよ」

 桐元が言うと、喜一は耳を真っ赤にしながら、黙って頷いた。


 桐元は早速、次の日の昼間、アルバイト先で休憩中の沙紀を店の外に呼び出して話をした。桐元は既に食品工場を移り、スーパーのドライ品出しアルバイトを行っていた。移って一週間後、沙紀も同じスーパーに合流した。二人で示し合わせた訳ではないが、沙紀はアルバイトを変えた理由を桐元に話さなかった。前職は自給の安い工場だったので、桐元も特に不思議には思わなかった。沙紀は桐元と同じドライではなく、レジ打ち係へと配属されたので仕事はまったく別物だった。

 道端の自動販売機の前で桐元は、沙紀に話し掛けた。

「喜一も受験勉強で疲れちまっているようだ。夏バテしないか、心配だよ」

「そうね、喜一はわたし達と違って繊細だから」

 沙紀は手に持った缶ジュースを飲みながら言った。めんどう臭そうに額の汗を水色の制服の袖で拭う。そんな無防備でおおらかな沙紀を見て、こいつも恋をするのだろうか、と桐元は思った。桐元はどう切り出そうか迷いながら台詞を考えた。昨日の晩、導眠時に思いついた会心の台詞は、起床と共に綺麗さっぱり記憶から消え去っていた。まるで自分のことのように緊張する。暫らく沈黙が続いた後、桐元はやっとの思いで口を開いた。

「つ……付き合って欲しいんだ」

 桐元は沙紀の目を見据えて言った。沙紀は目を丸くし、桐元を見つめ返した。

 彼女は「ええっ」と小さく驚きの声を上げたが、その場でモジモジしながら、もう一度「うそ……?」と呟いた。かなり困っている様子だった。

 ダメだったか? そう思いながらも、桐元は固唾を呑んで沙紀の返事を待った。

 沙紀は、暫らくして目を落すと静かに頷いた。OKのサインだ。

「え? いいのか?」

「う……うん」

「やったあ!」

 桐元はこれほど上手くいくとは思っていなかったので、両腕を振り上げながら思わず声を上げてしまった。まるで自分のことのように嬉しい。そのときの沙紀はいつもの跳ね返り娘と同人物とは思えぬほど、可愛いらしく微笑んでいた。それを見た桐元は、胸がキュンとするのを感じた。沙紀を喜一に譲るのが少々惜しく思える。だが、ここまで来てしまっては引き下がれない。桐元は気を取り直して一気に捲し立てた。

「じゃあ、いきなりで悪いけど、明日デートでいいか? 横浜のビブレ前に十時」

「いいよ、アルバイトは夕方からだから」

「よし、決まりだ。デートコースは……まず映画」

 沙紀は嬉しそうに笑っていた。こんなに楽しそうな沙紀の顔を見たのは久しぶりだった。最後に見たのは確か、桐元がホワイトデーのお返しに、飴を抱いたプーさんの縫いぐるみをプレゼントした時だ。それも半ば、ディズニー好きの沙紀に脅迫的に要求されたものだったが。

「俺が映画の券を買っておくよ、二枚」

「いいよ、悪いよ。私も出すよ」

「いいって、二人の初デート記念日だ。俺が出す」

「なによ、記念日って?」

 沙紀はころころと音を立てて笑った。目尻に涙が見えるほど喜んでいる。泣くほど嬉しいのか? 桐元は、実は沙紀も喜一を好きだったのか、と思い、ちょっとがっかりした。少なからず桐元には、沙紀の好きな相手は自分に違いない、という自負があった。それでも桐元はあえて快活に言い放った。

「このまま二人が結婚して子供が出来たら、記念日になるじゃないか? パパとママが初めてデートした日だぞ、って子供に教えられるぞ」

 沙紀は恥ずかしそうに黙って頷いた。はにかんだ笑顔は、はちき切れんばかりに輝いている。喜一の奴、ちくしょう! 桐元はあまりにも可愛いらしい沙紀の姿に嬉しくなり、喜一と彼女の幸せを願わずにいられなかった。桐元は、その気持ちを表現する術が思いつかず、沙紀の両肩を持つと右頬に唇を当てた。愛情を込めて頬にキスする。柔らかな感触が唇を包み込む。桐元の唇が沙紀から離れると、彼女の耳が真っ赤に染まっていた。

