1-18 等身大の僕たちだから
橙と紺のグラデーションが夕と夜との境界をせめぎ合いながら空の色を変えていくのを、僕は静かに見送った。 振り返れば、幅200メートルを越す荒川と、その向こうに小さな光の群れを成す川口市街が広がっている。
夕食の時間が迫り、ランニングやサイクリングを楽しむ人もまばらになった草生す土手の上で、僕はひとり立ち竦んでいた。
ぼんやりとした頭の中に、最近有名になった映画の監督がテレビのインタビューに答えていっていたことがふわりと浮かんでくる。
嬉しい気持ちのときに見る景色が美しいように、美しい景色を見ることで人の心が安らかになることがあるのではないか。
アニメーション映画の中に現実よりも美しい日本の風景を描き出して見せた彼が穏やかに言った言葉は、そのときの僕には真実のような気がした。
しかし、今僕を取り囲む美しい景色が心を浄化してくれることもなければ、すさんだ心と目で見る景色が僕に寄り添うように輝きを失って見えるわけでもなかった。 世界は僕を変えることができず、僕もまた世界を変えることができない。
それは、僕の無力さと世界の残酷さを象徴しているかのようだった。
そんなとりとめのないことを考えながら、僕はもう2時間以上もこの場所につったっている。 一度座ってしまえば、もう立ち上がれなくなってしまいそうだった。 今日、瑠璃葉との間で交わした言葉の数々は、僕をうちのめすには十分すぎた。
りーりっりっと、鈴虫とはまた違った軽快なリズムを刻んでキンヒバリが鳴く。 まだ冷たい夜風が僕の身体からこっそりと体温と力を奪いながら脇を通り過ぎていく。
と、そのとき、僕を包む夜の気色がふわりと変わった。
背後から、とんとんという軽い足音と、ほんのり甘く懐かしい香りが近づいてくる。
僕には、その気配の正体がなんとなく分かっていた。
『見つけてくれる人って、見つけてほしくないときも見つけてくれちゃうから厄介ですよね』
奇しくも、数時間前に瑠璃葉から投げかけられた言葉が思い浮かぶ。
僕も、彼女には見つけてほしくなかった。 彼女が僕のことを、あるいは瑠璃葉のことを助けてくれると分かっていても、ふがいない自分を見られるというその事実に耐えられそうになかったから。
しかし、よくよく考えてみれば、ヒーローとは見つけてほしくないときにこそ僕たちを見つけてくれる存在なのかもしれない。 彼女はきっと、同じ言葉をかけられれば嬉々とした顔を見せるだろう。
見つかった以上、逃げるわけにはいかない。 意を決して、僕は振り返った。
「・・・こんばんは。 さすが、ミカタ屋だね」
「や。 ここに来たのは偶然なんだけどねー」
ミカタ屋の女、蓮川千景は、いつも通りの飄々とした態度で手を振った。 服装はオフホワイトのワンピース。 首元では赤いリボンのチョーカーが風に揺れていた。
彼女が僕の元にやってきたのは、もしかすると偶然なのかもしれないし、ヒーローだけがもつ『個性』さえも超越した力による必然なのかもしれなかった。 しかし、今はそんなことはどうでもいい。 僕と彼女がこうして出会ったという、その事実だけがここにある。
「私も、ここによく来るんだ」
千景は、僕と彼女の間では絶対に逃れることのできない話題をあえて遠ざけた。
「それもね、荒川広しといえどちょうどこの辺。 ・・・ちょっとついてきて」
そう言って、彼女は僕の返事を待たずに西へと歩き出した。 僕も、特に考えなしに重い足取りで後に続く。 それから1分と歩かないところで彼女は足を止め、おもむろに西方を指さした。
「ほら。 ここから見ると、あの向こうに海が広がってる気がしてこない?」
そこには、何もなかった。
彼女の指さす方へ向かって土手道は上っていき、荒川の南北をつなぐ数少ない道路橋を挟んで山を描くように向こう側へ下っていく。 ここから見上げると、200メートルを超す道路橋によって、視界は闇と一体化した荒川河川と建物の影の一つもない空とに綺麗に二分されていた。 彼女の言う通り、それは港町を歩いているときに唐突に現れ、僕たちに海の予感を感じさせるあの開放感のある景色に似ていた。
