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「おお、おお、素晴らしい……! これだけあれば、きっと……よくやったね、アシュレイ。きっと、君の妹は救われるだろう。素晴らしいことだ……」
そいつは目の落ちくぼんだ、血色の悪いやせぎすの男だった。
真っ黒な丈の長い衣装に身を包み、針金のような足の先にはとがった革製の靴を履いていた。
『まじない師』。
古くよりアシュレイの村で――かつては『街』と呼べる規模だったであろう、第三魔王との戦火のあとが未だ色濃く残るその村では、古くから『心の病』を処置してきた職業なのだとか。
「はい……よ、よろしくお願いします」
「ああ、まかせなさい!」
病的な面相に似合わぬ陽気な様子で、その男はアシュレイから大量の『舌』をうやうやしく受け取ると、跳ねるような足取りで去って行く。
ここは――アシュレイの家、らしい。
豪華な邸宅だ。
だけれど家財道具はなく、エントランスから廊下、客間にいたるまで、戦火の爪痕が生々しく残ったままだった。
「……これで、妹は助かるのでしょう。……きっと。まだ、わかりませんけど」
「あの人、信用できるの?」
「それはできます。私が幼いころから付き合いがあった……優しいお兄さんなんです。『外界より来たりしモノ』どもにここが襲われてから、生き残った村人も出て行って、幼い私たちのせいで苦労したせいか、彼もずいぶんやつれてしまいましたけど……そんなになっても、妹の心を治そうとしてくれている立派な人なんです」
「……そうなのね」
「はい」
しかし、アシュレイの顔はまだ浮かない。
彼女は小さな――子供用のような椅子に腰かけ、疲れたような息をついた。
ひと仕事終わった。
だけれど、まだまだ安堵していいかわからないのだ。
ひょっとしたら、ダメかもしれなくて――
まだ、妹の回復を目指す冒険の旅は続くのかもしれない。
中途半端な達成感が、体内にわだかまっている。
もうすべてから解放されたい想いはあって、でもまだまだかかるかもしれない、宙ぶらりんな精神状態。
「ひと仕事終わったんだから、のびのびするべきよ!」
椅子に座るアシュレイの膝に、そっと小さな手が乗せられた。
マナ。
すすめられたもう一つの椅子に腰かけず――荷物さえおろさず――幼い獣人の少女は、勇気づけるように笑う。
「あなたはよくがんばったわ。まだ結果がわからなくたって、あなたが『がんばった』っていう事実は変わらないもの! 誰も褒めてくれなくたって、あたしが『いい子』ってしてあげるわ!」
マナは背伸びをして、椅子に座ったアシュレイの黒髪をなでた。
……小さな手。だというのに、母を思い出す。
もういない、両親。
自室で親を思うたび、アシュレイの視線は部屋の隅に動く。
そこには、大きな切創のついたクローゼットが存在した。
もとは白塗りだったのであろう、しかし今は傷のせいでめくれて、なにも縫っていない木材の表面が露出してしまっている、古いクローゼットだ。
「あのクローゼットがどうかしたの?」
マナが、アシュレイの視線に気付いた。
アシュレイは少しだけ迷ってから、口を開く。
「……あれは、私と、妹が隠れていたクローゼットなんです……隠れて、両親を見ていた……死んでいく、両親を見ていた……」
「……部屋に置いておくの、つらくない?」
「つらいですけど、でも、あれを見るたび思い出すんです。……あの光景、あの、怖ろしい、赤い景色……妹の心はまだクローゼットの中に囚われていて、抜け出せていない」
「……」
「あの子の心を救うためにも、私はがんばらなきゃいけない。……クローゼットを見るたびに、それを思い出すんです」
「あなたは、自分を追い詰め続けてるのね」
「…………そうかもしれません」
「もう、がんばりやさんなんだから! ほら!」
と、マナが一歩下がって、両腕を広げた。
アシュレイは首をかしげる。
「……『ほら』?」
「抱きしめてあげるわ!」
「…………」
「あなたはずっと力をこめて、ずっとがんばり続けているんだもの。誰かに抱きしめられるのが必要よ! だから、あたしが抱きしめてあげるの。抱きしめて、頭をなでて、あたしの腕の中にいる時だけは子供に戻っていいのよって、言ってあげるのよ」
「……でも」
「遠慮しないの!」
「……いえ、その……」
「ほら! 胸にとびこんでいらっしゃい!」
「……」
甘えろというの?
こんな幼い女の子に?
……と、アシュレイは思ったが、マナは引き下がりそうもない。
そもそも、マナが本当に幼いとは思えない。
獣人をふくめ、この世界に『幼い見た目のまま大人になる人種』はいなかったように記憶しているが……
成長には個人差があるものだ。
マナの容姿はもう、ほんとうに、妹より、なお幼い女の子なのだけれど……
その雰囲気には、年上らしきところが感じられるのも事実だ。
あと、マナは恩人である。
彼女がいなければ『人の精神を吸い取る舌』の入手はかなわなかった。
たぶん、【犬】を一体倒せればいい方。
あの時は命と引き替えのつもりでなんとかなったが、マナが――『無事に生き残ってくれる、自分以外の人』がいなかったならば、その戦法さえとれず、大量の犬にただ殺されていただけだった可能性はとても高いのだ。
……そもそも。
クエスト前日に『外界より来たりしモノ』どもへの恐怖を乗り越えることさえ、マナがいなければ叶わなかった。
そのマナがキラキラ輝く瞳で両腕を広げて待っているのだ。
ここでお断りするほど、恩知らずにはなれそうもなかった。
「じゃ、じゃあ、失礼して……」
色々考えた結果、アシュレイはマナの前に膝立ちになり、彼女の胸に顔をうずめた。
うずめるほどはない。
むしろマナの下腹部あたりが、アシュレイの胸にうずめられている感じになる。
マナの両腕がアシュレイの頭にまわされる。
軽くなでられると――背筋から頭まで、『ぶわり』となにかが広がるような感じがした。
気持ちがいい。
癒やされている――そんな感じだ。
「よくがんばったね。偉いね」
心音の音が心地よい。
眠気とともに、目の端が熱くなる。
理解した――きっと、泣いているのだ。
ずっと張り詰め続けてきたなにかがゆるんで、泣いているのだ。
「いい子、いい子」
心音が心地よい。
アシュレイは我知らず目を閉じていた。
柔らかく、温かな時間だった。
……このぬくもりを知っている気がした。
それはきっと――大人になろうとするあまり忘れ去っていた、母のぬくもりだったのだろう。