第197話 『 lost‐memory 』
――2020.12.18
……俺は長い長い坂を駆け上がっていた。
季節は冬。
灰色の空。
白い吐息。
その日は酷く空気が乾燥していたんだ。
俺はアスファルトを一心不乱に蹴り上げる。
それにしても何て長い坂なんだろう。登っても登っても終わりが見えないのだ、きっとこの坂を工事した業者は酷く性格がねじ曲がっているのだろう、でなければきっと市に埋め立てる資金が無かったに違いない。
ならば仕方が無い。俺は大人げない八つ当たりをやめて坂を登ることに集中した。
ああ、肺が苦しい。運動不足もあるが、乾燥した空気がやけに刺刺しく感じた。無論、それは俺の想像の話であり、肺の苦痛の原因は十中八九、運動不足である。情けないことに……。
……あと、三つだ。
あと三つ、標識を越えれば目的地に着くんだ。
この長い坂の先には市立病院が建っている。
俺はそこに用があった。否、正確にはその病院のとある一室に用があった。
――302
……その標識を何度見たことか、何度その下を潜ったことか。その数字は俺の脳内に焼きつき、思い出しては少し憂鬱な気持ちにさせるのであった。
しかし、その今の俺にその数字は頭に浮かんでこなかった。
……何故?
その答えは単純明快。その数字よりも印象的な数字が俺の頭の中をグルグル回っていたからだ。
――00010252
……それが今の俺のベストオブナンバーであった。
走る。走る。走る。
《40》と標記された標識を通り過ぎた。
走る。走る。
二人の人間(恐らく親子)のシルエットが標記された標識を通り過ぎた。
走る。
《右折注意》と標記された標識を通り過ぎた。
そこには白く、大きな建物があった――市立病院である。
俺は横断歩道を駆け抜け、駐車場を過ぎ去り、自動ドアを潜り抜けた。
……その途端、暖気が俺の身体にまとわりついた。
ドッと汗が吹き出した。普通の患者やお見舞客にとっては調度いい空調も、ついさっきまで走ってきた俺には少しばかりか暑すぎた。
俺は上着を脱ぎ、腕に掛けてカウンターのお姉さんに面会の許可を申し込んだ。
事前に連絡を入れていたにも拘わらず、今日の受付には時間が掛かった。
お姉さんは何とも言い難い表情をし、その瞳には同情の色が見えた……はて、何かあったのだろうか?
何かあったのかと訊いてみた。お姉さんは言葉を選びながら、丁寧に俺の質問に答えてくれた。
……一瞬で汗が引いた。
俺は何かを俺に伝えているお姉さんを無視して、廊下を駆け出した。どの道、お姉さんの言葉など頭に入る筈が無いからだ。
エレベーターなんて使ってられない。俺は階段を駆け上がって、三階に到着した。
俺は走った。
……305……304……303……こんな部屋はどうでもいい、俺が用があるのは302号室だ。
――302
……目の前にあるその数字を前に俺は立ち尽くした。しかし、いつまでもこんなところで立ち尽くしているわけにはいかない。この扉を開かなければ前には進めないのだからだ。
……はて? 俺は本当に前に進みたいのか?
俺は一瞬迷った。
この扉を開いてもいいのか? この扉の先には間違いなく、それこそ絶対に近い確率でそこには〝絶望〟が眠っているのだ。
果たして、俺はその〝絶望〟を起こす勇気と覚悟があるのか?
答えは勿論――否だ。
しかし、扉は開ける。勇気は覚悟は俺には無い。それでも、天文学的確率で存在する〝希望〟とささやかな義務感を俺は無視することができなかったからだ。
深呼吸を一回した。
右手は既にドアノブを握っていた。
後は、捻って引くだけ。
「 母さん、入るよ 」
……俺は静かに扉を開いた。
……………………。
…………。
……。
――がばっ、目を覚ました俺は覚醒と同時に上体を起こした。
「……」
……何だ、今の夢?
よくわからないけど胸が酷く締め付けられた。
「……どうしたんですか、タツタくん?」
「……ドロシーか。悪いな、起こしたか?」
隣の寝袋で寝ていたドロシーが顔を覗かせた。
「いえ、別に謝ることではないのですが……って、あれ?」
俺の顔を見たドロシーが首を傾げた。
「 ……どうして、泣いているのですか? 」
……えっ?
「何か、悲しい夢でも見ましたか?」
ドロシーに指摘されて初めて気づかされた。
――つぅ……。頬に温かい滴が滑り落ちる。
……俺は、泣いていたんだ。
「……あれ? 何だ、これ?」
……訳がわからなかった。
「……そんなに悲しい夢でしたか?」
「……わからない」
俺にもよくわからなかった。
「……だけど、悲しいことがあったんだ」
……それだけは何となくわかった。
「今じゃない、だけどそんなに昔でもない。とても悲しいことがあったんだ」
「……」
「それなのに思い出せないんだっ……ちくしょう、何で思い出せないんだっ」
「……」
俺は涙を流しながら頭を抱えた。
確かに大切な思い出だったのに、俺はそれを思い出すことができなかった。
それが悲しくて、悔しくて仕方がなかった。
「――タツタくん」
――ドロシーが俺の背に背中を着けて、もたれ掛かった。
「――」
……完全に不意を突かれた。
「私の誕生日、皆さんがメイド服を着たのを覚えていますか?」
「……あっ、ああ。覚えてるけど急に何でそんな話をするんだ?」
「ふふっ、タツタくんのメイド姿、似合ってませんでしたね♪」
「……」
……何だ、喧嘩売られているのか?
「昔、お父様がよくしてくれたんです」
「……?」
優しげに言葉を紡ぐドロシーの声と背中越しに感じられる体温に、俺は少しどぎまぎした。
「恐い夢を見て泣いていた私に楽しい話をしてくれたんです」
「――」
「そうすると、不思議と恐い気持ちが無くなったんです。だから、タツタくんにもそうなってほしくてやってみました」
「……っ」
……嬉しかった、言葉にならないぐらいに。
「どうでしたか?」
「効いたよ、凄くな」
俺は顔を手で覆って涙を流した。
「あれ? まだ、悲しいのですか?」
「嬉し涙だよ、馬鹿」
それから、しばらくの間、俺はドロシーの笑い話を聞き続けた。
そして、ドロシーが大きな欠伸をした頃に、各々の寝袋に戻って眠りについた。
(……気づかなかったな)
俺はぼんやりとした意識の中、ドロシーの顔を思い描いた。
(……俺の中のドロシーの存在って、こんなに大きくなっていたんだ)
……すぐに深い眠りについた俺は、その気持ちの名前を見つけ出すことができなかった。




