1-10 how should we save ?
4限の講義終わり、と金会の部室にやってくるなりテーブルにどっと突っ伏してしまった僕に向かって、上から声が降ってきた。
「お疲れさまー」
「お疲れ」
公太郎とみやびさんの、見事にハモった労いの声だった。 それと一緒に、みやびさんが僕の前に淹れたてのコーヒーが入ったカップを置いてくれた。
ありがとうございます、と羽虫の羽音のような声でお礼を言ってから、ちょっと酸味の強い黒色の液体を口に流し込む。 くあっと、口を大きく開けて温まった息を吐き出すと、ずんと重たい疲労感がいくらか緩和された。
「どんなに疲れてても人前じゃため息を吐かないところがお前のいいところだよな」
俺の横に座って頬杖をついた公太郎が、そんな喜んでいいかよく分からないお言葉をくれた。
「疲れてるときは将棋が一番。 打とう」
みやびさんはというと、将棋セットを僕の前に揃えて向かいに腰かけた。 二人ともどうやら二人なりに僕を労おうとしてくれているようだ。
将棋なんかで頭を酷使してリラックスなんかできるのかと思う人もいるだろうが、将棋を好きでやっている人間にとっては十分に効果的だ。 運動音痴の人にとってテニスをプレイすることは苦役でしかないだろうが、テニスが好きな人にとってはたとえへとへとになったとしても立派なストレス発散の手段になることと同じだ。
僕は、駒箱から吐き出され、盤上で無秩序な山を築いている駒の中から「玉将」の駒を探し当て、将棋盤の自陣手前中央に置く。 ぱちり、という形容しがたい澄んだ音色がと金会の部室に反響する。 ただ木を打ち合わせた音より高尚で、焚火がはぜる音より力強い。 僕は本榧という木材でできた物体同士がぶつかりあって出すこの謙虚な音が大好きだった。
この世に存在するあらゆる競技や文化には、それぞれ唯一無二の「音」がある。 それを嗜む者であったら、その音を聞くだけで心が奮い立つような音が。
卓球であれば、プラスチックのボールが弾かれて鳴る爆竹が爆ぜるような清々しい打球音。 陸上のスプリントであれば、合成ゴムのトラックに正確に刻まれる大地の鼓動のような足音。 絵画であれば、鉛筆が白い紙の上を滑りながらその痕跡を残していく、森の囁きのような筆記音。
それぞれが、それぞれの組み合わせでないとありえない唯一無二の『音』だ。
僕にとって、と金会の、コーヒーの湯気が立ち上る音さえ聞こえてきそうな静寂の中で鳴り響く木の声は、僕の心を何よりも落ち着かせてくれるものだった。
玉将に続いて、金将、銀将、桂馬と並べ、次は一段飛ばして三段目に歩兵を並べていく。 そして最後に、香車、飛車、角行と並べて陣形は完成する。
実はこの並べ方というものには決まりがある。 香車と飛車と角行という3種類4枚の駒を最後に並べるのは、制約なく敵陣まで突き進んでいくことのできるこれらの駒を先に並べてしまうと相手に直接矛を向ける形になり失礼になるという考えからだ。 ゆえに、「歩兵」という1マスずつしか進めない兵で蓋をしてからその後ろに彼らを配置していく。
なぜ存在するか分からない決まりの裏側にはこのような背景が隠れていたりするもので、それは多くの場合面倒くさいものだけれど往々にして奥深いものなのだと、僕は中学生の頃に将棋を通して知ったのだった。 プロ棋士の間では「大橋流」という、下の段から順に駒を並べる形が一般的らしいが、僕は「伊藤流」と呼ばれるこの並べ方が好きだった。
僕とみやびさんが互いに駒を並び終え、上位者であるみやびさんが先手を決める「振り駒」を行う。 彼女のしなやかな右手から放られた5枚の歩兵は、4枚が表を向いた。 みやびさんの先手だ。 と金会での対局は、たとえ練習であったとしてもこれらの手順を本来の試合と同じように丁寧に行っている。
「お願いします」と互いに挨拶をし、みやびさんが最初の一手を指した。 角行の右上の歩を前に進める最もベーシックな手だ。
この「戦法」にはそれぞれ指し手の性格が現れるから面白い。
