第 0話 『 2021.7.22 』
――長い夢を見ていた。
……俺はしがないサラリーマンで、嫁も親しい同僚もいない、そんな寂しい大人であった。
「……にしても、思い出せないな」
出張から会社へ戻る途中の電車の中、俺は小さく呟いた。
――俺はつい先程までこの電車を待っていた。
しかし、今日はあまりに暑すぎたのだ。
俺は電車を待っている間に、立ったまま意識を失い夢を見ていた。
そして、倒れて線路に落ちそうになったところを、偶々隣で電車を待っていた女性に手を引かれ、窮地を脱して、今に至っていた。
(……危なかった。さっきの女の人にはマジで感謝だな)
俺は命の恩人の名前を訊けなかったことを後悔した。命を助けてもらった恩もあったが、何より美人であった……欲を言えば連絡先とかも交換できたら完璧だった。
(……そんな度胸はないだろ、俺)
俺は心中でセルフツッコミをする。
(……うーん、やっぱり駄目だな)
そして、立ち寝していたときの夢は思い出せなかった。
その夢は、とても長い長い夢で、刺激と興奮に満ち足りたものであった。
しかし、おかしいなとも俺は思う。
(たかが夢に俺は何を必死になっているのだろう?)
その日に見た夢を思い出せないことなど昔からよくある話であった。
それなのに、この夢だけは何故か、執拗に固執していた。
(……何かがあったんだ。忘れてはいけない大切なもの、確かにあったんだ)
――しかし、俺は思い出せなかった。
(何で思い出せないんだよっ、絶対に何かがあったんだよっ)
――思い出せない。
「……クソッ、暑いなっ」
俺は思い出せない苛立ちを、今日の暑さに八つ当たりした。
しかし、暑いのも事実である。俺の頬に一筋の汗が線を引く。
俺はポケットに手を突っ込み、白いハンカチを取り出す。
「……」
……このハンカチは俺のハンカチではない。先程助けてもらった女性から戴いたものだ。
――涙、拭きますか? 何か、悲しいことでもありましたか?
……命の恩人である女性はそう言って、白いハンカチを俺にくれたのだ。
(……何で、俺は泣いていたんだろう?)
……汗の雫が顎から滴り、足下へ落ち、そして、小さく弾けた。