プロローグ あなたのミカタ
人は誰しも一度、ヒーローに憧れる。
幼い頃に純粋な瞳で観た仮面ライダーに。 魔法少女に。 ウルトラマンに。
でも、大人になるにつれて、そんなヒーローにはなれなくて、それに気づいて、ヒーローを自分の等身大に置き換えたり、ヒーローそのものをどこかへ追い出してしまったりして、僕たちは日々を生きていく。
子供の頃の一時の憧れは、賞味期限も短いのだ。 それを腐ったままとっておくのか、捨ててしまうのか、あるいはそれを真似して自分の手で新しいヒーローを作り上げるのか。
僕は、自分の「ヒーロー」は陶製の漬け物容器の中に入れて心の奥底においやったものだと思っていた。
だけど、そうじゃなかった。
19回目の春の、清々しい陽気に満ちた昼下がりのことだ。
僕はその時、ヒーローに助けを求めた。
遠い昔に観ていた仮面ライダーを無意識のうちにイメージして。
大学2年生にもなって。 恥ずかしながらも。
最後にそれをしたのは、小学3年生の夏休みの最終日だ。 読書感想文がどうしても終わらずに、自意識をもって以来初めて"深夜"というものを経験したあの日だ。
その時は最終的に、"お母さん"という、よっぽど機嫌の悪いときを除いて年中無休の僕のヒーローに手助けしてもらい、涙で原稿用紙を4枚ほど無駄にしながらもなんとか乗り切った記憶がある。 その際母に「ヒーローは助けられる人しか助けられないんだからね、頼りにしちゃダメだよ」と、なんだか深いような深くないようなことを言われてからこの方、律儀であることだけがとりえである僕という人間は、なるべく誰かを、特に状況を一気に覆してしまえるような万能のお助けマンの存在を頼りにせずに生きてきた。
今回僕はそのいいつけを破ってまでヒーローの登場を願ってしまったわけだ。 しかし、10年越しの呼び掛けに、ヒーローは応えてくれないだろう。
今この瞬間、僕は最もヒーローが登場しそうで、それでいて最もヒーローが登場しえない状況にあった。
(…ああ)
僕は、僕の貧弱な身体を死に至らしめるには十分すぎるほどの速度で迫りくる軽自動車の車体を眺めながら、心中でため息を漏らす。
噂に聞いていた「走馬灯」とやらは見なかった。 ただ、「死の危機が迫ると、時間の流れをゆっくりに感じる」というのは本当なんだなと、どうでもいいことを思った。
音と辺りの景色が遠ざかり、襲いかかってくる車のスピードがスローモーションに見える。 まるで、世界に僕と安っぽいシルバーの軽自動車しか存在していないかのようだった。
そんな不思議な体験の中で、僕はゆっくりと瞼を閉じた。
暗いベージュに染まった静かな世界のなかで、自分の身体がなにかに衝突し、不自然に折れ曲がり、勢いよく吹き飛ばされるのを感じた。
しかし。
(そんなに痛くない?)
僕は心中で首をかしげた。 そして、そうする余裕があることに心底驚いた。
地獄の閻魔大王様は、僕の知らない間に苦痛を感じずに死ぬことができる素敵な死に方プランを導入していたとでもいうのだろうか。
いやいやそれ以前に、なんで僕の身体は今、柔らかい感触に包まれているのだろう。 なんで僕の鼻先を、お日様を一杯に浴びた洗濯物のような心地よい香りがくすぐるのだろう。
僕は恐る恐る目を開ける。
まず視界に映ったのは、快晴の空の中に映え、強い風にたなびく赤色の帯だった。
それを辿っていくと、帯の正体は、僕を抱える女性の首につけられた、シルクのチョーカーの長い尻尾だった。
(僕を抱える? 女の人?)
視覚に遅れて認識が追い付いてくる。 「やあこんにちわ」と。 僕を茶化すように。
逆光で見えにくい女の人の口が動いた。 しかし、彼女の言葉はもやがかかっているかのように聞き取りづらい。
そこで僕は気づく。 ああ、どうやら僕の聴覚くんはもっとのんびり屋らしい。
意識すると、ざわざわという風と野次馬の音が、水中から浮き上がってくるようにだんだんとボリュームを増しながら聞こえてきた。
女性の形の整った唇が紡ぐ心地のよいソプラノが、鼓膜を撫でる。
「こんにちは。 今日はあなたのミカタをします」
僕がこの世界で2番目に出逢ったヒーローは、そう売り文句を口にして微笑んだ。
仄かに桜の気配を乗せた風が、二人の間を駆け抜ける。
僕の19回目の春は、こうして、劇的な何かが起きそうな予感満載で始まった。




