1-16 悪意の不在、善意の空振り
僕がその『事件』に気づかされたのは、瑠璃葉と最後にあった日、つまり文芸思想研究会の体験入部が行われた日から5日後の水曜日だった。 実際にその『事件』の発端が生まれたのが体験入部から2日後の日曜日のことで、僕は週明け初めてと金会を訪れたときに、公太郎からそのことを知らされたのだった。
「ましろ、ちょっとそこ座って」
「うん?」
その5日間、僕は溜まっていた課題の処理に追われて、と金会の部室にも雑貨屋レトロニムにも行くことができずにいた。 それらの処理を終え、ようやく羽を伸ばせると思いながらと金会を訪れたところ、先に来ていたらしい公太郎が僕を見るなり挨拶も抜きに声をかけてきたのだ。 みやびさんは講義が5限まであるため、毎週この時間帯は不在だった。
(無駄話もなにもなくすぐ対局するのかな? 珍しいな)
そう思いながら長テーブルをはさんで彼と向かい合うように座った僕は、彼の顔を何気なく伺って息を呑んだ。 公太郎の目つきは、彼の感情を示すその髪色を見なくとも、僕ののんきな想像が違うと即座にわかるほどに険しかった。
彼を怒らせるようなことをした心当たりは僕にはなかった。 ただ、もしそういうことがあるとしたら。 それは一つしかないのではないか。
「糸居さんと連絡は取れてるか?」
やはりという気持ちと、なんでという気持ちとが濁流のように心に押し寄せ、僕を動揺させる。 彼が瑠璃葉のことを、いつも通り「幽霊ちゃん」と呼ばなかったことからも、彼の真剣さが伝わってきた。
「いや、この5日間はとってない」
そう答えると、公太郎は一言「そうか」と呟いて黙った。
(僕に怒ってるわけじゃないのか? いやいや、そんなことはどうでもいい。 瑠璃葉に何かあったのか?)
彼の態度に僕の焦燥は加速した。 実は僕も少しだけ瑠璃葉のことを心配していたのだ。 それまで毎日欠かさずに、それこそ日報のように僕に対してLINEを送ってきていた瑠璃葉から、5日間も連絡が来なかったのだから。
しかし、懸念を否定する可能性ならいくらでも、むしろ悪い予感を埋め尽くせるほどに転がっていた。 僕と同じように課題に追われているのかもしれない。 勇気を出して、一人で文芸思想研究会に顔を出してうまくやっているのかもしれない。 なんだかんだ千景と仲直りしたのかもしれない。
なにより、控えめに見ても「成功した」と言えるであろうあの日のサークル体験を思い起こせば、文芸思想研究会のメンバーと瑠璃葉との間になんらかの決定的な確執が起こることは考えられなかった。
ゆえに、僕は瑠璃葉の心配を頭の隅に置きながらもさして連絡をする必要性を感じずにいたのだ。
しかし、この間に、明確な悪意を持たずに、いたずらな連鎖な中で生み出された毒は、瑠璃葉の心を着々と蝕んでいたのだ。
「そうか。 お前は知りようがないんだな」
公太郎が重い口を開いた。
「これを見てみろ」
そういって彼は、ポケットから取り出したスマートフォンを軽く操作して、テーブルの上に僕に見やすいように置いた。 お世話になった記憶が新しい電子端末の画面に映っているのは、ツイッターの画面だった。 日常に起こった出来事やちょっとした愚痴を『つぶやく』ために利用されている、現代の若者にとってはLINEに次いで不可欠なコミュニケーションツールであるツイッターだが、特に面白味を感じなかった僕はアカウントを作るだけ作ってずっと放置したままになっている。 公太郎が「お前には知りようがない」と言ったのは、それが理由に違いない。
全く利用していないにしろ、以前から友人に『話題』だというツイートを見せられたりしていたために必然的に馴染み深くなってしまったツイッターの画面は、公太郎がスクリーンショットしたものらしい。 短い文章と、一つの画像が添付されている。
「これ・・・」
僕はその画像がなんなのかを理解し、そしてそこに書かれている文章を読んで絶句した。
とても簡単な文章なのに、内容を読み間違えたのではないかと3度読み返してみるが、書かれている文字が示す意味は変わらない。
