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ミカタ屋  作者: 九日 一
Case 01 真昼の幽霊ちゃん *Daytime Phantom*
17/24

1-14 心の温度



「準備はいい?」


「・・・はい」


僕の問いに対する小さな返事が聞こえた方に目を向けると、そこには大きなヘッドフォンと赤いフレームの眼鏡、その奥のアーモンド型の瞳が特徴的な女性がいる。 


幽霊ちゃんこと、糸居瑠璃葉。 


しかし、それら彼女のチャームポイントは今や役目をはたしていなかった。 


彼女の身体は今、その『過当情報オーバーセンス』という個性ゆえにほとんど消えかかっていた。 蜃気楼のように輪郭のあやふやになった彼女の身体を透かして、その背後の廊下の風景がはっきりと見ることができる。 これから大一番を迎えるために、緊張感が加速度的に高まってきているのだろう。 この2週間で、この状態になった瑠璃葉を幾度か見てきたが、やはりどれだけ目を凝らそうともどれだけ耳を澄まそうともすぐ目の前にいる人の存在がはっきりしないという不思議な現象には慣れない。 


「・・・ましろさん」


囁いているわけでもないのに最早ほとんど聞き取ることのできない声で瑠璃葉が僕に呼びかける。


「・・・あたしが頑張ったら、今度の休みに午後の紅茶おごってください」


「もちろん、そのくらいなら」


「・・・じゃあ、あたしがずっと食べてみたかったパンケーキも追加で」


「うん、まあいいよ」


「・・・じゃあ、そのお店がある京都まで一緒に行ってくれますね」


「それは、応相談」


僕が頭の中の財布を開きながら渋い声を出すと、瑠璃葉は無音でふふふと笑って「冗談です」と本当かどうかわからない調子で自分の言葉を否定する。  


それから、少し間が空いた。 


いよいよ行こうかと僕が声をかける寸前、彼女はもう一度、さらに控えめな声で僕の名前を呼ぶ。


「ま、ましろさん」


普段は自分の思っていることをはっきり口にする彼女にしては珍しく、口の中で言葉を持て余す素振りを見せる。 


「うん。 なに?」


できる限り彼女の緊張をほぐしてあげられるように、僕は優しい声を心がける。 瑠璃葉はそれでもしばらく顔を俯かせて逡巡していたが、やがておずおずと小さな右手を、もう指から先が消えてしまった右手を差し出した。


「て・・・手を・・・握ってください」


実は、『そういう』手筈になってはいた。 僕も、そして瑠璃葉も、最初のうちは渋っていたのだが。 千景の、ちゃんとした意味のある提案だった。 


女の子の手を握るなんて小学生の頃のお遊戯以来じゃないか、なんて考えと恥ずかしさが込みあがってくる前に、僕は彼女の手のひらにそっと左手を添えた。 少し体温が高めの右手が、恐々と僕の手を包む。 


「・・・よし」


僕は、遅れてやってきた恥ずかしさを隠すために一度宙を仰いだ。 彼女ほどではないにせよ感じている緊張とともに深呼吸で吐き出してからもう一度隣を見ると、瑠璃葉の姿はもう完全に見えなくなっていた。 僕の視線の先には、4限の講義が終わり、中途半端に時間が経っているために人の気配がない廊下の風景がただ広がっている。 


でも、僕の左手には、彼女の柔らかい掌の感触がしっかりあった。


「じゃあ、頑張ろう」


返事はない。


ただ、隣の空白に確かに存在する幽霊ちゃんが、僕の左手をぎゅっと強く握り返した。




「やあ、いらっしゃい」


ドアを押し開けると、ひょろりとした長身でフレームレスの眼鏡をかけたいかにも知的な印象の男性が僕と瑠璃葉を迎えた。 


「こんにちは。 会長の萌葱もえぎです」


その物腰は、すでに大手企業でバリバリの営業マンをしていますと言われても疑わないほどの知性を感じさせるが、柔らかい声音や犬を思わせる少し垂れ下がった目元にはあくまで冷たい感じはなく、僕は心中でほっとため息を漏らす。 今日のためにLINEで何度もやり取りをしたが、実際に顔を合わせるのは初めてだった。 