「私、あんまり海に行かないんだけどね。 たぶんそれは、ここで満足しちゃうからなんだよね」
「・・・君にとって、海の本質はそこにたどり着く前の景色にあるんだ?」
「うーん、言葉にするのは難しいんだけどね。 私たちはなんでもある世界に生きてるから、気づかないうちに目が疲れて、迷いやすいと思う」
彼女は頬にかかった茶色の髪を払いながら何もない濃紺の空に目を細める。
「だから、たまに視界をクリアにしないといけない」
そう言う千景の瞳は、僕から見ればいつだって迷いなく、澄み渡っているような気がした。 まるで、台風の過ぎた次の日の秋晴れの空のように。
だが残念なことに、そんな彼女の翡翠色の瞳や、あるいは余計なものの何ひとつない、海の広がりを感じさせる夜空が僕の心を動かすことはない。
そもそも、僕の視界はクリアだった。 自分と世界とを中立に見つめた上で、今を客観的に把握している。 誰がどういう理由で苦しんでいて、その原因はどこにあって、誰に責任があるのか。
だからこそ僕は、千景が夜のとばりを見送り、こちらを振り返ったのを見計らって、頭を下げた。
「・・・ごめん、千景。 僕じゃ瑠璃葉を助けられなかった。 いま瑠璃葉のミカタになってあげられるのは、君だけだ。 瑠璃葉のことをお願いしたい」
今日の僕は頭を下げてばかりだ。 瑠璃葉に自分の非を詫びるため。 千景に自分の無力を詫び、そして助けを乞うため。 頭を下げることは、呼吸をすることの次の次くらいに簡単で、とてつもなく無責任なことだと、僕ははっきりわかっていた。 しかし今の僕にできることはそれだけだった。
身体をくの字に折り曲げた状態でじっと待つが、千景はしばらく返事をしなかった。 やがて彼女は、やれやれという調子でふーっと長く息を吐き出し、「私に頭を下げられても仕方ないよ」と僕に顔を上げるように促した。
僕はゆっくりと顔を上げる。
視線の先にあった千景の表情は僕の予想と反してほとんど無表情だった。 しかしその翡翠色の瞳は薄闇の中でも爛々と、僕の心に風穴を開けるために光っていた。
「私は、『視界をクリアに』って、言ったんだよ」
彼女は、一語一語はっきり、平然と自分の言葉を繰り返した。
「自分はか弱い女の子を救うヒーローなんだ、なんていう、ヒーロー気取りを取り下げろって言ったんだよ」
彼女が口にした言葉の意味が、僕にはまったくわからなかった。
「ヒーロー気取り・・・? 僕が?」
自分はカッコいいヒーローなのだと、自分しか瑠璃葉を救えないと、僕はそんな風に慢心したことなんて一度もなかった。 だからこそ、こうして千景に瑠璃葉を助けてほしいと懇願しているのではないか。 第一、自分の正義すらまともに持っていない黛ましろという人間が、ヒーローを気取れずはずがない。 僕にとって、ヒーロー気取りは馬鹿らしいものというわけではなく、ただ自分の身の丈に遠く合わない憧れだった。 はっきりとそう自認していた。
「そう。 ヒーロー気取りだよ」
千景は、絶句する僕の思考をすっかり知っているかのように、僕の心に力強く言葉を突き刺す。 しかし、声音とは裏腹に、その目元には悲しげな色が滲んでいるような気がした。 それがまた僕を混乱させる。
「仮に」
感情と思考の整理がつかないまま、僕はぼそっと聞き返す。
「もし仮にヒーロー気取りだったとして、何が悪いの?」
気取っていたとしても、助けようとしないよりは余程ましではないか。
そんな僕の弱々しい言葉を聞いて、千景はいよいよその端整な顔を悲しみで溢れさせた。
「私たちの世界に、ヒーローなんていらないよ」
『ミカタ屋』を名乗る女は、髪が乱れるのもかまわずに首を激しく振り、この世界におけるヒーローの必要性を否定した。
「ヒーローじゃ瑠璃葉は救えない」
そう言って、歯を食いしばった彼女の頬を。
一筋の涙が滑らかに伝った。 その軌跡を、月明かりがそっと撫でた。
なんのために・・・?
僕は、呆然と思う。
何のために、彼女は涙しているのだろう。
僕の馬鹿さ加減に呆れて? ヒーローのいない世界を嘆いて?