「じゃあ、そういうことで……」

 桐元にとって、それが沙紀とのケジメだった。この女はたった今から、親友の恋人になったのだ。沙紀は黙って顔を赤らめたまま、下を向いて押し黙っていた。


「うまくいったぞ、喜一。沙紀はOKだって」

「本当に?」

「ああ、かなり乗り気だったぞ。泣きそうなくらいに喜んでいた」

「ええ? まいったな……」

 桐元は予備校帰りの喜一と、夜に再びファーストフード店で落ち合った。喜一は桐元から報告を聞いて目を輝かせ、頭を掻いていた。喜一もこれほど上手くいくとは思っていなかったようだ。

「沙紀は、知樹のことが好きだと、ずっと思っていたんだけどなあ?」

「まさか……」

 桐元はそう言いながら、沙紀の嬉しそうな笑顔を思い出した。少なからず、桐元の胸にジェラシーが沸き起こる。

「明日の朝十時、ビブレの前だ。映画を見に行くことになっている。券はこれだ」

 桐元は明日公開の、前評判の高い恋愛映画の前売り券を二枚差し出した。

「いくら?」

 喜一は革の財布を尻ポケットから取り出して言った。家が裕福な喜一は、常に財布の中に三万円くらい入っているのを知っていた。それだけで桐元の二週間分のバイト料よりも多い。

「いいよ。俺から二人へのささやかなプレゼントだ」

「でも、悪いよ。せっかく知樹がアルバイトでお金を……」

「いいって言っているだろう。受け取らないなら絶交だぞ、喜一」

 喜一は不服そうに財布を引っ込めた。それから喜一は消え入りそうな声で言った。

「ありがとう、知樹……」

 控え目だが、いつも感情を込めた礼を言う喜一を、桐元は好のましく思っていた。


 次の日、桐元は昼からアルバイト先に来ていた。喜一と沙紀、二人の新カップルのことを考えながら仕事をした。喜一の奴、うまくやっているだろうか? 手を繋いでキスくらいするのかな? 明日にでも喜一から、たっぷりと報告を聞くとしよう。夕方になってスーパーに沙紀が現れると、桐元はすかさず彼女に近づいていって声をかけた。

「よう、沙紀。デートはどうだった?」

 沙紀は真っ赤に充血した目で桐元を睨みつけると、一言も言わずにスーパーの女子更衣室に向かった。桐元は沙紀の放つ妖気に気圧され、それ以上何も訊けなかった。

 どうしたんだろう? 沙紀は喜一と喧嘩でもしたのだろうか? ふたりのデートはうまくいかなかったのか……? 桐元は沙紀の態度に不安を覚え、店外の公衆電話に向かった。携帯電話やPHSは金が掛かるので桐元は持っていない。なくても困らないし、独立の為の貴重な貯金をそんなことで減らすことは避けたかった。それは沙紀も同じ考えらしく、彼女も自前の電話を持っていない。だが、このときだけは携帯電話を持っていないことを後悔した。携帯電話の普及で、すっかり公衆電話の数が減ってしまった。公衆電話を探す脚がもどかしい。

 やっと公衆電話を見つけ、喜一の携帯電話にダイヤルした。電話は繋がらない。電源が切られているようだ。三回試してダメだったので仕方なく喜一の家に電話をかけた。母親が出て「喜一は朝出かけたきり家には帰っていない」という返事だった。桐元はスーパーに戻り、イライラしながら仕事を続けた。売り場で品出しをしながら、レジの沙紀を眺めた。彼女はいつもと変わることなく客に対応している。

 何があったんだ? 桐元は、心の中に晴れない霧をしまい込んだまま、黙々と仕事をこなした。アルバイトが終わるとすぐ沙紀の姿を探したが、彼女は既に帰った後だった。

「なんだよ、沙紀の奴……」

 桐元は怒りながらも公衆電話に走り寄った。何度かけても喜一の携帯電話にはかからない。もう一回、喜一の家にかけようか、とも思ったが家の人に迷惑だと思った。結局電話せずに叔父の家に帰った。桐元が家に着いたとき、すでに十時を超えていた。