「こんにちは。 僕は黛ましろです。 で、ここにいるのが瑠璃葉です」


軽く自己紹介をしてから、左隣にいる、僕には見えない瑠璃葉を指しながら言う。 すると、萌葱さんは何もないように見えるはずの空間を優し気に見つめて、こくりと頷いた。 


「うん。 ぼんやりとだけど見えてるよ」


その言葉に、僕の左手の中にある瑠璃葉の小さな手が、きゅっとほんの少しだけ握る強さを強めた。 素直な驚きか、喜びか、あるいはちょっとした畏れか。


実は、文芸思想研究会を瑠璃葉の大学デビューの場所として選んだのには、その雰囲気や活動への真摯さのほかに大きな理由あった。 それが眼前の人物、萌葱慎一の存在である。 


彼は『温度感応サーマルセンス』という個性をもっていた。 これは、『視界にあるものの温度が色の濃淡によって知覚できる』というものらしい。 つまり今現在彼の視界には瑠璃葉の姿そのものは見えていなくとも、周囲の物体との温度差によって彼女の輪郭がぼんやりと見えているということだ。 


たとえ表情やその言葉が届かなかったとしても、その存在をしっかりととらえてあげることのできる人がいることは瑠璃葉にとって心強いことだろう。 そう僕たちは考えたわけだ。 


実は萌葱さんは、公太郎が瑠璃葉に合うサークルを探して色々なサークルを回っている際に、「自分の個性を活かすことができないか」と公太郎に自ら提案してきてくれたらしい。 この話を聞いたとき僕は、瑠璃葉の『過当情報オーバーセンス』という個性がある種の「情報」でもある「体温」までも消さなかったことに心底安堵した。 


一人の人間としっかり向き合ってくれるトップがいるということも、このサークルを選んだ理由のひとつになっていたりする。 


「そんなにかたくならないで。 二人とも、格別赤いよ。 せっかく綺麗な色の名前をもってるんだからさ」


あまり話すことが上手いわけではないのだろう。 つっかえつっかえ、少し恥ずかしそうに彼が紡ぐ言葉は、それでもその分だけ心がこもっているように感じられた。


そうか。 僕、黛ましろと瑠璃葉には色々な共通点があるけれど、よくよく考えてみると僕たちは同じく名前に色を持っていたのか。 そして、黛は黒に程近い青で、瑠璃は紫を帯びた青。 そこもまた共通している。


ふと、僕は気づいて言った。


「『萌葱』も色の名前でありますよね。 春に萌え出る若草の色」


「そう! よく知ってるね。 ちなみにだけど、日本では昔、色は黒・白・赤・青っていう区別しかなかったらしくてさ、昔の人にとっては『緑』は『青』だったらしいよ。 一説によると、緑色の信号を『青』って言うのもその名残だとか。 まあそれは眉唾ものだけど」


萌葱さんは、青空に映えそうな若草色の髪を揺らしてはにかんだ。 


なるほど。 そう考えると、僕たちは名前に同じく『青』をもつ者になるというわけか。 なんだろう。 この、見知らぬ土地で故郷が同じ人と出逢ったときのような妙な感慨は。 同じ数字を名前に持っていたり、同じ趣味を持っている人同士の出逢いではなかなか現れない共鳴感がある。 古来から『色』というものに意味を見いだしたがり、世界でも有数の多さの色名を生み出してきた日本人の気質なのかもしれない。 


そして、初対面の相手との共通点を意図も簡単に見つけ出し、緊張をほぐしてみせる萌葱さんは実はこうみえてとてもイケてる男なのかもしれない、と僕は心中で一人頷くのだった。