その写真に写っていたのは、花柄のワンピースを着て、大ファンだという「さくらももこ」のエッセイを片手に少しだけぎこちない笑みを浮かべる少女、瑠璃葉の姿だった。 見覚えがある、どころの話ではない。 その写真は、文芸思想研究会の会長である萌葱さんに「サークルのホームページに載せているメンバー紹介に使いたい」と言われて僕が彼に送った瑠璃葉のとびきりの一枚だった。
もちろん、これが文芸思想研究会が所有するアカウントで、そのツイートが彼女の紹介をするためのものであったならなんの問題もない。 瑠璃葉は文芸思想研究会への入部意志を固めていたし、写真の掲載についても承諾していた。
だが、つぶやかれた文章を読むと、それが僕たちの意図からは全く違う用いられ方をしていることが分かる。
そこに書かれていたのは、とても簡潔で、茶目っ気さえ感じられるこんな文章だった。
『ウワサの幽霊の正体判明! めっちゃかわいいぞ~』
瑠璃葉。 そして「幽霊」。
僕が所属する将棋部、と金会は、瑠璃葉のことを親しみを込めて「幽霊ちゃん」と呼んでいたが、「幽霊」という呼称自体はもともと噂として大学内に広まっていた。 しかし、「幽霊」と瑠璃葉本人とを結びつけることができる人物はとても限られている。 と金会の僕を含めた3人と千景、そして文芸思想研究会の会員の一部といったところだろう。
それゆえに、僕の驚愕は大きかった。 この中には、一個人の「個性」という、現代においては最もセンシティブな個人情報に深く結びつくであろう情報をネットの空間に不用意に公開するような人間はいないと思えたからだ。
「それは、3日前にされたツイートだ」
公太郎は嫌悪感を滲ませながらスマホの画面を消し、乱暴に机の端に追いやった。
「このツイートが一部に広がっているのを俺が知ったのが今日の3限の時間帯だ。 そこから、検索をかけて元を探ってみた。 あくまで情報の質と量が馬鹿でかいうえに何重にもパクリが横行するネットの情報だから確証は持てないけど、萌葱さんとも話をしたうえで俺が現時点で考えている事の顛末はこうだ」
そう言って、公太郎は彼の考察を述べた。
それによると、事の発端は文芸思想研究会の2年生男子会員のツイートらしい。
『イマ、ちょっとうわさの女の子が入会してくれました!!! 嬉しいぃぃ(#^^#)』
瑠璃葉の入会を素直に喜ぶ何気ない一文。 この文面だけでは、「うわさ」が何なのか、その「女の子」が誰なのかは分からない。
しかし、このツイートを見た彼の友人(といっても長いこと会っていないような仲だという)が、その発言に興味を持ち、文芸思想研究会のホームページにアクセス。 新入りと思しき1年生の写真を見つけた。
不運だったのは、その友人というのが、瑠璃葉が僕と出逢う前に訪れていたサークルの会員であり、瑠璃葉の容姿をぼんやりと記憶していたことだった。
大きなヘッドフォン。 赤縁の眼鏡。 そして、勝負服である花柄のワンピース。
思わぬ形でサークル内でも話題になっていた「幽霊」の正体を突き止めた彼は、純粋な話の「ネタ」として、瑠璃葉のことをサークルの会員に話して回った。
そして最悪だったことは、瑠璃葉のことを聞かされた者の中に、ツイッターで友人やあるいは見知らぬ他人から注目を集めることに異様な執着を見せる、つまり自身の承認欲求と偽りのジャーナリズム精神をこじらせた厄介な人間がいたことだ。 彼にしてみれば、大学生活の中で起きうるあらゆることが自分の人気の種であり、紛れもない獲物だった。 構内に迷い込んだ子猫のことから試験内容の矛盾、教授の不祥事の気配まで。
そんな彼にとって、構内に現れ、一時的にせよ騒ぎを巻き起こした「透明になる新入生」、つまり幽霊ちゃんの正体は格好のネタだったのだ。
こうして、先ほど公太郎が見せたツイートがされるに至る。
「とりあえず、関連するツイートをした奴にコンタクトをとって今はツイートを消してもらったし、文芸思想研究会のホームページも一旦閉じてもらってるけど、少なくない数の人にツイートが広がってしまったと思う」
公太郎は、当事者である僕に連絡をすることも忘れるくらい必死に対応をしてくれたのだろう。 僕は掠れた声で彼に礼を言った。 しかし、依然として頭の中では様々な困惑が渦巻いていた。