 その日は悶々とした気分の中、エアコンも扇風機さえもない部屋で、寝付かれぬ熱帯夜を過ごした。


 翌朝、朝方やっと寝付けたばかりの桐元は、叔母の甲高い声で寝床を叩き起された。

「知樹、友達の北畠君が自殺したそうよ」

「ええっ?」

 喜一は、前日の二十三時八分、鴨居と中山の間にある道路橋から、八王子発東神奈川行き横浜線の走る線路に飛び降りた。死因は轢死で出血死。即死だった。遺体は四方に飛び散り、原形さえ留めていなかったという。桐元はその知らせに呆然としながらも、なんとか気を取り直し、沙紀の家にダイヤルすることが出来た。だが、電話に出たのは沙紀ではなく、彼女の大叔母だった。

「沙紀さんをお願いします」

「え? なんですか? あたしゃ耳が遠くてねえ……」

桐元は受話器に向かって叫んだ。

「沙紀さんをお願いします」

「ああ? 沙紀はさっき出て行ったよ」

 桐元はいたたまれなくなり、その後すぐに沙紀の家を訪れたが、結局、彼女には会えなかった。まさか沙紀も自殺を? とも考えたが、それは心配なかった。夜、沙紀の家に電話を掛けると、耳の遠い大叔母が出て「沙紀は電話に出たくないと言っとります」と言った。桐元は、何も話そうとしない沙紀に対し、憎悪さえ抱いた。結局、喜一の自殺の原因は分からないまま、沙紀も何も話してはくれなかった。桐元は毎日を忙しく働いて喜一の死を忘れようとした。沙紀はそれきりアルバイトも辞めてしまい、まったく連絡の取れないまま長い夏休みが終わった。

 次に桐元が沙紀に会ったのは二学期の始業式のときだった。同じ学校に通っているからには顔を突き合せないわけにはいかない。渋る沙紀を廊下の端に連れて行き、桐元は問い正した。

「いったい、何があったんだ? なあ、話してくれよ、沙紀」

 桐元の沙紀に対する怒りは長い夏休みの間に汗と共に流れていた。喜一を失ったショックは余りにも大きかったが、沙紀も苦しい思いをしている、と気づいたからだ。桐元の切実な態度に、沙紀は重い口を開いた。

「……あの日、喜一と、ちょっと喧嘩したの……会ってすぐに。それからすぐに別れたんだけど、あんなことになるなんて……」

「どんな喧嘩だったんだ?」

 ふたりの喧嘩の内容とその原因について、沙紀は口を硬く閉ざした。桐元はそのあとも折りに触れ、何度も沙紀に詰め寄ったが、彼女はそれだけは決して口にすることはなかった。いつしか桐元は、沙紀に対する追求を諦めるようになった。それ以来、二人はよそよそしい関係となりながらも、お互いにお互いを気づかい、似た境遇の戦友として切っても切れない仲になっていった。二人の間で笑いは極端に少なくなったが、互いの相談相手として存在し続けた。

 やがて二人は高校卒業を迎え、今も気の知れた友人として付き合っている。どことなくよそよそしさもあるが、それ以上の親密さを桐元は感じている。喜一が死んでから四年が経ち、二人の間にもいつしか笑いが戻っていた。それでも二人の側に本来居るはずの、ひとりの姿がないことに変わりはない。それが暗い影となって、二人の心を静かに侵食していた。

 二人は楽しかった高校時代の話をすることなく、この四年を共に過ごしてきていた。



 飛行機が倶霊多島に敷かれた鼠色の滑走路に到着すると、四人のゲーム参加者は灼熱の島に降り立った。出迎えはなく、案内は羽田から一緒に来た、顔も腕も真っ黒な、青いアロハシャツ姿の男だけだった。いかにも遊び人風の風貌に加え、キーの高い声がこの男の軽薄さを物語っている。飛行場は細長く伸びた一本の道路のようで、離陸と着陸をこの一本で行うようだ。まるで陸地に埋め込まれた航空母艦のように見える。

 飛行場にはいくつかの格納庫と、平屋のプレハブがある以外、建物は何もなかった。必要最小限の設備しかない、個人所有の飛行場なのだろう。海港があるのかどうかは分からないが、この空港が唯一の島の玄関口なのかもしれない。