さて、僕たちは今、大学の正面入り口からはちょうど反対側に位置する部室棟2階の文芸思想研究会の部室にいた。 僕が所属する窓際部活「と金会」の部室はまともに将棋を指そうとすると縦に机を並べて4組指せるか否かという狭さだが、ここであればその倍は望めるだろう。 部屋の内部は、棚にきちんと並べられた会誌らしきもの以外は棚や机、小型冷蔵庫の上など、あちらこちらに大小様々な書籍が散乱しており。 なんというか、良くも悪くも僕のイメージ通りの文学部の部室、という風情だった。 

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「ごめんね、結構散らばってて。 あんまり来客ないものだし、ありのままを見てもらった方がいいと思ってさ」


僕の視線の意味を悟ったのか、萌葱さんはかりかりと後頭部をかきながらバツの悪そうな顔をした。 すると、


「ただ、モノグサが多いだけでしょ。 なにかっこつけてるの、モエ」


横からぬっと姿を現した一人の女性がそんなことを言って萌葱さんの頭をばしんとはたいた。 ふっくらとした掌は彼女の思惑以上の威力を発揮したようで、萌葱さんが身体をふらつかせる。 


卵のようにつるつるもっちりしていそうな肌をしたその女性は副会長の仁多さん。 サークル唯一のしっかり者として信頼されている彼女は下の名前が真子というそうで、「にた まこ」という読みをつなげてサークル員からは「たまこ」と呼ばれているという。 「にたまご」と呼ばれていないだけ幸いと思うべきなのだろうか。 萌葱さんは同輩からはよく「モエミー」と呼ばれているらしい。 もしかするとこのサークルにはメンバーにあだ名をつけるのが通例なのかもしれないな。 モエミーの由来と、そして瑠璃葉のあだ名への許容度が気になるところだ。 


僕がそんなことを考えていると、しっかり者だけに仕切りたがり屋なのだろうたまこさんが、僕とその隣の見えない瑠璃葉を順番に指差した。 


「実はね、二人のあだ名を考えてきたの。 『ミチル』と『リルリル』っていうのはどう?」


「はあ・・・」


なるほど。 この人があだ名生成マシーンなのか。 さて、僕の名前はどこにあるのだろう。 きっと、『ミチル』の方なんだろうな。 流れ的に。 


たまこさんは命名の理由を、瑠璃葉の紺色の瞳がかの有名な童話『青い鳥』に出てくるチルチルにとてもよく似ているからと言った(事前に瑠璃葉の顔写真は送ってある)。 でも、そもそも僕は名前にかすってもいなし、もし二人が兄妹のようだと言いたいのだとしても確かチルチルが兄でミチルが妹だったし、リルリルって恐ろしく言いにくそうだし。 


黛ましろが『ミチル』を受け入れかねていると、僕の左手が二度、ぎゅっと握られた。 


お、これは『合図』だ。 1回強く握ったら「オーケー」、2回なら「ノー」。 リルリルこと瑠璃葉の意思を汲み取るために用意していた簡潔な意思伝達の手段だった。 


「瑠璃葉はちょっと嫌みたいです」


僕は彼女の意見を伝え、ちなみに僕も、と小声で付け加える。 たまこさんは残念そうな声を出すが、その顔は上手にできた半熟卵みたいに、あくまでふんわりほっこりだった。 後輩がかわいくて仕方ないタイプの人なんだろう。 


「そういう超直感的な命名、いい加減やめなよ」


萌葱さんが呆れて言うと、たまこさんは板についた女房役で応じる。


「突拍子のなさこそ、物語の導入に必要なものだよ。 えっ、て思われるくらいが丁度いいの。 何事も」


その言葉に反応するように、僕の左手が一度、ぎゅっと握られた。 どうやら瑠璃葉は、たまこさんのその言葉には同感だったらしい。 しかし、「じゃあ、ルリーとサファイアは」というたまこさんの懲りない二投目には、即座に拒否反応が返ってきたのだった。 


