第248話 『 空上龍太.死 』
「 空上、何度言ったらわかるんだよ! お前は! 」
……今日も職場の先輩に怒鳴られる。
「すみませんっ」
……口癖であるそれは一日で十回を裕に超えていた。
この仕事を始めて九ヶ月 (前回の五ヶ月を含めると十四ヶ月)、未だに怒鳴られる毎日だった。
我ながら自身の覚えの悪さに絶望する毎日であった。
重ねて、夜中まで第二種電気工事士の勉強をしていた為、毎日眠たくて仕方がなかった。
仕事ができないのは不眠のせいかと思われたが、ここまでできないと発達障害を疑った方がいいのかもしれない……そういうレベルであった。
教えてもらっていないことはできない。教えられたことを学習するのにも時間が掛かる。覚えてもやりこまないとすぐに忘れてしまう……正直、絶望的であった。
人の三倍努力すればどうにかなる、そのレベルを超えていた。
とはいえ、試験勉強をサボる訳にはいかなかった。
何と、一次試験である筆記試験を無事にパスすることができたのだ。
正直、自己採点の段階でギリギリだったのでヒヤヒヤしたが、今でも信じられなかった。
現在は二次試験 (実技試験)に向けて毎日配線を組んでいた。
この実技試験、超絶不器用な俺にはかなり厳しかった(練習キッド代の二万ちょいも痛かったというのもある)。
毎日眠いし、先輩には怒鳴られるし、贅沢はできないし、かなりストレスは溜まっていた。
そんなときに先輩からギャンブルや風俗の誘いが来ることもあったが、全部断っていた。
お金が無いのもあるが、一度堕落したら取り返しがつかないような気がしていたからだ。
また、母さんの見舞いも病院が自宅から離れている為、それなりに体力と時間を労した。とはいえ、見舞いは俺は大丈夫ですよアピールする為にも継続しなければいけなかった……また働くなどと言われたら堪らないからだ。
(……試験まで後――十日。集中しないとな)
二次試験まで残り十日。タイムリミットまで一秒も無駄にはできなかった。
「 空上、ぼーっとすんなー! 」
……先輩に怒鳴られ、俺は野菜の梱包された段ボールをトラックに積んだ。
……それから少し時が流れ、気づけば二次試験結果発表の日であった。
俺は受験会場であった大学に足を運び、合格者発表の掲示板で自分の番号を探した。
――00010252
それが俺の受験番号であった 。
俺は上から下へ向けて番号を辿る。
・00010231
・00010232
・00010233
・00010237
・00010239
・00010243
・00010244
・00010249
・00010252
・00010258
・00010259
・00010261
……ん? 今、何か見逃したような。
……俺は再び上から順に受験番号を探した。
・00010244
・00010249
・00010252
・00010258
……んん!
・00010252
……あった。
……間違いない、俺の受験番号だ。
俺はその場から動けなくなった。
情けないが少しだけ涙目になっていた、それに少し顔がにやけていた。
嬉しかった。達成感で胸が一杯になった。
……俺は初めて何かを成し遂げた。
第二種電気工事士ぐらいで大袈裟かもしれないが、俺にとっては快挙であった。
俺は母さんに結果を伝えたくて、駆け足で病院へ向かった。
病院は坂の上にあったので俺は息を切らしながら走った。
坂を越え、標識を越え、信号機を越え、俺は何とか母さんの入院する病院へと到着した。
俺は呼吸を落ち着かせて、受付のお姉さんに見舞いの申請をする。
すると、受付のお姉さんは一旦席を空けた……このパターンは珍しかった。
しばらくして、受付のお姉さんが戻ってくる。その瞳には深い同情の色が窺えた。
受付のお姉さんが言った。
……母さんの状態が急に悪化した。
……つい先程のことである。
……病院の先生もできる限りの処置はしたそうだ。
……俺が話を聞いたのはここまでだった。
――気づけば、俺は走り出していた。
……居ても立ってもいられなかった。
……ただ母さんの顔が見たくて、生存を確認したくて、母さんの病室へ向かって駆け出した。
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……母さんの病室の前へとたどり着く。
俺は少し悩んだ。
悩んだ末にドアノブに手を伸ばした。
「……」
……母さんがいた。
点滴のチューブが腕から伸びていた。
顔面蒼白でまるで死人のようであった。
「 あら、来てたの 」
……母さんが生きていた。今はそれだけで充分だった。
「……受付の人から聞いたよ、急に悪化したって」
「……そう、心配させてごめんね」
母さんはすぐに謝る。いつだって母さんは何も悪くないのに……。