困惑の要因は主に2つある。 1つ目は、事態が自分の手を離れ、あまりにも大きくなってしまっていたことに対して。 そして、2つ目は、事態が僕の想像していたよりも深刻に思えなかったことに対してだ。
確かに、自身が見知らぬ人々から勝手にネタにされるというのは不快なことだろう。 しかし、その原因も消えた今、事態が公太郎がこれほどまでに憂慮するほどに深刻だとは思えなかった。
「…もう一安心だ。 とか、そんなこと思っていられないからな」
僕の心中を見透かしたかのように、公太郎が低い声で言った。 個性ゆえに自分の心の中を隠せない彼は、他人の心を読むことにも長けていた。 まだ面と向かって話をしたことがない一人の女の子の心中を慮ることでさえ。
「ネタにされるって、どういうことか分かるか」
唐突な問いに、僕は少し考えてから歯切れ悪く答えた。 笑われること、罵られること、名誉を汚されること、あるいは、悲しまれることもまた。
「見られるって、ことだよ」
公太郎は答えを吐き捨てた。
「見られるっていうのはどういうことだ。 身体中、そして心の外殻を舐めまわされるってことだ。 防ぎようのない、無遠慮な『視線』によって」
その言葉に、僕は、固い棒で胸を強く圧されたかのように息苦しくなった。
「視線は暴力だ」
公太郎が言う。
「『視線恐怖症』っていう言葉がある。 他人から見られることに極度の恐怖を感じることだ。 この症状の人たちの多くは、『自分がとてもブサイクだから』とか、見られる理由を妄想して恐怖を感じるらしいけど、ただ『見られてる』っていうことそれ自体が怖いと感じる人もいると俺は思うんだ」
彼のこげ茶色の瞳の中に満ちるものが、いつものように純粋な他人のための怒りだけではないことに、僕は気づく。
……そうか。
幼いころから、感情によって変化する異質な髪をネタにされ、ありとあらゆる種類の視線にさらされてきた公太郎は、瑠璃葉が抱えているであろう苦痛をリアルに感じることができるのだろう。
「うっ……」
瑠璃葉に襲い掛かった視線の洪水を想像すると、それだけで身震いがした。
道を歩いていて、知り合い以外の人間からは全く気に留められない普通の大学生。 というよりむしろ、それ以上に「見られない」存在であった瑠璃葉は、瞬く間に「見られる」存在になってしまった。
身体が消える個性を持つ少女とはどんなやつなのだろうか、実際にその現象を目の当たりにしたい。 そんな思念を一心に浴びせられる。 自分の服装や容姿、一挙手一投足を、常に誰かに監視されているような感覚。 『視線』というものは目に見えないから、その感覚のループから抜け出すことも難しい。
瑠璃葉は、実在する視線と、それによって作り出された空想の視線の檻に囚われてしまったのだ。 どれだけ怖いことだろう。 どれだけつらいことだろう。
「僕のせいだ」
噛みしめた歯の隙間から声が漏れた。
「僕の配慮が足りなかったばっかりに」
「いや。 お前のせいじゃない。 人のプライバシーを、コンビニでジュースを買うみたいに気軽に踏みにじることのできるやつなんて、この世にはいくらだっている。 運悪くそいつに捕まっちまっただけだ」
「でも、しっかり対策をしていればこんなことにはならなかった」
「ああそうだろうな。 だからどうした。 今は後悔しているときじゃないだろ」
彼の言葉は、紛れもなく正しかった。 こういうときだって、いや、こんなときだからこそ、彼は漫画のヒーローそのものだった。
だけど。 だからこそ。
僕は後悔の泥沼から抜け出せなくなってしまう。
『公太郎だったら』
そんな風に考えてしまうから。
「糸居さんを本当の意味で助けられるのはお前だ。 俺じゃない。 情報の流れは俺と萌葱さんでなんとかする。 お前はお前にしかできないことを、やらなきゃいけないことをやるんだ」
彼はそう言いながら僕の肩を力強く叩き、素早く身支度を終えると、部室の外の透明な日差しの中へ駆け出して行った。
僕は、誰もいなくなった部室で一人、身体を丸めて静かに格闘する。 自分の中の後悔と。
そして、闘うことへの恐怖と。