結局、たまこさんは二人の命名式を先送りにしてくれた。


「大体の活動内容は聞いてると思うから、普段どんな風に活動してるか簡単に説明するね。 ここの部室は基本平日の4限後は毎日空いてるけど、ウチは基本的には活動強制なし。 好きなときに来て好きなことをやってる人ばっかりかな。 でも、やるときはしっかりやるし、サークル以外に友だちの少ない寂しいヤツらが多くって部室は連日大盛況」


それを聞くや否や、後ろで何やら雑談や作業をしていたのであろう「寂しいヤツら」がたまこさんに文句を言いながら次々と群がってきた。 人数は会長を含めて8人。 どうやら、瑠璃葉の緊張を和らげるためにあまり沢山の人を呼ばないでほしいという僕の要望をしっかりと聞き届けてくれたようだ。 


彼らは、僕が何もないように見える空間と手をつないでいる様子に一瞬戸惑いの表情を見せたが、事前に瑠璃葉の個性についてある程度話をしていたこともあり、すぐに明るい調子を取り戻して(中には僕と瑠璃葉の関係性が気になって仕方のない者もいるようだが)それぞれ自己紹介を始めた。 


名前と出身地、所属学部、そして好きな小説や映画、漫画のこと。 やはり熱心に創作活動に励んでいるだけあって彼らの「好きな作品語り」はとどまることを知らず、一人一人が萌葱さんにストップをかけられながら自己紹介をしていき、結局最後に萌葱さんが話し終えるまで(彼もまたたまこさんにストップをかけられたわけだが)15分程度がかかった。


その様子を見て、僕は「いいな」とこのサークルに純粋な好感をもった。 各々がしっかりと「好きなもの」をもっていて、それが彼らの一部となっていることがはっきり伝わってくる。


現代の若者の多くは(と語れるほど僕は立派ではないのだけれど)、「友だち」と仲良くやっていくための、上辺だけの「好きなもの」で身を固めてしまっているような気がする。 友人と行くカラオケでは好きでもないのに誰もが知っているような昔のヒットソングばかりを歌い、くだらないと自覚しながらもツイッターから離れられない。 人とつながるためだけに、「好きなもの」を取り繕って、偽りながら生きていく。 


僕にとっては、中学生の頃から続けている将棋がその「好きなもの」に当てはまるのかもしれないが、ただほかの人より少しだけ強くて、今の公太郎やみやびさんとのつながりを保っていられるというのが続ける理由の大半になってしまっている気がする。 これといった情熱を持たない僕の人生選択には、積極的理由はほとんどなく、消極的理由が山積していた。 僕の中にはそれでいいという自分と、それじゃいけないという自分が両方いるのだった。 きっと、本当に好きなものを守ることで得るものがある一方で、失うものも確実にあるのだから。 あくまで価値観の問題だ。 


一方で文芸思想研究会の面々は、自分の好きなものを大切にし、着飾らないことを実行しているようだった。 僕にはそんな彼らが、彼らの繋がりが少しだけ羨ましかった。 同時に僕は、きっと瑠璃葉も彼らと仲良くやっていけるだろうと確信した。 それが調和に満ちた微笑ましい仲の良さか摩擦で発火しそうな仲の良さかはさておき。


「じゃあ、次は瑠璃葉ですね」


そしていよいよ、僕はタイミングを見計らって、肩にかけていたメッセンジャーバッグからあるものを取り出した。 


秘密兵器の登場だ。 文明の利器、ipadである。 なお、これは我らがと金会の部長みやびさんの父親のものを拝借したものなので、僕の手のひらを別種の緊張が走る。 


僕は左手で瑠璃葉の手を握ったままipadを部室の中央に置いてある机にそっと立てかけた。そして画面にパスワードを打ち込み、待機状態にしてあった動画を再生した。 


画面に映し出されたのは、レトロニムの雑貨の山を背景にした瑠璃葉の姿。 顔をすっぽり覆ってしまいそうなほど大きいヘッドフォンと細い赤縁フレームの眼鏡、そして勝負服なのであろう花柄のワンピースという格好は、今は姿の見えない本日の彼女とまったく同じだ。 隠しきれない緊張に反比例するように、その髪の毛や指の先は少し消えかかっている。 


