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『モンスター』と『魔族』。
人類がこの呼称を用いる時、二者に明確な違いは存在しない。
総じて『人類の脅威』を称する時に用いられる呼び名である。
強いて言うならば、野生動物なみの知能しかないものを『モンスター』、『モンスターに比べ知能が高いもの』を『魔族』と呼ぶだろうか。
【犬】に限らず、第三魔王の眷属たちはこのあたりの区別が難しい。
……たとえば野生動物の賢さを測る時、狩りの手腕を見ればいいだろう。
殺戮者の賢さを測りたければ、殺しの手際を知ればいい。
だけれど、第三魔王の眷属――『外界より来たりしモノ』どもは、これらの基準では測ることができないのだ。
連中の狩りには無駄がある。
連中の殺しには余計なモノがある。
食糧がほしいだけならば迅速に狩ればいいのに、そうしない。
殺しが目的ならば効率のよいやり方はいくらでもあるのに、簡単な方法を選択しない。
肉体構造の問題だけではない。
たとえば『追い詰めた獲物をなぜか見逃す』などの行為が、まれにではなく、見られる。
これらが『生物学的、魔術学的、神学的に説明のつかない生態』とあいまって、『外界より来たりしモノども』をより謎めいた存在としている。
ただし、それでも、まったく解明のとっかかりもないというわけではない。
……まことしやかに、ささやかれていることが、ある。
『外界より来たりしモノは、人類の恐怖を糧にしている』。
『だから連中の狩りや殺しには、無駄が入る』。
その無駄とは、『苦痛を与える』という一手間であり、『恐怖を与える』という、演出だ。
ようするに――
『外界より来たりしモノ』どもは、人類の絶望を糧にしているのだと、多くの人々のあいだで、ささやかれている。
本当か、嘘かは、わからない。
◆
薄い雲がかかり日差しの陰った昼間だった。
彼女たちは廃村にたどりつく。
そこからは妙なニオイがした。
腐臭、だろうか。
酸っぱくて、甘い。すえたようなニオイ。
タンパクな生臭さがそこにまじりあい、立っているだけで気分が悪くなりそうだ。
村の敷地に一歩入れば、腐った泥を踏んで『びしゃり』という音が出た。
空気まで重苦しい。
呼吸をするたび体内によくないモノをとりこんでしまうような、イヤな気分。
「依頼によれば【犬】は一匹だけだっけ? 早めにすませた方が、よさそうね」
大きなリュックを背負った獣人の少女は言う。
アシュレイは無言のまま、うなずいた。
壊れた家々の立ち並ぶ村を見回す。
ある家は屋根が壊れ、またある家は壁の大部分がない。
昨日は晴れていたにもかかわらずそこここには湿った泥があり、そこから吹き上がるのは、やはりよからぬなにかを含んだニオイだった。
「アシュレイ、【犬】について、あなたはどこまで知っているの?」
「調べられることは、一通り……ええと、青白い、大きな生き物で……長い舌で『人の精神を吸い取る』と言われています。たしか……屋内によく、なんの前触れもなく、妙なニオイと一緒にあらわれるんだとか」
「あたしの知識とも一致するわ。『騎士モーガンのモンスター辞典』を読んだの?」
「は、はい……どこの街のギルドにも置いてあります、から……」
第三魔王を倒した『四人の勇者』の一人が書いた辞典だ。
それなりの値段がするので一般にはあまり流通していないが、ギルドなどには寄付されているらしく、必ず置いてある。
きまじめな性格で知られる騎士モーガンらしく、彼が戦ったモンスターの情報が事細かに書いてあるので、冒険者などの『モンスターと戦う職業』の者は必読の書とされていた。
「じゃあ、ニオイに気を付けて進みたいところだけれど……」
「……この廃村、ずっと、妙なニオイがします」
「そうだねえ。……だから連中、ここに巣を作っているのかもしれないわね」
ニオイ以外なんの前触れもなく現れるモンスターの、ニオイがわからない。
これほどやりにくい状況もないだろう。
「……ともあれ、屋内に出るってんなら、屋内に行かないといけないわ」
「……はい」
