第416話 『 〝蟲鱗〟 』
……楪の手術前夜。
「……奏さん、そろそろ時間だわ」
病室には俺と楪しかいなかった。
楪の両親は夕方に面会を済ませ、入れ違いで入った俺の面会時間も終わりが近づいていた。
「……そうだな」
俺は静かに呟く。しかし、その腰は重く、ピクリとも動かない。
「……」
「……」
俺は動けない。
楪も帰れとは言わない。
沈黙は続く。時計の針だけ無情にも時を刻む。
……まだ一緒に居たかったのだ。
明日になれば手術が始まってしまう。そうなれば、手術が終わるまで顔や言葉を交わすことは無いだろう。
最悪、楪の手術が失敗し、命を落とすことになればこれが最期の時間となるのだ。
まだ話したいことが沢山あった。
まだ君の声を聞きたかった。
「……」
それなのに俺は明日、手術を受ける楪に何を話せばいいのかわからなかった。
「……………………楪」
しかし、何も言わないまま今日を終えるなんて嫌だった。
「何かしら?」
楪が静かに続く言葉を催促する。
「……俺は楪、お前が好きだ」
「――」
……雰囲気もタイミングもあったものではなかった。
しかし、それでも溢れだしてしまったのだ。
楪への愛情、長い月日で培ってきた思い出が、俺の背中を押してきたのだ。
「ずっと好きだった。俺は楪とずっと一緒に居たい、傍でお前を支え続けたいっ」
「……」
俺の告白を楪は静かに傾聴する。
「俺はまだ大学生で大したこともできないけど、できることはするからっ、だから何でも俺に話してくれっ、全部聞くから、聞き逃さないからっ」
今の俺に手術の成功率を上げることはできない。それでも、楪の心の負担を和らげてあげることぐらいはしたかった。
――ギュッ……。
俺は楪の細くて白い手を握る。
……その手は微かに震えていた。
楪も恐れていたのだ。
明日の手術だって絶対に成功するのかわからない。
もう二度と明日を迎えられないのかもしれない。
今、楪は暗闇の中に居た。
不安で不安で仕方がなかったのだ。
俺は考える。
楪にできること。
彼女を幸せにする為の選択肢。
だから、俺は楪の手を握って、真っ直ぐに瞳を見つめた。
「 結婚しよう、楪 」
……それは唐突なプロポーズ。
「――」
あまりの唐突さに楪は思わず息を呑む。
「手術が成功して、大学を卒業したら結婚しよう」
「……」
ずっと考えていたことだった。
俺にできること。
俺がしたいこと。
何度も考えて、何度も試行錯誤して、何度もたどり着いた答えであった。
「……わたしでいいの?」
「楪がいいんだ、楪以外の女なんて考えられないんだ」
楪の問い掛けに、俺は間髪容れずに即答する。
「わたし、凄く病弱なのよ」
「構わない、その程度のハンデなんてハンデの内に入らないよ」
「わたし、学校にも行っていないし、まともに働けないのよ」
「問題ない、俺が医者になって一生養ってやる」
「……入院ばかりで家事だってやったことないし」
「手が器用な楪のことだからすぐにでも覚えられる筈だ」
「…………話したって……面白いこと言えないし」
「お前と一緒に居て、退屈だと思ったことは一度も無いよ」
「……………………本当は凄く怖がりで……今だって、明日の手術が怖くて、震えているし」
――俺は楪を抱き締めた。
「楪の全部が好きだ。弱いところも楪が嫌いなところも全部好きなんだ」
「……奏、さん」
楪の身体は微かに震えていて、体温も低かった。
それでも、彼女の鼓動を確かに感じとることができたし、間違いなく花枝楪は今を生きていた。
「……」
「……」
しばらくの間、俺と楪は無言で抱き合っていた。
「……………………奏さん」
最初に口を開いたのは楪であった。
「どうした?」
「……かっ……看護師さんが見ているわ」
「……っ!」
俺は咄嗟に楪から離れた。そして、入口の方へと目をやった。
「……いい雰囲気の所すみませんねー、面会時間がありましてー」
看護師が気まずそう苦笑いを溢した。
「……」
俺は恥ずかしくなって俯き、顔を真っ赤にしてしまう。
「すみません、もう少しだけ待って戴いてもよろしいでしょうか」
情けないことに、楪が俺に代わってしっかりとした返答をしてくれた。
「わかりました、私はナースステーションに戻りますのでお気になさらずー」
そう言って看護師は早足で部屋を出ていった。
「……」
「……」
再び二人っきりになった俺達は気まずくなって、黙り込んでしまう。
「……奏さん」
楪が静かに沈黙を破る。
「わたし、奏さんが結婚してくれって言ってくれて凄く嬉しかったわ」
「……」
静かに言葉を紡ぐ楪の頬は僅かに赤らんでいた。
「……だけど、今、わたしは奏さんのプロポーズに応えることはできない」
「……どうして?」
楪の小さな拒絶に、俺は反射的に質問してしまう。
「わたし、ずっと前から決めていたの……いつかこの病弱な身体を克服したら奏さんに伝えようって」
……何を?