『こ、こんにちは。 あたし、糸居瑠璃葉といいます』


画面の中に映るもう一人の瑠璃葉が、へそのあたりで両手を組み、たどたどしく言葉を紡ぎ始める。 顔を寄せ合うようにしてipadを取り囲んだ会員たちが控えめに黄色い声を上げた。


『茨城県出身で、所属は社会学部です。 好きな食べ物はチーズケーキ。 動物はハムスターが好きで、実家では3匹飼ってます。 名前はモッチとフグとウニマルです。 好きな小説家は・・・』


この動画は数日前にレトロニムで撮影したものだった。 


そう。 『幽霊ちゃんを誰にでも見ることができるようにする』ための方法は、意外とすぐ近くに、というより僕たちのポケットの中に入っていたのだ。 まさに灯台下暗し。 


つまり、現代の日本人にとって欠かすことのできない「デジタル」の力を借りて、消えていない状態の瑠璃葉を記録してしまえばいいだけのことだったのだ。 千景の言う通り、幽霊のような掴みどころのない「情報」を記録するのも、ネットワークに乗せて拡散するのも、あるいはそれ自体を創り出すのも、すべて「デジタル」という力の得意分野であった。 


実はもう一つ秘策は用意してあるが、これらはあくまできっかけにすぎない。 瑠璃葉が彼らとしっかり友だちになることができたと実感することができ、今のような緊張感を抱かずになるように済むまでのきっかけ。 補助輪であって、自転車そのものではない。 


人と話すことが大好きな彼女には、自由に、颯爽と、大学の十人十色の人間関係を謳歌してほしい。 僕はそう思っていた。


『さくらももこさんのエッセイは宝物です。 あたしに文章を読むことの気軽さと、書く楽しさを教えてくれました。 少女漫画はあんまり好きじゃありません。 美化され過ぎた男の子を見ると気持ち悪くなっちゃいます。 少年漫画の雑誌だとサンデーが好きです。 タッチのあだち充譲りのちょっとしたコメディシーンがとっても痛快だからです。 昔の作品はあまり読みません。 温故知新するのは、温故がちょっと面倒くさいと思っちゃうからです』


僕とは正反対で自分の軸がはっきりしている彼女は、嫌いなことも多いけれどその分だけ好きなことも多い。 そんな彼女の自己紹介はもちろん文芸思想研究会の面々と同じく大幅に許容時間をオーバーしていたのだった。 


しかし、その場にいる誰もが端末から流れる音声に真剣に耳を傾けていた。 まるで出来のいい一つの文学作品の朗読を聞いているかのように。 彼女の紡ぐ言葉には、聞く者を惹きつける力が間違いなく潜んでいた。


『・・・あたしの話は以上です。 ふつつつつか者ですが、よろしくお願いします』


画面の中でぴょこんと頭を下げた瑠璃葉が、思いきりよくシメの部分を噛んだにも関わらず満足げな顔をあげたところで動画が終わる。 


わっと、会員たちが歓声を上げた。 


その様子に手応えを感じてか、あるいは気恥ずかしさを感じてか、僕の手を少し体温の上がった右手がきゅっと握った。 


ウケは上々。 千景考案の作戦その1は無事成功したといっていいだろう。 


そして、僕はほっと息をつく間ももどかしく、秘密兵器その2を打ち出す。 将棋にせよ人間関係にせよ、好手のあとの気の緩みは命取りだ。 


僕は見えない瑠璃葉に、「次、行っていい?」と小声で話しかけた。 すぐに「OK」の返事が握った手を通じて伝わってくる。 それを確認すると僕は思い切って、かれこれ20分近く握っていた手を離した。 