 さっさと歩くアロハの後を三木と岸根優が歩く。その更に後を桐元と沙紀がついて行った。ちょっと歩くだけで眩暈がしそうなほど暑い。手首で汗を拭きながら頭を回すと、滑走路の周りに多くの機が駐機してあるのが見える。こんな小さな飛行場に、何故これだけの飛行機があるのか不思議なほどの量だ。どれも、桐元達が乗っていたのと同規模の小型自家用ジェットばかりだが、一部、片持ち式のレシプロ機の姿も見える。

 飛行場の端に人の塊があった。距離はここから三十メートルほど。桐元達よりも一足先に、この島に着陸していた連中だろう。ゴルフウェアのようなものを着込んでいる中年の男が、数人の取り巻きを従えて歩いている。顔の彫が深く、金髪。恐らく欧米人だと思われる。いかにも金持ちの雰囲気を纏っている男で、でっぷりと大柄な体格をしている。

 それに対するホステス役は、品のある老婦人のようだ。こちらは明らかに細身の日本人で、白いポロシャツにパンツ姿だった。二人は大きく手を広げ、抱擁を繰り返した。彼等二人は気楽に会話をしながら、空港脇にある白いリムジンに向かって歩き出した。彼等の側には、巨大な日傘を差した白服が歩き、殺人的な太陽光線を避けていた。荷物をもった白服は、急ぎ足で一足先にリムジンに向かって走っている。

 出迎えはリムジンか、凄いな……。桐元が暑さも忘れて彼らの動きを見ていると、沙紀は目もくれずに声を上げた。

「ふわあ、暑いねえ。ここ本当に日本なのかな? ねえ、知樹? この島なんて言ったっけ?」

「倶霊多島だろ、たしか?」

「クレタ島? なんかそんな名前の島、聞いたことあるよ、たしかカリブ海かインド洋かどっちかだったかな?」

「ち、地中海だろう、地中海!」

 同じ高校を出ているとは思えない沙紀の無知さ加減に呆れた。二人の前を歩く岸根優にこの会話を聞かれていると思うと、桐元は顔から火が出る思いだった。沙紀が再び口を開こうとしている。また恥さらしな発言をするつもりだろうか? 桐元は目で合図を送ったが、彼女には全く通用しなかった。

「でもなんで実在する島と、わざわざ同じ名前にするのかな? 紛らわしいじゃん。しかも外国のさあ」

「ううん……」

 桐元は、沙紀の発したあたりまえにして的確な質問に答えられないでいた。それを見かねたのか、岸根優が助け舟を出してくれた。

「主催者の純然たる趣味よ」

「趣味?」沙紀が聞き返した。

「この島の持ち主である持山幸造は、昔からギリシャ神話に凝っているの」

「ギリシャ神話?」

 沙紀が無邪気に身を乗り出して、更に聞き返す。汗を垂らしながらも好奇心をそそられたらしい。そういえば、持山が世界屈指のギリシャ神話馬鹿だったのを、桐元は思い出した。だからといって、それでクレタ島とは余りにも安易に過ぎるのではないだろうか? 岸根優はちょっと沙紀を振り返っただけで、ふふっと笑い、話を続けた。

「そう、ギリシャ神話よ。私達がこれから行くところはラビリンスと呼ばれる迷宮なの。地中海に浮かぶクレタ島にも、ラビリンスという名の迷宮があったのよ。尤も、これは伝説でしかないけど……」

 優はそれだけ言えば分かるでしょう、と言わんばかりに前を向き、話を切り上げた。

「ラビリンスってなんですか?」

 沙紀は相変わらず無知丸出しで優に聞き返した。優はちょっと驚いた顔で振り返り、眉を寄せて桐元を見た。「あなたも知らないの?」という問いかけの言葉が彼女の目に映り込んでいる。残念ながら桐元もラビリンスのことはよく知らなかったので頭を掻いて誤魔化した。

「そう、あなた達……ラビリンスを知らないの」

 優はそれだけ言い、蔑みの視線を最後に押し黙った。これ以上、俺達と会話をする気はないようだ。沙紀はあからさまにがっくりと肩を落としたが、さすがに聞き返そうとまではしなかった。桐元も優から話の続きを聞きたかったが、これ以上、恥の上塗りには耐え切れず、何も言わなかった。だが、意外な人物から意外な言葉が発せられ、状況は一変することになった。

