第74話 『 鴉外伝 ~夜凪夕~ 』
……俺――夜凪夕は東京都に建つ、一軒家で生まれた。
……生まれたと言っても俺はほとんど家の外の世界を知らなかった。
何故ならお母さんとの約束があったからだ。
――絶対に外に出ては駄目よ。外には危険なことが沢山あるんだから。
そう言って指切りげんまんしたのだ。
お母さんとの約束事は他にも幾つかあった。
……男の子は泣いてはいけない。
……大声を出してはいけない。
……痛いことは我慢しなければいけない。
……ご飯は一日一食食べなければいけない。
……お父さんの言うことは必ず従わなければならない。
……我が儘を言わない。
……勝手な行動はしない。
……テレビを視てはいけない。
細かいことを含めれば他にも沢山あったっけ。
少なくともそれらは俺の教科書であった。まだ、幼くて、世間を知らなかった俺に他の常識などある筈も無かった。
俺の世界にはお父さんとお母さんと小さな一軒家しか無かった。それ以外は何も無かった。
「おはよう――お母さん」
朝、俺は六時に目を覚ます。
朝食の支度をするお母さんの手伝いをするのだ。
「あら、おはよう――夕ちゃん」
お母さんが味噌汁を味見しながら俺に微笑み掛けてくれた。
「手伝うよ、お母さん」
「もう、いいのに」
「いいよ、暇だし」
そう言って俺は料理をするお母さんと同時平行で食器洗いをした。
「夕ちゃんはいい子だね。お母さん、助かっちゃうよ」
「そっ、そんなことないよ」
俺は恥ずかしくなってそっぽを向いてしまう。
……お母さんは優しい。
美人だし、料理は上手だし、何より誉め上手だ。
……じゃあ、お父さんは?
「……お母さん……お父さんは?」
「まだ、眠っているわ。起こしちゃ駄目よ」
「……うん」
俺は小声で頷いた。
――俺はお父さんが嫌いだ。
……お父さんはお母さんによく暴力を振るうし、酷いことだってよく言う。
俺やお母さんが家から出れないのも、毎日ご飯が少ないのもお父さんのせいだ。
全部、お父さんが悪いんだ。
「洗い物、終わったよ」
「うん、ありがと」
俺はTシャツで濡れた手を拭いて、他に手伝うことはないかと確認した。
「大丈夫よ、夕ちゃんは部屋で寝てなさい」
「うん、わかった」
俺はそれだけ言って居間の押し入れの中に入る。ここが俺の部屋だ。少し狭いけど、慣れれば悪くないし、ここにいればお父さんと顔を合わせることがないから気に入っていた。
やっぱり、俺はお父さんが嫌いだった……俺は一度も暴力を振るわれたことはないけど。
……いつも、お風呂の時間は憂鬱だった。
俺はTシャツや短パンを洗濯籠に入れて、鏡と向き合った。
「……やっぱり……治らないな、これ」
鏡の中には――傷だらけの少年がいた。
……勿論、それは俺である。
連日の暴力は日に日に激化し、俺の身体には無数の痣や火傷の痕があった。
俺はこの身体が嫌いだった。
お風呂に入るときや寝るときに痛くなるし、見ていると何だか悲しい気持ちになるからだ。
「……いつまで続くんだろ、こんな生活」
……そして、いつか終わるのだろうか?
考えちゃいけない、考えたらお仕舞いだ。一度考えてしまえば泥沼に嵌まってしまう。
だから、全てをこのシャワーの水と共に排水口へと流してしまおう。
……その日はいつもより長めの風呂に入った。
――AM02:10。
……それはやってくる。
「 夕ちゃん 」
――お母さんの声が聴こえた。
……また、あれか。
俺は眠い目を擦りながら押し入れから出た。
「……お母さん、おはよう」
時計を見ると二時十分……おはようというには早すぎだった。
「夕ちゃん、お母さんの話聞いてくれる」
「うん」
……当然ながら俺に拒否権なんてものはなかった。
「お母さん、またぶたれちゃったのよ」
お母さんが急に泣き出した。
「……うっ、お父さん、酔っぱらっていてね。それで……うっ、ぐすっ」
「……お母さん」
「……うっ……ぐすっ……うっ……うっ……」
「……」
お母さんは泣き続け、俺はそんなお母さんを見続けた。
「……」
「……」
―― 一瞬の静寂。いつかお母さんが言っていた「嵐の前の静けさ」の様だった。
「 ナ ン デ ワ タ シ バ ッ カ リ 」
……あっ、来るな。そう思った束の間。
「 何でっ! 」
――母さんにビンタされた。それも力の限り全力で……。
「こんなに頑張っているのにッ!」
……殴られた。
「ご飯も掃除も洗濯も全部、全部全部全部全部頑張っているのにッ!」
……蹴られた。
「何であんたは殴られないのよッ!」
……絶え間なく怒声を浴びさせられる。
……叩かれ、殴られ、蹴られ、引っ掻かれ、踏まれた。
「理不尽! あんたは狡い! 何で! 何で何で何で! わたしばっかり!」
……鈍い痛みが全身から波紋のように広がる。
……お母さんの口から飛び出す怒声が俺の心に突き刺さる。
でも、その痛みは何処か遠いところにあった。
俺の心は何処か遠いところにあるからだ。
――無心。
長く続いたこの生活から俺はたった一つの技術を覚えた。
……それは痛みを殺すこと。そうやって俺は自分の精神を正常に保っていた。
今、殴られているのは俺じゃない別の子供だ。
今、暴言を浴びさせられているのは俺じゃない別の子供だ。
そう思い込むことで俺は自分自身を騙し続けていた。
ただの現実逃避……しかし、効果もあった。
こうやって心を殺すと、不思議なことに皮膚の裏や心の表面に薄くて透明な膜が張ったあるように、痛みが緩和されるのだ。
まるで他人事のように痛みはお腹から背中を通りに抜けていった。
今、殴られているのは俺以外の誰かなのだ。
……ふと、鏡を見た。
――そこには俺と瓜二つの子供がお母さんに殴られていた。
「――っ」
俺は咄嗟に鏡から目を逸らした。
……危ない、危ない。危うく魔法が解けてしまうところだった。
……今殴られているのは俺じゃない。今殴られているのは俺じゃない。今殴られているのは俺じゃない。今殴られているのは俺じゃない。今殴られているのは俺じゃない。今殴られているのは俺じゃない。
……じゃあ、誰?