違う。
彼女は、瑠璃葉のためだけに、泣いていた。 そして、僕に怒っていた。
「ましろ、あなたは勘違いをしてる。 瑠璃葉の一番の苦しみを、分かってない」
「・・・一番の、苦しみ?」
「そうだよ。 誰かにずっと無視され続けることよりも、誰かにずっと見られ続けることよりも、辛いことがある」
そんなこと、僕は考えもしなかった。 しかし、改めて考えてみたところで、答えは出なかった。 もしも、僕が自力でその答えを見つけることができるような人間だったなら。 瑠璃葉が、千景が、これほどまでに傷つくこともなかったのだろう。
千景は、涙の気配だけを残した瞳で僕を見つめ、僕に答えを突き付けた。
「ましろは、瑠璃葉の気持ちをちゃんと受け止めてあげたことがある?」
僕はまた、その言葉の意味が分からなかった。 僕と瑠璃葉とのこれまでの時間が、まさに千景の言う心のやり取りの上に成り立っていたと信じていたから。 だからこそ、千景とともに、瑠璃葉の価値観や悩みを理解し、一時は問題の解決まで至ることができたのではないのか。
しかし、続く彼女の言葉に気づかされる。 自分の盲目さに。 ヒーロー気取りという慢心に。
千景は、初めて言葉を躊躇う気配を見せたが、それをぐっとかなぐり捨てて言った。
「好きな人が自分の気持ちを全く見てくれないことの悲しさが、あなたは分かる?」
唐突な発言に、僕の身体と思考はぴたりと固まってしまった。
「好き・・・? 瑠璃葉が? 僕のことを?」
「そうだよ。 私には、分かりすぎるくらいだった。 たぶん、公太郎くんたちも気づいてる」
「・・・ありえないよ」
「なんでましろが瑠璃葉に見えると思う? 『個性』のトリガーである緊張を打ち消せるほどの感情が、なにか分かる?」
「・・・・・・」
「好きな人と話せるっていう、嬉しさだよ」
「・・・そんな、まさか」
まさか、僕のような人間を、好きになるような人がいるわけがない。 僕のような、なんの面白味もない中立人間を。 自分の身を守るためだけに、ひたすらに自分を殺して、言い訳を用意して生きているような、ちっぽけな男を。 好きになる人がいるわけがない。
・・・もし。 もし仮に、瑠璃葉が僕に好意を持ってくれているとしても、それは、僕が偶然彼女を「見つける」ことができたから生じた偽りものだ。 僕には、彼女の好意に応えることのできるだけの中味がなかった。 だから、結局、僕は分不相応なその好意を裏切ってしまった。
そんな僕を、瑠璃葉が好きであるはずがない。
「ばか!!!」
ぐいっと、千景が僕に顔を思いっきり近づけて怒鳴った。
「そうやって、人の気持ちを勝手に決めつけてるから、瑠璃葉の気持ちを受け止められないんだよ!」
「僕のことは、僕が一番分かってる!」
僕も、叫び返した。 心の底から湧き出る得体のしれない衝動に任せて声を荒げたのなんて本当に久しぶりで、語尾が上ずった。
「ばか!!!」
そんな僕に、千景はもう一度感情の塊をぶつけた。
「それはあなたがどこまでも中立だから? 笑わせないで!」
揺れる彼女の美しい瞳とチョーカーが、僕の弱音を打ち震わせた。 芯のないはずの僕の心の中心を、思いきり掴んで揺すった。
「本当に中立なら、『自分は人に好かれるような人間じゃない』っていうひとりよがりな評価を鵜呑みにするな! 人の好意を、素直に受け止めなよ!」
(・・・ああ)
それは、僕がこれまでの人生でかけられてきた言葉の中で、一番のド正論だった。
そうか。 僕の中立は、これほどまでに脆いものだったのか。
そうと認識した途端に、僕は千景の言っていた「ヒーロー気取り」という言葉の意味を理解する。
僕は、瑠璃葉のことを本当の意味で理解しようとしていなかったのだ。
僕は、心のどこかでヒーローになった気でいたのだ。
ヒーローとして、瑠璃葉を助ける者として、彼女の表面的な悩みを、心を見ていた。 僕は、彼女を『助ける対象』としてしか見ていなかったのだ。
僕の視界は、自分の知らない間にヒーロー気取りで曇っていた。
だから、周りの人間があっさりと気づくような、『糸居瑠璃葉』の気持ちを見落としてしまったんだ。
ヒーローでは瑠璃葉は救えない。 ヒーロー気取りの黛ましろでは、瑠璃葉を救えない。