例えば公太郎は「居飛車穴熊」という戦法が大好きで、対局中は意地でもその形に駒を組もうとする。 飛車を初期位置のまま攻撃に用い、玉を自陣の最奥で全兵力総出で守るという、言ってみればとても欲張りな戦法だ。 指し方も常にアグレッシブで、スポーツで培った野生の勘が活きているのか(?)ここぞという場面に強い。 みやびさんは彼のことを「一点集中型の猛獣」と評している。
さて、次は僕だが、残念ながら僕と将棋を指したことのある人間に「黛ましろ」という人間の印象を聞いてもぼんやりとした回答しか返ってこないだろう。 みやびさん曰く「無感情なドM」。 ひたすらに相手の戦法に応じた「受け」を貫き、自分から仕掛けるということを一切しない。 強いて言うなら「受けのスペシャリスト」というところだろう。 変な意味では決してなく。
最後にみやびさんだが、彼女はかなり特殊だ。 命名するならば「マイナージャンキー」。普通の人が対局本番では指したがらないようなマイナーな戦法をただひたすらに好んで使う。 小学生の頃から将棋を指し続け、現在でも勉強を怠らない彼女の棋力は僕では到底図れないほどに高い。 おそらく彼女がメジャーな戦法を使えばほとんどの大学生選手を置き去りにできるだろうけれど、なぜか彼女はマイナー戦法に固執するのだった。 とてももったいないけれど、将棋に関しては意外と公太郎並みに頑固なみやびさんである。
そのみやびさんが「桂馬」を跳ねる。 うわっ。 今日は「鬼殺し」か。 顔と性格に似合わず本当に可憐さの欠片もない戦い方をしなさる。
僕は疲れで固まっていたはずの背筋を自然と伸ばし、僕の一番大好きな駒である歩兵を持ちあげた。
「今日物陰からちらっと見たけど、けっこう可愛らしい女の子じゃん。 なんていうの、妹系? 俺、ましろの話聞いてて、てっきりサイコな感じの子を想像してた」
対局が例のごとく僕の負けで終了し、僕が例のごとくみやびさんの手厳しい指導を受け終わったところで、机の端で講義の参考書を読んでいた公太郎がにやにやしながら話しかけてきた。 僕の向かいでやっと戦闘モードを解いたみやびさんが、公太郎の「可愛らしい」という部分にうなずき、「サイコな感じ」という部分に「彩湖…?」と首を傾げる。
あんたら見てたのか。 やだな、なんか恥ずかしい。
二人が言っているのは、幽霊ちゃんこと糸居瑠璃葉のことである。
僕が瑠璃葉と出逢い、彼女の東京での友だち第一号になったあの日以来、僕は平日大学にいる間のほとんどの時間を彼女と過ごすようになっていた。 いや、彼女への配慮を取っ払って言うならば、僕は彼女に付き纏われていた。
『ましろさん、今日は後ろから3列目に席を取ってあります。 一緒に講義受けましょう』
『ましろさん、明日のランチここにしましょう』
『ましろさん、今日の帰りはどこに集合しますか?』
僕のLINEの通知がこれほど鳴りやまなかったことは、不肖、黛ましろ20年の人生史上初めてである。
必然的に、先週はと金会の面々と昼ご飯を食べる機会もなかったし、講義終わりに部室を訪れることも中々できなかった。 一人暮らしなうえに大学での講義もずっと一人で受けてきており、ぼっちライフに絶賛順応中だった僕にとって、こうして一日中誰かと顔を合わせている状況というのは予想以上に体力を削られる。 今日僕は4日ぶりに心身を落ち着けようと、我が心の避暑地、と金会の部室を訪れたのだった。
「人助けってのは疲れるだろ。 まあ、疲れるからこそ人がやりたがらないってのはあるけどな」
公太郎が上から僕の肩を軽く揉みつつ言う。 僕はその言葉に首を捻った。
「『人助け』なのかな。 ただ友だちとして付き合ってるだけだと思うけど」
そしてたぶん、この「疲れ」は友人関係というものからくるもので、実は当たり前のものなのではないだろうかと思う。 僕が大学で深い交友を持っている眼前の二人は、言ってみれば僕には付き合っていて心地よさしかない「友だち」だ。 僕が寂しい時には近寄ってきてくれるし、僕が一人でいたい時にはしっかり距離を置いてくれる。 たぶん、自分と中々リズムを合わせてくれない瑠璃葉という新しい「友だち」に、僕が慣れていないだけなのだろう。
