第160話 『 追想のトラゲティ.崩壊 』
『 ずっとこの瞬間を待っていたんだよ! ずっとなァ! 』
……ヨルムガントが高らかに笑った。
「嫌だ! お父さん! お父さん! 死んじゃ嫌だよ!」
私は胸に風穴を空け、多量の血を垂れ流すお父さんに叫んだ。
……ヒュー……ヒュー、しかし、肺を潰されたせいか喋ることすらできなかった。
胸に空いた巨大な穴。
止めどなく溢れ出る鮮血。
冷たくなる体温。
――お父さんは直に死ぬ。
……それは避けようのない未来であった。
「お父さん! お父さん!」
しかし、私は無駄だとわかっていても構わず、お父さんを呼び続けた。
「嫌だよ! 死んじゃ嫌だよ! お父さん!」
叫び続ける私。
その頬にお父さんの骨張った掌がそっと添えられた。
「……お父……さん?」
お父さんは優しげに微笑み、声ならざる言葉を私に投げ掛けた。
幸 せ に な
……そして、お父さんの骨張った手が地面に落ちた。
「……」
私は二度と動かなくなったお父さんを無言で見つめた。
とても安らかな顔をしていた。
「……そんなっ」
私はお父さんの亡骸を前に崩れ落ちた。
「そんなのってないよ、そんなのあんまりだよっ」
私はお父さんの亡骸に頭を預けて泣いた。
『 本当に役に立ったよ、人間って奴はァ! 』
ヨルムガントが嗤った。
『俺が人に化けるだけですぐに騙されるんだからな! 本当に愉快な奴等だよォ!』
「……」
『やっとだ! 兄貴が死ねば俺がこの縄張りのボスになれる!』
「……」
……そのとき、私は悟った。
「……………………お前が……仕組んだんだ」
親切な青年の正体を、
この騒ぎは誰の仕業なのかを、
――私は気づいてしまった。
「お前が悪いんだァァァァァァ……!」
私は怒りで我を忘れて、ヨルムガントに飛び掛かった。
『無駄だぜ、おチビちゃん♪』
――私の目の前に巨大な角が迫っていた。
『お前も邪魔だ、死ね』
「……っ!?」
我を失ってしまった私に回避行動を取る余裕はなかった。
――ドッッッ……! 巨大な角が分厚い肉を貫いた。
……巨大な角は私を貫いてはいなかった。しかし、私の代わりに父ちゃんの横腹に巨大な角が突き刺さった。
『……俺の娘に手を出すな』
父ちゃんがヨルムガントを睨み付けた。
『 殺すぞ 』
――ゴッッッッッ……! 父ちゃんの拳がヨルムガントの頬骨に叩き込まれた。
『……ッ』
父ちゃんは横腹から血を吹き出し、苦痛に表情を歪めた。
「父ちゃん……!」
『大丈夫だ』
しかし、父ちゃんは倒れなかった。
『お前は俺が死んでも守る』
「……父ちゃん」
『それが俺の父親として最期の矜持だ!』
……最期。その言葉に私の心臓は酷く締め付けられた。
『さっさと死ねよ、死に損ないがァ……!』
ヨルムガントが吼え、父ちゃんに飛び掛かった。
――父ちゃんもヨルムガントに飛び掛かった。
……………………。
…………。
……。
『 ……ドロシー 』
……降り注ぐ雨は、地面に横たわる父ちゃんを激しく打ち付けた。
そこには腹から血を流す父ちゃんと、心臓に風穴を空けられ絶命したヨルムガントと、必死に父ちゃんを呼び続ける私しかいなかった。
「父ちゃん! 父ちゃん!」
私は駄々っ子のように泣きじゃくり、父ちゃんに寄り添った。
「死なないでよ、父ちゃん!」
そんな私の叫びも虚しく、父ちゃんの腹からドクドクと流れ出る鮮血は止まらなかった。
『……ドロシー、俺の声、聞こえるか』
「うんっ、ぎこえるよっ!」
雨や風の音がうるさいのに、何故か父ちゃんの静かな声はしっかりと私の耳に届いていた。
『……そうか、だったら今から大事なことをお前に伝える』
父ちゃんの声はとても優しく、逆にそれが恐かった。
『俺は人間が大嫌いだった』
……初めて聞いた話だった。
『俺達魔物のように、鋭い爪や牙を持たないくせに、口だけは達者な人間を俺は見下していたんだ』
……だけど、と父ちゃんは笑った。
『俺は人間が好きになっていた』
……もう、雨や風の音は聴こえなかった。
『どうしてだと思う?』
……父ちゃんの声しか耳に入らなかった。
『 お前と出会ったからだ 』
……この世界には父ちゃんと私だけしかいない、そんな錯覚すら覚えた。
『お前が人間の温かさや優しさ、鋭い爪や牙よりもずっと強い人の心を教えてくれたんだ』
……父ちゃんの心音が小さくなるのが、掌越しに伝わった。
『俺は人間が大好きになったんだ』
……徐々に冷たくなる体温。
『お前が教えてくれたんだ』
……溢れ落ちる鮮血を、まるで命の砂時計ようだと思った。
『……だから、お前に知っていてほしいんだ』
……ああ、終わる。
『……お前の強さを、お前の優しさを』
……終わってしまう。
『……頑固な俺を変えたお前なら何だってできる。お前は自由だ』
……命が終わってしまう。
『好きな場所に住めばいい! 好きな男を好きになればいい!』
……父ちゃんは吼えた。
『お前は俺の自慢の娘だ……!』
……私は涙が止まらなかった。
『何だってできる! できないことなんて何もないんだ!』
……そして、父ちゃんは瞼を閉じた。
「……父ちゃん、わたし、これから旅に出るよ」
私は目をつむった父ちゃんに未来を語った。
「色んな国や村に行って、色んな人と話して、色んな物を食べるんだ」
『……』
……それは平穏な日々の中、私が思い描いた未来図であった。
「それで格好いい男の子と恋をする。そのときになったら父ちゃんに紹介する。そして、父ちゃん言うんだ」
『……』
……未来を語る私に、父ちゃんは一言も語らなかった。
「 わたしの父ちゃんになってくれてありがとう、って 」
『……』
……父ちゃんは何も語らなかった。
「……父ちゃん?」
『……』
「……ねえ、何か言ってよ」
『……』
「……父ちゃんっ……父ちゃんっ」
『……』
「父ちゃ――……」
気づけば雨は上がっていた。
空には虹が架かっていた。
……その日、私は二人の父を失った。