そうだ。
漫画や小説の中に出てくるような強大な暴力に立ち向かうシチュエーションなんてありえない僕たちの世界に、ヒーローなんて大それた存在なんて必要ないんだ。
必要なのは、超人的肉体だとか、死をも恐れない覚悟とか、そんなんじゃなくて。
誰かに寄り添うことのできる、ちっぽけな勇気と優しさだけだったんだ。
きっと、それが『ミカタ屋』なんだ。
(・・・ああ)
僕は瑠璃葉になんと残酷なことをしていたのだろうと、改めて自分の愚かさに気づかされる。
『ましろさん、また今度もついてきてくれますか?』
『うん。 君が、君の個性と仲良くなれるまで』
文芸思想研究会の体験入部の日。 すべてが終わったあと、大学近くの公園で瑠璃葉と交わした言葉が脳裏に咲いた。
僕はあのとき、彼女が自分の「個性」を克服し、文芸思想研究会の素敵なメンバーたちと仲良くやっていく明るい未来を確信していた。 そして、そうなったときには自分の役目も終わり、瑠璃葉も僕なんかと一緒にいることはなくなるだろうと、そう思っていたのだ。
だけど、僕はあの時まさに、瑠璃葉の好意を真っ向から潰してしまっていたのだ。 いい人面をして。 自分が彼女の一番の理解者だと思い込んで。
「・・・僕は、とことん馬鹿だ」
足の力が抜け、僕は湿った土に膝をついた。 はっと、口から小さく失笑が漏れた。
「・・・一番大切なことを、なにもできてない」
右肩に手が触れる。 顔を上げると、ワンピースの裾が汚れるのも気にせずに、千景がしゃがんで僕の目をのぞき込んでいた。
今の彼女の相貌は、瑠璃葉のミカタであり、そして、僕のミカタでもあった。
「・・・ましろ。 大丈夫だよ。 今からでも間に合う」
彼女は僕の心身を覆う分厚い氷を解かすように、温かい言葉で僕を慰め、そして『ミカタ』としての選択肢を、押し付けるでもなく静かに提示した。
「ましろは、一番大切なことができる人だよ。 『私』がそう思ってるんだから。 ・・・瑠璃葉は今、私の家にいる。 どうするかは、ましろ次第」
千景のつぶらな瞳は、月光を受けて鏡のように光っていた。 そこに映る僕の顔はひどく歪んでいて、これから誰かのミカタをするなんてとてもじゃないけどできそうにない。
「僕は、一度失敗してるんだ。 また失敗するかもしれない」
バタフライエフェクト。
瑠璃葉は僕と出逢うという「もしも」によって不幸になってしまった。 もしも、瑠璃葉と最初に出逢ったのが公太郎だったら、みやびさんだったら、あるいは人の本心と向き合うことが少しでもできる人だったら。 彼女は不幸になんてならなかったかもしれない。
「僕は、また瑠璃葉を不幸にしてしまうかもしれない・・・」
僕の心を縛り付ける、最後の鎖。
それを。
「ほら。 また決めつけてる」
千景は優しく解した。
「瑠璃葉とあなたの出逢いが、不幸だなんて決まってないよ。 蝶は、羽ばたこうと思えば何度だって羽ばたけるんだ。 辿り着いた場所が不満なら、何度だって飛び立てばいいじゃん。 ましろの物語の結末を決めるのは、ましろなんだよ」
「僕が、決める・・・」
「そう」
僕は顔を伏せて、自分の心を確かめた。 僕の本心は、鼓動に合わせるように、小さな叫び声をあげている。
僕は、瑠璃葉のミカタをしたい。
僕が、瑠璃葉のミカタをしたい。
迷いも、後悔も、まだ胸にわだかまっていたけれど、ともしてもらった一筋の光は、弱々しく、だけれどはっきりと、僕の行くべき道を照らしてくれていた。
「・・・ありがとう、千景。 僕は行くよ」
僕は、立ち上がってそう言った。
「うん。 いってらっしゃい」
返事が返ってくるよりも早く、僕は彼女に背を向けて走り出していた。
万年文化系。 走るのはめっぽう苦手だ。 不格好なフォームで、出だし早々つまずきそうになる。 でも、これくらいが僕にはあってる。
一瞬、背後から強い風が吹いた気がした。 それに乗って、千景の声がそっと僕の背中を押した。
「大丈夫。 何色にも染まらない黛ましろは、誰の心にだって寄り添える」
走る。
漫画に出てくるヒーローのように速くはないけれど。
瑠璃葉のミカタとして。
等身大の僕は走る。