「俺も知らない」巨体の三木が唸るように言った。

思えば初めて聞く、彼の声だ。彼の声は、その体つきに似合わず、聖歌隊の少年のように透き通っていた。優は横を歩く大男を見上げると、唖然としながら小さな溜息を吐いた。

「そう……。じゃあ、三木さんも聞いておいてね……。

 クレタ島の王ミノスは、息子のミノタウルスを封じ込める為にクノックスの丘に巨大な迷宮を作らせたの。それがラビリンスよ。ミノタウルスは頭が牛で、首から下が人間の姿をした半人半獣の怪物で、知能が非情に低かった。だからラビリンスを出られなかったのね。ミノス王は毎年七人の少年と七人の少女をミノタウルスの生贄としてラビリンスに放ったの。ペルセウスがミノタウルスを退治するまで、毎年ね」

 半人半獣の怪物が出てくるあたり、いかにもギリシャ神話らしい。その上、英雄に倒されるという、余りにもありきたりなストーリーに桐元は思わず呟いた。

「ありがちな話ですね……」

 桐元はベタな感想を述べた。それ以上コメントのしようもない。優は表情を変えず、それを聞き流した。

「ふうん。それで、その伝説を元にクレタ島にラビリンスを作ったのね。それともラビリンスを作ったから、ここをクレタ島って呼んでいるのかな? どっちにしろ、持山幸造って、金持ちの癖に変な奴よね。あははっ」

 先頭を行くアロハ男がこちらを向いて沙紀を睨みつけた。彼の気分を害したようだ。彼は直接的にしろ、間接的にしろ、持山幸造に雇われているのだ。主人を愚弄されては面白くないだろう。当然の反応だった。だが、沙紀はどこ吹く風でアロハに気づかない。優はそんなアロハ男と沙紀を見比べ、笑い声を上げた。彼女に、桐元と沙紀の関係を見透かされたようで、ちょっと落ち着かない。優が笑うとき、彼女の目が一瞬だけ白目になった。どうやらそれが彼女の癖らしい。整った顔立ちに白目というアンバランスさに、桐元は彼女に対する憧れが急に幻滅するのを覚えた。

「まあ、確かに変よね、変態だわ。でも、自分達がその十四人の生贄だってことだけは忘れない方がいいわ」

「十四人? さっき言っていた少年少女七人ずつの生贄のこと?」

 沙紀はそう言いながら、桐元を眺めた。

「俺達は少年少女ってほど若くはないけど……」

 桐元は前を歩く小山のような大男を見上げた。声だけは少年だけど。そう思ったが口にはしなかった。

「それでも、生贄であることに変わりないわ」

 優がそう締めくくり、桐元と沙紀は押し黙った。

「私達は王が用意した生贄なの。もちろん、王というのは持山幸造のことよ」

「なにそれ? ばっかみたい」

 沙紀は口を膨らませて怒った。理不尽な状況に、やり場のない怒りを表している。桐元はそれを見ながら苦笑するしかなかった。ラビリンスを脱出した生贄に、二億円の賞金を払うという気風のいい王もまた、持山幸造なのだ。桐元はラビリンスで行われるゲームの概要をようやく知ったような気がした。

「どうやら持山幸造はラビリンスの伝説と同じようなゲーム盤を作り、行うのを望んでいるようね」

 優は他人事のように言った。自分だけは生贄ではないと、言外に匂わせているようだった。

「……でも、本当に少年少女じゃなくていいのかなあ?」

 三木の巨大な背中を眺めながら、沙紀が呟いていた。


 細い滑走路と小さな格納庫だけの飛行場の、そのまた脇の脇に、くたびれた白バンが止まっていた。やはり、俺達はリムジンで送迎とはいかなかったらしい……。運転席にはTシャツ姿のドライバーが座って待っていた。案内役のアロハは「乗ってください」と声を掛けると、さっさと助手席に座った。三木がスライドドアから一番に車に乗り込むと、タイヤが沈み込んだ。あの巨体を乗せて、本当に車が走るのかどうか心配になる。とにかく三木はデカ過ぎた。それでも四人は、何とか座席に収まることが出来た。

 車は炎天下の道を走った。心持ちアクセルを吹かしているようだ。驚いた事に、運転手はコラムシフトを操りながらクラッチを踏んでいた。いまどきオートマチックでないのも珍しい。下手な運転で、ギアを変える度に首が前に倒される。車内エアコンが轟音を放っていたが、音ばかり大きくてまるで冷えてこない。桐元は着ていたポロシャツを汗で濡らしながら、熱を含んだバックシートにもたれ掛かった。