「 ずっと好きでした、て伝えようって決めていたから 」
「――」
何てことはない。俺が楪を愛していたように楪も俺を愛してくれていたのだ。
――両想い。
ただそれだけのことで、俺の胸の中は幸福に満ち足りていた。
「だから、少しだけ待っていてほしい。わたし負けないから、絶対にこの手術を乗り越えるから。だから――……」
――ぎゅっ、楪の細く、白い手が俺の手を握る。
「そのときは、もう一度わたしの口から好きだって伝えるわ」
「……」
楪の瞳はとても真摯で、真っ直ぐに俺の瞳を捉えていた。
気づけば、楪の震えは治まっていた。
「……ああ」
……今の俺にできることはもう何もなかった。
「 いつまでも待っているよ 」
……楪の震えを止めること、それが今の俺にできる唯一のことであった。
それから暫しの間、俺と楪は他愛もない会話をして、俺は帰路につく。
明日、楪は手術を受けるだろう。そこで俺ができることは何もなかった。
だから、俺は星に祈る。
どうか楪の行く末に幸があることを……。
手は尽くした。
悔しいができることは何もない。
……それでも明日は否応なしに訪れるのであった。
……………………。
…………。
……。
……結果だけを言えば楪の手術は成功した。
無論、明日からすぐにでも走り回れる訳ではないが、時間を掛けて体力を回復させればいいと医者は言っていたそうだ。
これから楪は体力をつけていくのだろう。それでも、今は自分の足で歩くことができるのだ、それは大きな一歩である他なかった。
(……夢みたいだ)
……俺は楪の勇者にはなれなかった。
俺にできることは何もなかった。ただ無様に神頼みするしかなかった。
(……それでも楪の命が繋がった)
……それだけで十分であった。
例え、彼女の勇者になれなくとも、彼女が幸せであれば他には何もいらなかった。
俺は幸福であった。
楪も幸福であった。
そんな二人が恋人になり、婚約をするまでに六年の月日を経ていた。
俺は大学を卒業し、研修を終え、俺は医者になった。
楪も体力を付け、今では人並みの生活をすることができた。
そして、俺との子供も授かった。
幸せだった。
満ち足りていた。
……しかし、終わりは唐突に訪れる。
――炎
燃え盛る業火。
零れ落ちる幸福。
……俺は全てを失った。
それでも俺の戦いはまだ続いていた。
――〝白絵〟を殺す。
その為に、俺は強くなった。
多くの命を奪い、多くの人間に恨まれた。
全ては楪を救う為に……!
例え、離れ離れになっても
彼女が俺を忘れてしまっても
「……俺は」
――楪を幸せにするんだ!
……………………。
…………。
……。
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――衝突。
……〝百足王〟と〝白絵〟が真っ向から衝突した。
「……邪魔だ、〝白絵〟」
俺は更に魔力を高める。
「悪いがここで死んでくれ」
――ピシッッッッッッッ……! 〝白絵〟の纏う鎧が亀裂が走る。
「嫌だね♪」
しかし、〝白絵〟も簡単には折れない。〝百足王〟を受け止めて尚、一歩も退かなかった。
それでも、限界は訪れる。
『ギィッ、ァァッ、ァ――……』
――〝百足王〟の限界が。
……〝百足王〟の躯が崩れ落ちる。
(まさか〝百足王〟をも凌ぐとはな――だが)
「――かはっ」
〝白絵〟が膝を着き、鎧の隙間から吐血した。
「〝百足王〟を真っ向から受け止めたのだ、平気ではあるまい」
鎧は既にボロボロで、隙間からは鮮血が溢れ落ちる。
「勝手に決めるなよ、虫けら」
〝白絵〟は直ぐに立ち上がる。しかし、その足取りは覚束なかった。
「流石だな。最期まで〝傲慢〟を貫き通すとは感服に値するぞ」
俺は更に魔力を練り上げる。
「だが、ここまでだ。これから俺は全力を以て貴様の命を断つ」
……楪。
(長らく待たせたな。だが、それも今日で終わる)
〝蟲龍〟――漆式。
「 出でよ 」
蟲 麟
……それは〝百足王〟よりも数段巨大なムカデであった。
その体躯は歪で、ムカデと龍を混ぜ合わせたような姿をしている。
そのプレッシャーは凄まじく、大陸中の空気が震える。
「……」
〝蟲麟〟が〝白絵〟に牙を向く。
「〝蟲麟〟の威力は大陸の四分の一を消し飛ばす。貴様に逃げ場はない」
「――っ」
俺は〝蟲麟〟を〝白絵〟へ放つ。
「 去らばだ、傲慢なる王よ 」
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――轟ッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッ……!!!!!
……〝蟲麟〟の巨大な顎が〝白絵〟を呑み込んだ。