屋内――
とはいえ、そこらには壊れた家があるだけだ。
二人は閉塞感と出口がなくなるのを嫌い、比較的破壊の度合いの進んだ、壁などからも出入りができるような家で待ち伏せることにした。
いよいよ戦いが始まるのだ。
緊張で震える手で、アシュレイは腰の剣を抜く。
飾り気のないロングソード。
そう高級な代物でもないが、この剣とともにいくつかのクエストをこなした。
別にこれが初めてのクエストというわけではない。
王都の北にある街――そこが故郷というわけではないが――で、今までも活動していた。
アシュレイにとって『冒険者』は『後ろ盾がいらない、すぐに稼げる手段』だったのだ。
なにもかもを失ったから。
心の壊れた妹の生活費を稼ぐためにはすぐにお金が必要で、アシュレイが思いつく『即金が手に入り、若くてもできる仕事』がこれぐらいだったのだ。
「…………大丈夫、大丈夫」
……だから、恐怖になんか、負けていられない。
アシュレイは昨日、マナに教えてもらった『儀式』をおこなう。
言い聞かせるように、ゆっくりと、小さな声で、繰り返す。
すると、緊張と恐怖でガチガチだった手が次第に本来の柔らかさを取り戻していくような感覚があった。
――これなら、いける。
「アシュレイ!」
落ち着きは戻っていた。
だから、マナの声に、きちんと反応できる。
――見えている。
壁の壊れた廃屋の隅。
柱と地面の境目の角。
そこにぼんやりと青い『もや』のようなものがかかり――
『もや』から、青白い、触手のような舌が、アシュレイめがけて一直線にのびてきた。
剣で打ち払う。
感触は金属的ではないが、さりとて柔らかい感じでもない。
実際に、打ち払いながら斬り落すつもりで刃を振ったのに、その『舌』は弾かれただけで、斬れてはくれなかった。
『もや』はすでにその正体をあらわしている。
……村全体を包む臭気を、より濃縮したような。
目の前にいるだけで呼吸が詰まるほどの異臭。
そいつは溶けた犬だった。
どろりどろりと全身から青白い膿のようなものをしたたらせる、巨大な犬。
四つ脚で立った姿は、アシュレイの胸ぐらいの高さがあった。
ハッハッハッと荒い呼吸をする口からは、舌が伸びている。
青く長い、円柱形の舌。
舌は開いた口から地面について、そのまま獲物の隙をうかがうように、右へ左へいったりきたりしている。
腐った瞳。
見据えられるだけで息苦しい。
全身が膿のようなものに包まれ、ただにらみあっているこの瞬間にも、膿は絶えず地面に落ち続け、また新たな膿が体からこぼれ続けている。
目にしただけで喉奧に吐き気がこみ上げるようなその存在こそ――
【犬】。
第三魔王とともにこの世界におとずれたとされる、『外界より来たりしモノ』。
「アシュレイ、そいつはあなたに任せるわ」
マナは言う。
アシュレイは【犬】から視線を外せぬまま、問いかける。
「マナさんは……?」
「どうやら調査不足だったみたい。一体じゃないわ。――囲まれてる」
アシュレイは【犬】ごしに廃屋の外を見た。
――ああ、認識すべきではなかったのだ。
世界中が異臭に包まれているかのような錯覚。
大気は腐り、地面はおぞましき青白い膿のようなもので水たまりができている。
……いや、最初からできていた、のだろう。
思い返す。泥。前日晴れていたというのにそこここにあった湿った地面。
それは、湿った土などではなく――あの生物の、痕跡だったのだ。
知らずに踏みしめてしまったことがなんともおぞましい。
今すぐ靴裏をどこかにこすりつけて、あの『泥』を払い落としたい衝動にかられる。
だけれど、できない。
そんな致命的な隙を見せる余裕など、ない。
十や二十ではきかぬほどの数、腐った目玉がこちらを見ている。
そいつらは長い舌をしならせ、うねらせ、息も荒く、うかがっている。
精神を吸い取る舌。
やつらが狙っているのは、肉ではない。
心を、想いを、糧とするため――
「 !!」
おおよそこの世界の音では当てはまらない吠え声が響き渡る。
そうして、【犬】どもの舌が差し向けられた。
肉を狙ってではない。
アシュレイの、心を狙って。