1-20 Someday My Prince Will...
あの日のことは、鮮明に覚えている。
大学デビューに合わせて心機一転、高校時代に伸ばした髪をばっさり切ってしまおうかどうか。 いっそのこと、コンタクトにしてみようか。 でも、いまいち勇気が出ないしな。 そんな、嬉しい悩みで頭が痛かった頃だ。
今考えると、あの日が、あたしの“個性”が暴走した最初の日だったのだと思う。
その日、あたしは痴漢にあった。
大学の入学前オリエンテーションへ向かう電車の中。 池袋へと向かう電車は、ベッドタウンの聖地埼玉から乗ってくるサラリーマンでごったがえしていた。 初めて経験する都会の満員電車は、これこそまさに『想像を絶していた』という言葉を使うべき状態だと直感するほどに混沌としていた。
汗の臭い、整髪剤の臭い、ざらざらしたシャツの感触、隣の人の荒い息遣い、体温。 なにもかも、無遠慮に近い。 前後左右、これ以上ないほど人と密着する経験というのは、生まれてこのかた初めてだった。
誰もが死んだような顔をして密集し、硬直している様は、まるで近世の奴隷貿易に使われたブルックス号のごとくだ。 歴史の教科書に載っていた、奴隷たちが一切の隙間なくすし詰めにされた船のイラストが頭の中をよぎる。
うーん、この場に限って、人間とは社会のための物資でしかないのかも。
あたしはそんなことを考え、それをテーマに一つ小説が書けないかと妄想することで苦しい時間を耐えようとしていたのだった。
都会は痴漢が多いというのは、ネットの記事を読んで知っていた。 でもあたしにとってそれは、あたしの手元にある小説やアニメと同じくらい遠い世界のお話に思えていた。 だってそうでしょう? あたしが実際に見ていないことをリアルに感じるなんて、どんな妄想力があっても無理。 みんな、分かったフリをしているだけ。 だからいざ自分がそういう立場になると、思うの。 『話が違う』って。
あたしも結局そうだった。
痴漢なんて、撃退してやる。
ってくらいの意気込みというか、楽観があたしの中にはあった。
でも、実際に『そう』なってみると、あたしはやっぱり思ったのだ。 話が違うと。
最初は、何か柔らかい感触がお尻の下を通り過ぎて行った、くらいだった。 誰かのバッグが触れたのかな、と思って気にせずにいたけれど、10秒と経たないうちに、それまるで落ち着く先を見つけた渡り鳥のように戻ってきた。
ごつごつとした感触が男の人の指だと理解したのは、それが謙虚かつ慎重に、あたしのお尻を撫ではじめた時だった。
その瞬間。 ぴしりと明確に音をたてて、あたしの身体と思考は凍りついた。
はじめのうちは、凍ってしまった身体は感覚を失い、いかなる情報も脳内に伝えようとしなかった。 視界は真っ暗になった。 電車の揺れる音も聞こえない。 おしくらまんじゅうの暑苦しさも、息苦しさも感じない。 お尻に張り付く猛烈な違和感さえも。
もしかすると、そのまま何もかも氷ついてくれていた方がよかったのかもしれない。 しかし、律儀にも感覚は戻ってくる。 雪解けのようにゆっくりと、這うように、悪寒が全身を駆けまわっていく。
あたしは、無意識のうちに、自身を蹂躙する感覚の正体を確かめていた。 目の端ぎりぎりで捉えたのは40歳くらいの普通そうなおじさんの顔。 灰色のジャケットはくたびれていなく、髪もオールバックにしっかり整えられている、しかるべき場所で会っていれば好感さえもてそうなサラリーマンだった。
その人は、まるでささやかな幸せを運ぶ妖精でも探してるかのような顔で視線を宙にさまよわせいた。 そんな表情をしていながら、あたしのお尻をさわり続ける。 あまりに平然としているものだから、あたしは今自分が感じている感覚が錯覚なんじゃないかと疑いさえした。