「……」
……そんな疑問に俺は聞こえない振りをした。
……………………。
…………。
……。
「……」
……俺は居間の床に仰向けになって倒れていた。
お母さんはほとぼりが冷めたのか既に自分の部屋に戻って眠っていた。
「……死にたい」
……ふと、そんなことを呟いてしまう。
お父さんはお母さんをぶつ。
お母さんは俺をぶつ。
……仕方のないことだと思う。
だから俺はお母さんのことを嫌いになることはなかった。
お父さんがお母さんを殴るからお母さんはおかしくなっちゃうんだ。
お母さんが俺を殴ることは仕方のないことなんだ。
そうでもしないとお母さんは壊れちゃうんだ。
溜まった痛みを吐き出さないと破裂しちゃうんだ。
だから、仕方ないんだ。
俺は殴られないといけないんだ。
……いけないんだ。
「……あれ?」
……頬から一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……俺……泣いて?」
――仕方のないことなのかな?
……お父さんがお母さんを殴って、お母さんが俺を殴る。
それって本当に仕方のないことなのかな?
お父さんがお母さんを殴る――おかしくないか?
家から一歩も出られない――おかしくないか?
テレビも見ちゃいけない――おかしくないか?
お父さんは一日三食なのに俺とお母さんは一日一食――おかしくないか?
お母さんが俺を殴る――おかしくないか?
……おかしくないか?
この家にはおかしなことが沢山あった。
「……したかった」
……俺は夜の闇の中でふと呟く。
本当は外の世界に行きたかった。
本当はテレビが見たかった。
本当はお腹一杯に食べたかった。
本当は殴られたくなかった。
本当は家族仲良く暮らしたかった。
無理なのかな、馬鹿げたことなのかな?
「……ぅっ……うっ……………………」
……俺は泣いた。
……誰にも聴こえないように。
……声を押し殺して――泣いた。
……………………。
…………。
……。
……そんな生活が何年か続き、俺は死んだ。
……死因は空腹や疲労などが重なった結果、ただの風邪を引いて死んだ。
……我ながら呆気ない死に様だと思う。
……気がついたときには俺はこの世界にいた。
……そして、〝むかで〟に拾われて、俺は〝KOSMOS〟の一員になったんだ。
……お母さんやお父さんが今やどうなったのか俺にはわからなかった。
……けど、前世の生活には未練は無かった。
……この世界にはテレビは無いけど冒険があった。
……あの籠の鳥の時代に憧れていた外の世界があるのだ。
……だから、まだやりたいことがあるんだ。
……俺はまだ死にたくないんだよ。
――極黒の光線が俺に迫る。
「……死にたくない」
――これは現実。
「……俺……死にたくないよ」
――俺は死ぬ。この〝黒鱗〟に撃ち抜かれて。
「……生きたいよ」
――死ぬ。
「 蟲龍参式――〝とぐろ〟 」
――俺を囲うように黒く巨大なムカデがとぐろを巻いた。
……これは!?
――とぐろの中にいる俺の視界は真っ暗になる。
……〝むかで〟の技!?
――そして、激しい衝撃と轟音が全身を揺らした。
「……っ!」
……かと思えば、すぐに静寂が訪れた。
「……どうなったんだ?」
そう俺が呟くと〝とぐろ〟は崩れ落ち、視界が開けた。
「……」
俺の目の前には〝黒土〟と〝麗羽〟。そして――……。
「 失望したよ、〝からす〟 」
……〝KOSMOS〟の頭領――〝むかで〟がそこにはいた。