「もう大丈夫なの?」
「うん、少し楽になったところ」
それでも母さんの顔色は蒼白く、健康体とは程遠かった。
「なら、良かった」
……何も良くはないが。
「それより母さん聞いてよ。俺、電気工事士の試験合格したんだよ」
「そうなの! 凄いじゃない!」
母さんが自分のことのように喜んだ。それだけで頑張って良かったって思えた。
「取り敢えず明日から履歴書作って、ハローワーク行って、仕事探すよ」
「へえ! 凄いじゃない!」
母さんは興奮気味に笑う……喜んでくれるのは嬉しいが少し気恥ずかしかった。
楽しそうに笑っていた母さんであったが次第に静かになっていった。
――つぅ……。一筋の涙が母さんの頬を伝い、溢れ落ちた。
俺はびっくりして、母さんにどうして泣き出したのかと訊ねた。
母さんは俺の質問に答える。
――迷惑掛けて、ごめんなさい。
……母さんは涙を流しながら謝った。
俺は意味がわからなかった。
「……龍太が頑張って毎日アルバイトをして、試験勉強も頑張って、資格も取れたのにわたしは何もしてあげられないんだよ」
……母さんはずっと思い詰めていた。
「……寧ろ、入院費を払ってもらい龍太の足を引っ張っている」
……いっそのこと
「 わたし、もう死んだ方がいいんかなぁ 」
「――っ」
……俺は母さんを抱き締めた。
「 死ぬなんて死んでも言うな! 」
……俺は初めて母さんを怒鳴った。
「 母さんは今まで俺を守ってくれたんだ! 一生分守ってくれたんだよ! 」
……廊下や隣の部屋に響くほどに大きな声であった。
「 だから、俺に恩返しぐらいさせてくれよ! 」
「――」
……母さんには生きていてほしかった。
……母さんの為に生きたいと思った。
……今まで母さんが守ってくれたように、俺も母さんを守りたかった。
「……ごめんなさい」
――母さんがまた謝った。
「……ごめんなさいっ」
何度も何度も謝った。
母さんに謝られたって何も嬉しくなかった。
強くなろう。
早く仕事を見つけよう。
母さんに心配掛けないように、
母さんの手術費を稼げるように、
「 明日からも頑張るよ 」
……それは俺の覚悟であり、母さんとの約束だった。
……それから、病室を出た俺を母さんの主治医が呼び止めた。
……そして、告げられる残酷な現実。
――そう遠くない日に母さんは死ぬ。
……逃れられない。
……容赦をしない。
……その現実は容赦なく牙を向く。
……………………。
…………。
……。
「 不合格 」
……現実は甘くはない。
俺は三社目の不合格通知を手に、俺は絶望していた。
会社はあまり大きくはなかった。
それなのに俺は落ち続けた。
……理由は、
・高卒
・二十四歳
・面接が下手
……など、色々あった。
今時、第二種電気工事士だけしか持っていない口下手高卒二十四歳フリーターを受け入れてくれる会社は簡単には見つからなかった。
時間が無かった。
母さんの寿命はそう長くはない。
(……せめて、早く就職して安心させたいな)
……母さんの病気は治らない。
手術費が足りない以前に、母さんの体力は一回の手術すら耐えられないほどに弱っていた。
借金をしてでも、もっと早く手術させるべきだったんだ。
だから、せめて母さんが死ぬ前に就職して、安心して死なせたかった。
俺は次の会社に電話をして、面接の日取りを決めた。
それから運送業のアルバイトへと足を運んだ。入院費や生活費を稼ぐために仕事をサボる訳にはいかなかった。
……焦る俺の気持ちとは裏腹に俺は面接を落ち続けていた。
週に二回、アルバイトの帰り道に母さんの様子を見てみるが、母さんの身体は日に日に細くなっていた。
……もう時間が無かった。
……早くしないと
……早くしないと母さんが
――携帯電話から着信音が鳴り響く。
……タイムリミットだった。
……俺は携帯電話を取り、すぐに対応した。
……それから、俺は間も無くして病院へ向かって駆け出した。
……俺は病室に飛び込んだ。
そこには母さんの主治医と母さんしかいなかった。
「……ごめん、遅くなった」
俺は息を切らしながら謝った。
「……良かった。間に合ったみたいね」
俺の顔を見た母さんが微笑んだ。
母さんの主治医は無言で部屋を出て、病室は俺と母さんだけになった。
「……仕事は大丈夫なの?」
「……ああ、大丈夫だよ」
……嘘である。俺は職場に連絡することも忘れて病院へ来てしまった。
「そういえば、今日内定通知の日じゃない?」
「――」
……それは今日落ちた内定通知であった。
「……受かったの?」
「……」
……一瞬の迷い。
……一瞬の決断。
「 受かったよ、楽勝だよそのぐらい! 」
……俺は嘘を吐いた。
「……そう、なら良かった」
母さんが安堵の息を溢した。
「 わたし、龍太に隠していたことがあるの 」