だから僕は、常に背後霊のように彼女がいる日常に慣れようと努力している。 彼女が現状、僕とリズムを合わせるだけの余裕がないことを分かっているから。 それに、なんというか彼女は個性抜きでも放っておけないところがある。 確かに、公太郎の言う通り妹っぽいかも。
僕が公太郎の印象に賛意を示すと、みやびさんが異様に目を光らせて、珍しく強い口調で言った。
「ましろ、彼女に対して、絶対に妹っぽいって言っちゃだめだから」
例のごとく公太郎も彼女に同意してうなずく。
いや、さすがに僕も、出会ったばかりの女の子に対して「君は妹みたいだね」なんて言いやしないよ。
瑠璃葉と僕はまだそんな冗談が通じるような間柄ではないし、僕は女性に対してその人を評する言葉をかけるのが絶望的に苦手だし。
僕は未だ、瑠璃葉からの好意の受け取り方をどうすればいいか決めあぐねていた。 中立人間でなんの面白味のない僕に彼女がここまで好意を寄せてくれているのには、おそらくちょっとイレギュラーな理由がある。 俗に言う「ナイチンゲール症候群」や「吊り橋効果」のような。
鳥の雛が親を認識するときと一緒の原理だと僕は考えていた。 雛は生まれてから最初に視認した、動いて声を出すものを親として認識する。 瑠璃葉にとって僕は、透明になるようになって初めて話せた人だから慕う。 そういうものなのではないか。
僕は別に、他人から好意を向けられることが嫌いなわけじゃない。 むしろ嬉しい。 当たり前だ。 しかしそれが、意図していないとしても人の弱っている部分につけこむような形で生じた好意なのだとしたら易々と喜べるものではない。
それに、彼女が僕だけにしか好意を表明することができない現状は間違いなく良くない。 早いところ彼女の大学デビューを成功させ、僕への依存を断ち、自立させてあげなければならない。 ・・・なんだか、こうなってくると娘みたいに思えてこなくもない。
「ゴールは見えた?」
そんなことを考えていると、なぜか未だに視線の厳しいみやびさんが僕に問うた。 まさか、娘みたいと考えたことがバレたか。
『ゴール』。 瑠璃葉の大学デビューの最終到達地点。
「はい。 彼女は小学生の頃から物語を読むのが好きで、自分でもマンガや小説を書いているらしいです。 だから、好きな物語についてアツく語り合えて、切磋琢磨できるようなサークルに入りたいらしいです」
正直僕としては、人数確保のためにぜひ、と金会にも入ってほしいけど。
そんな僕の下心とは裏腹に、みやびさんがつやつやとした黒髪を揺らして頷く。
「じゃあ、やるべきことは、それらのサークルの人たちの中にきちんと入っていけるように支援をすることだね。 『透明になる』個性自体は私たちにはどうしようもないから・・・」
「よっしゃ。 それじゃあ俺は、文藝部・漫研・創作サークルの中から合いそうなところをいくつか見繕っときますよ」
「・・・うん、よろしくね、ハムくん」
公太郎は元気に右腕につくった力こぶを叩いて応え、少ししかない荷物をトートバッグに入れて立ち上がった。 彼はこれから卓球サークルの方の練習に顔を出さなければいけない。 色々と忙しい奴である。
「なあ、ましろ」
と、トートバッグを肩にかけた彼が、ふいに真剣な顔で僕を見つめて言った。
「誰かの味方になるってのはいいことだ。 善人のやることだ。 でも、それを見捨てた瞬間、見ないふりをしていた奴らより悪人になる。 人助けってのはそういうもんだ」
幽霊ちゃんを見捨てたら、彼女を裏切ったら許さないぞと、静かに猛るライオンを思わせる茶色の瞳は僕に迫っていた。 そうだ。 人助けをする者は、相応の責任を負わなければならない。 その責任こそが、ある意味では「ヒーロー」を最も象徴するものでもある。
僕は、お前の姿をずっと見てきて、それを知ってるんだ。
「うん、わかってる」
僕が彼をしかと見返して応えると、公太郎はにっと笑みを作ってすぐにいつもの彼に戻り、僕とみやびさんに手早く挨拶をして颯爽と部室を出ていった。
彼が残していく「空気」は、いつも温かい。 温かすぎて、それを受け取っていることが恐れ多くさえ感じられるほどに。