前を向き、強く目を閉じて、頭を軽く振ってみる。 けれどもそれは消えない。 むしろ好機とばかりに遠慮が剥がれ落ち、欲望が身体を侵食していく。
怖い。 怖い。 怖い。
その一言だけが脳みそを支配し、あたしはとうとう目を開けられなくなってしまった。 まるで苦手なジェットコースターに無理やり乗らされたときのように、時間が終わりを連れてきてくれるのをただ待つしかできなくなってしまっていた。
そのときだった。
電車が少し、大きく揺れた。 同時に。 背後でどすんっと鈍い音がして、不快な感覚が消え去った。 「すみません」という、消え入りそうな若い男性の声が聞こえた。
恐る恐る、視界の端で後ろを見ると、さっきまでのおじさんではなくて、中性的な顔立ちをした、あたしとそう歳の変わらなそうな男の人が立っていた。 痴漢のおじさんはその横にいた。 依然として何かを探すように視線を宙に投げているが、落ち着きがなく、どこか弱々しく見えた。
あたしは視線を戻す。
あたしより頭半分だけ背が高いその人は、静かに歯を食いしばって吊革に両手で掴まっていた。 そうしながら、痴漢男に向かってぺこぺこ頭を下げている。
その、ひどく気弱そうで、それでいて必死な顔を見上げてあたしは、彼がこの混雑にも関わらずあたしの身体に触れないようにしているのだと気づき、彼が電車の揺れに乗じて痴漢男を押し、あたしから無理やり遠ざけてくれたのだと気づいた。
彼と一瞬目が合う。
彼は気恥ずかしそうに、でもあたしを励ますようにぎこちなくはにかみ、すぐに視線を逸らしてしまった。
ぴしりと、今度は枝葉を踏んだかのようにささやかに、あたしの心は音を立てた。
機能を停止してしまっていた脳みそではその音の正体を掴むことは叶わず、あたしは条件反射的に、彼に向ってひとつの言葉をかけようとした。
『ありがとうございます』
しかし、発したつもりの声は、口から出た途端にまるで蒸発するみたいに消えてしまった。 彼に声が届いた様子はない。 何度伝えようとしても、まるで夢の中にいるときみたいに、あたしの声帯は言うことを聞いてくれない。
そうこうしているうちに、電車は終点の駅についてしまった。
停滞していた車内の空気は動きだす。 人々は奴隷船から解放され(人によっては別の奴隷船に乗り替えるだけなのかもしれないが)、我先にと世界に流れ出ていく。 痴漢男はその流れに乗じるようにしてのそのそと歩いていく。 そして、あたしを助けてくれた彼もまた、平然と、その他大勢の人たちと同じように平然と、歩いていく。
待って、と言おうとしたけれど、彼の服のどこかを掴もうとしたけれど、やっぱりだめだ。
彼はそのまま人混みに飲まれて消えてしまった。
後にあたしは、自分が彼に一目惚れしていたのだと気付いた。
単純だと笑われてもいい。 ありきたりだと笑われてもいい。
その単純でありきたりを、あたしは夢見ていたのだから。
彼は、あたしの夢見ていた王子さまとは大きくかけ離れていたけれど。
線の細い顔立ちで、ひどく自信なさげだった。 助けた人に深く関わろうとしなかった。 俺様キャラじゃなかった。
でも、その静かな優しさに、あたしは恋をした。
だから、痴漢に対する恐怖があっても、毎朝同じ時間の電車に乗った。 あの人に会いたかったから。
だから、その王子さまと再会できた時はとっても嬉しかった。 彼はあたしのことを覚えていないようだったけれど。
その王子さまはあたしに、王子さまなんて期待するなと言った。
分かりました。
もう王子さまは期待しません。
いつか王子さまが、なんて言いません。
・・・でも。 分かっていますか?
そう言ったあなたは、その優しい言葉で、紛れもなくあたしの王子さまになっちゃってるんですよ。
・・・ああ。 ずるいなあ。
優しすぎるって、ずるい。
あたしはあなたのことをなんと呼べばいいのだろう。
それを考える楽しみを、あなたは許してくれる。