母さんがそう切り出した。
「……何?」
俺は恐る恐る催促した。
母さんの細くて白い手が俺の頬に触れた。
「……龍太、発達障害って聞いたことある?」
――母さんの言葉に、俺は言葉を失った。
「龍太が小学校の頃に保健室の先生に説明されたんだ。物覚えが他の子より遅い子のこと言うらしいのよ」
……心当たりはあった。
書いても書いても巧くならない書道。
一年以上やっても覚えられない仕事。
「わたし、龍太が発達障害だって知ってたけど、龍太が傷付くのが恐くて言えなかったんだ」
母さんは涙を浮かべながら笑った。
「辛かったよね、悔しかったよね。皆と違うって大変だったよね」
母さんは笑っているのに、涙だけは止めどなく溢れ落ちた。
「だから、お父さんのこと許してあげて」
「……親父?」
……突然挙がった親父の名前に俺は戸惑った。
「お父さんが龍太に構ってくれなかったのは、自分の背中を追わせたくなかったからなんだよ」
「……」
「お父さんと比べて、負けて、苦しませない為にお父さんはあなたに距離を置いたの……本当に不器用な人よね」
「……そんな」
……俺は馬鹿だった。
……自分のことも何も知らず、自分のことを想ってくれていた親父を冷徹と罵っていたんだ。
「……俺、親父に何て謝ればいいかわかんないよ」
「……大丈夫。向こうに行ったらわたしがちゃんと伝えてあげるから」
……母さんが静かに目を瞑った。
「……わたし、ずっと後悔していたんだ」
母さんは唄うように優しい口調で呟いた。
「龍太を普通に生んであげれば良かったな、って」
掌の熱なんてもう感じることができなかった。
「普通に皆と遊んで、普通に部活に入って、就職して、結婚して……平凡だけど幸せな日常をあげたかったな」
母さんの声は優しくて、真っ直ぐに俺の心に突き刺さった。
「……ごめんね、龍太」
……母さんは口癖であるそれを言う。
「 あなたを幸せにしてあげられなくて、本当にごめんなさい 」
……馬鹿みたいだ。
……母さんは何も悪くないのに、
……母さんはいつだって俺の為を想って行動していたのに、
……本当に馬鹿だ。
「 母さんの馬鹿 」
……だから、俺は言ってやった。
「俺、仕事で皆に頼られているんだ」
「電気工事士の試験や就職試験だって楽勝で受かったよ」
「最近、料理も覚えたんだ」
……連ねるのは嘘ばかりであった。
……仕事もできない、電気工事士の試験はギリギリ合格、就職試験は全敗、料理はカップラーメンだった。
……だけど、今はそれで良かった。
「確かに俺は発達障害だったのかもしれないけどさ。何も全部が全部できない訳じゃないんだ」
「人よりも覚えるのが遅いかもしれないけど、できないことなんて何もないんだ」
「母さんが支えてくれた馬鹿息子は、もう一人で生きていけるぐらいに成長したんだ」
俺は己の気持ちを全部吐き出した。
今度は嘘じゃない。
全部、本当のことだった。
「……だから、母さんに伝えたかったんだ」
……涙が溢れ落ちた。
「 生んでくれてありがとうって……! 」
……俺の涙だった。
「……守ってくれて、支えてくれて、本当に感謝しているっ」
……別れのときがもう直に訪れる。
「ありがとうっ、母さん、ありがとうっ」
……俺は母さんの手に自分の手を重ねる。
「ありがとうっ、本当にありがとうっ」
……離したくなかった。この手も、この命も離したくはなかった。
「母さん、ありがとう……!」
――クスリッ、と母さんが笑った。
「……もう充分だから」
……母さんは幸せそうな笑顔で笑っていた。
「……もう充分貰ったから」
……ああ、終わる。
「……ありがとう、龍太」
……命が、温かな日溜まりが終わってしまう。
「 わたしの息子でいてくれてありがとう 」
……俺の頬を触れていた母さんの手が落ちた。
「……母さん?」
……呼んでも返事は返って来なかった。
「……目を開けてよ、母さん」
……ただそこには、満足そうに笑っている母さんが眠っていた。
「……」
……俺は無言で母さんの白い手を握り締めた。
「……おやすみ、母さん」
……涙が止まらなかった。
……涙が止めどなく溢れた。
「 さようなら 」
……母さんは二度と目を開けることはなかった。
……それから半年の間。
……俺は脱け殻のように毎日を過ごしていた。
……母さんが死んで、色んなことがどうでもよくなっていた。
ーー夏。
……その日は日射しも強く、蝉の声も騒がしかった。
……ラジオの甲子園の実況中継が煩かったことを何となく覚えていた。
……二月に入社していた会社からの帰り道である。
……電車を乗降口で待っていて、そこで意識が途切れた。
……俺を呼ぶ女性の声が最後に聞こえた。
……それが最後の記憶だった。
――2021.7.22
……俺は死んだ。