 車の窓から島の様子を眺める。青く輝く海岸線が、手を伸ばせば届くほどすぐ近くに見える。空は青く、薄い雲があるだけの快晴。無粋な車のエンジン音がなければ、カモメの声が聞こえてきてもおかしくない。リゾート地というより、手つかずの無人島といったところか。一見した所、島は絶壁に囲まれた作りのようだ。飛行機の中に居るときに島を見せてくれればそれが確認出来たはずだが、気がついたら着陸してしまっていた。

 ガードレールもない平坦な道をバンは走った。道は崖っぷちぎりぎりではなかったが、運転操作をほんの少し間違えれば海中にドボンとなる。この下手糞な運転手では多少ならず心配になる。道路は舗装されておらず砂利が所々みえるが、よく踏み固められているのか、舌を噛むほどガタついてはいない。この島はまだまだ未整備のようで、木もなければ電信柱の類もない。まるで延々と続くゴルフ場のように何もない。

 さほどスピードを出していないはずなのに五分ほどでドライブは終わり、白い二階建ての建物に着いた。神殿と呼ぶには程遠いが、どことなくギリシャっぽい建築物に見えなくもない。これが持山幸造の趣味なのだろうか? だとすればセンスはあまりいいとは言えない。大きさは平均的な公立学校程度だろうか、さほどの大きさではないようだ。

 バンは、建物のエントランスにつけ、雑な急ブレーキで止まった。一同は車を降り、熱気を浴びながら建物の自動ドアに向かった。外はエアコンの利きが悪い車内より、うんざりするほど更に暑い。汗が絶え間なく流れて止まらなくなる。自動ドアを抜けると、建物の中は過剰な冷気で包まれていた。殆ど別世界のようだ。桐元の汗で湿った服が一気に冷える。風邪をひきそうになるほど肌寒く、全身に鳥肌が立った。入ってすぐ正面に巨大なガラス張りの水槽が見えた。イルカでも入れそうなほど大きい水槽だ。水槽の中には見慣れない熱帯魚が右に左に慌しく泳いでいる。

 桐元はじっとその魚を見た。鋭く並んだ歯、突き出た下顎、赤く大きな丸い目……。

 桐元は、これがピラニアであることに気づいた。フロアー担当者の趣味の悪さがうかがえる。沙紀が「可愛くない」と感想を述べた以外、ピラニアは一行に無視されてしまった。三木も優も、ピラニアには興味がないらしい。桐元とて熱帯魚観賞など願い下げだ。ピラニアはそんなことなど全く気にせず、涼しそうに泳ぎ回っていた。

 五人はエレベーターホールに向かった。三つ並んだエレベーターの上下ボタンの上に、自動販売機のお札挿入口のような機械がある。アロハが機械の前に立つと、胸ポケットから出したカードを横向きにしてそこに差し込んだ。ピッっと電子音がしてカードが吐き出される。アロハはカードを取り、エレベーターの「上」ボタンを押した。

 カードを差さなければ、エレベーターが使えない作りのようだ。桐元は左右を見回したが、階段は見当たらない。別階への入退室を厳しくチェックしているのかもしれない。無人島に限りなく近いこんな島で、何故これほどのセキュリティが必要なのだろうか?

 アロハについて四人はエレベーターに乗ると、彼は二階のボタンを押した。建物が二階建てなのだからあたり前だ、と桐元は思ったが、エレベーターに地下一階のボタンがあるのを見てぎょっとした。まさか駐車場でもなかろうに、こんな島にわざわざ地階を作ってどうするつもりなのだろうか?

 沙紀もそれに気づいたらしく、桐元に視線を送ってよこした。桐元は小さく首を振って、何も言わないように沙紀に伝えた。

「本日、午後三時にゲーム開始です。それまでゆっくり休んでください」

 アロハが言った。機械から発せられたのかと思うほど、抑揚のない無感動な声だ。

「ゲームに関する説明はないのですか? 俺はまだ、何も聞いてないんですけど?」

 桐元はアロハに訊き返した。

「ゲーム開始前に説明がありますよ」

 アロハは、それは私が答える質問ではない、と言わんばかりに冷たく言い放った。その件は別の担当者へ、ということらしい。桐元は不詳ながら黙って頷くしかなかった。二坪ほどの大きさの箱は上に向かって滑らかに動き、すぐに止まった。