空いた両手でipadを素早く操作し、チャットアプリを開いた。 左上に瑠璃葉の顔写真が表示されているだけのシンプルな画面に、すぐさま「こんにちは」という大きな文字が現れる。 続いて、今度はしばらく間が空き、長文が表示される。 


『今はこんな形でしか話せなくてごめんなさい。 でも、皆さんに聞きたいことがたくさんあります。 聞いてほしいことがたくさんあります。 お話しましょう』 



秘密兵器その2は至ってシンプルだった。 瑠璃葉が自分のスマホを使ってこのipadにメッセージを送る。 それだけだ。 文字を打つ分のタイムラグがあることと、瑠璃葉の表情を見ることができないのが欠点ではあるが、問題は大幅に改善される。 この案を聞いた瑠璃葉は「『あの花』作戦、ですね」と、僕が中学生の頃に流行したアニメのタイトルを口にして他人事のように目を輝かせたものだ。 


さて、『あの花』に出てくる幽霊の女の子になり切った訳ではないだろうが、瑠璃葉のおしゃべりアクセルは全開になった。 まず彼女は、サークルの会誌を読んで特に気に入ったという小説の著者が誰かを問いかけ(会誌にはペンネームしか載っていなかった)、たまこさんが恥ずかしそうに名乗り出た。 


瑠璃葉にあの実直さを以て褒められたのだろう、たまこさんがふっくらほっぺを朱色に染めながら言葉を返す。 その様子を見守りながら僕は静かに後退し、部室の壁に寄りかかった。 


うん。 これで僕の役目は大体終わりだな。 千景にもいい報告ができそうだ。 


彼女がミカタ屋の名誉挽回とばかりに誇らしげに瑠璃葉に言い寄り、瑠璃葉がそれを無下にするまでのシーンが頭の中に思い浮かび、僕は一人苦笑する。 


それから、瑠璃葉は律儀にもその場にいたサークルメンバー全員分の作品についての感想を臆面なく語り、後ろで見守る僕を存分に感嘆させたり、ひやひやさせたりしたが、総合的には彼らとの交流を十二分に深めることに成功したようだった。 


自分や他人の作品や価値観について忌憚ない意見を交わし合う、彼らにとって最も心地よいのであろう時間は日暮れと共に終わり、僕の左手に、不可視の柔らかい手が飛びついてきた。 その様子を、もうすっかり瑠璃葉と馴染んだ文芸思想研究会の面々ににやけ顔で見られた僕は、照れ隠しに瑠璃葉に声をかける。 


「お疲れさま」


こういうときに、気の利いたことの一つでもできればいいのだが、残念ながら僕にはそのような才能は皆無なのである。 せめてもと左手を軽く握ることで労いの意を伝えると、瑠璃葉がぎゅっと手を強く握って返事をした。 


あわよくばこの時間のうちに瑠璃葉の緊張が弱まり、彼女の姿が見えるようになればと期待していたが、残念ながらそこまではいかなかったようだ。 ただ、足がかりは十分につかめたのではないだろうか。 




「今日はありがとう。 黛くん」


萌葱さんが最初と変わらない優しい声音で声をかけてくる。


「次からは糸居さんとLINEで直接やり取りすることにするよ。 あと、彼女の写真を後ほどサークルのホームページにアップしてもいいか聞いてもらえるかな」


僕は隣の瑠璃葉の反応を伺い、心地のよい達成感に流されて少しだけいたずら心を込めて返事をする。 


「分かりました。 写真については、とびきり良く映ってるものを送ります」


「ふふ、そうしてくれるとこっちも嬉しいよ。 黛くんも、ぜひ暇なとき遊びに来てくれていいからね」


そうして、僕たちは「また」の約束を固くして部室を後にする。 


「じゃあね、リルリル、ミチル!」


ほんとうに幸せの鳥を呼んでしまいそうだな、と思えるたまこさんの明るい声が、僕たちの背中を叩いた。



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