 ゆったりとエレベーターの扉が開くと、アロハが廊下に出た。彼の案内に従い、病院のようにずらりと部屋の並ぶ廊下を四人の男女は進んだ。

「ここが三木さん、岸根さんの控え室です」

 アロハは金属の扉の前で立ち止まって言った。扉横の機械にさっきのカードを通す。エレベーターにあったのと同じ機械だ。電子音がして扉が横にスライドした。電子ロック式の重厚な扉だった。桐元は顔を覗かせた。部屋の中はホテルの個室のような作りで、シングルベッドが二つと椅子やテーブルがあった。

「このドアはゲーム開始まで開きません。用があるときはそこの内線で呼んで下さい。受話器を持ち上げれば自動的に管理室に繋がります。バスとトイレもありますので、使ってもらって結構です。それと、着替えが用意してあるので迎えに来るまでに着替えておいてください。その服がゲーム参加者の制服となります。他に何も身につけてはいけません。飲みものと軽食が冷蔵庫に入っていますので食べても構いません」

 男は一気に捲し立てるようにそう言うと、三木と優を部屋の中に入れ「質問はないですか」と訊いた。二人は「ない」と答えた。

「では、後ほど……」

 アロハはそう言うと、廊下で待っていた桐元と沙紀を無視して歩き出した。桐元と沙紀が、慌てて彼の後を追って歩き出すと、背後で電子音と共に扉が閉まった。アロハは廊下をいくらも行かないうちに足を止めた。優達の隣の部屋の隣だった。アロハは、さっきと同じ動作でカードを通し、扉を開けた。桐元が部屋を覗くと、さっきと構造はまったく同じだった。厳密に言うと、左右対称の違いはあるが。

「桐元さんと平藤さんはこの部屋です。何か質問は?」

 アロハは部屋の説明を端折った。さっき、優達への説明を横で聞いているはずなので、二度話す必要はないと判断したようだ。桐元は腕時計を見た。

「まだ十一時過ぎですけど、外には出られないのですか? ちょっと島を散歩したいんですけど」

 桐元が訊くと、アロハ男は眉間に皺を寄せた。よく焼けた顔に、多数の皺が現れた。最初に思ったよりも歳がいっているのかもしれない。四十歳に届きそうだ。

「それは出来ません。規則で禁止されていますので」

 アロハは目の色も変えずに言った。彼の声には、くだらないことを言うな、という感情がありありと現れていた。予想どおりの展開に、桐元は頷かざるを得なかった。

「そうですか……分かりました」

「他に質問は?」

「ありません」

 桐元は沙紀を見た。彼女は首を横に振った。彼女にも質問はないようだ。二人は部屋に入り、中の様子をうかがった。ベッドの上に深緑色の服がビニールに包まれ、畳んで置いてある。例の、ゲームの制服がこれなのだろう。脇にはパンツとシャツが見える。下着まで用意してあるのには正直驚いた。男は桐元達が部屋に入ったのを見届けると、息を吐いた。

「それでは、三時に迎えが来るまでに着替えを済ませておいてください。腕時計も外しておいてください。携帯電話もダメです。財布などの貴重品は部屋の金庫に入れてください。それと、これはアドバイスですが、少し食べて眠っておいた方がいいですよ」

 男はそう言うと、白い歯を見せて笑った。歪んだ顔に再び皺がよる。優達には言わなかった台詞を聞き、桐元は逆に不安を感じた。

「それはどういう意味です?」

 桐元は訊いたが、男は何も言わずに一歩下がった。そのまま廊下に戻って横を向いた。桐元の問いに答える気はないようだ。

「あっ、ちょ、ちょっと……」

 電子音がして扉が閉まった。アロハ男は、扉が閉まるのを見届けるより早く歩き出していた。

「なんだよ、チェッ」

 桐元は、白く明るい部屋に沙紀と二人きりで残された。扉にはボタンも何もなく、内側からは開けられないようになっている。所々触ってみたが、無駄のようだ。

 完全に閉じ込められた。外側からしか開ける事は出来ない。これではまるで牢獄ではないか。

「綺麗な部屋だね……知樹、なに飲む?」

 振り返ると、沙紀が冷蔵庫を開け、さっそく中から缶ビールを取り出していた。

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