第142話 『 八雲 』
……僕は自分の名前がわからなかった。
僕は暗い暗い森の中で生きていた。
お腹が減ったらそこら辺に生息している動物を捕まえて、食べていた。
もう、何年も誰とも話していなかった。
……僕には昔の記憶が無い。
覚えているのは五年前、崖の下、頭から血を流していた後の記憶しかなかった。
僕は自分の名前がわからないし、家族の名前も顔もわからない。何が好きで何が嫌いなのかも、どこで生まれたのかもわからなかった。
僕には何にも無かった。毎日寝て起きて、野生の動物を狩って、それを食べて生きていた。
そこに喜怒哀楽は無くて、ただ生きていた。
人一人近寄らない森の中で僕は狩りをして生きている。それは動物だったり魔物だったりとまとまりはないけど食べられるのであれば僕は構わなかった。
この人生に希望や生き甲斐は無かった。ただ、空腹を紛らわし、死なないために食事を摂り、惰眠を貪っていた。
そんな生活が続いていると、気づけば人の言葉がわからなくなっていた。他に人のいないこの森に人の言語は不要なものだったからだ。
そんな生活がいつまでも続くと思っていた。
……しかし、そんな生活はある日を境に終わりを告げた。
「 お前、人間か? 」
……〝空門〟さんと出逢ったからだ。
「うーああうあー」
「……あ゛? 何言ってるかわからねェよ」
……そのときの僕は上手く喋ることができなかった。
「もしかして、人語が喋れないのか」
――コクコクッ、僕は勢いよく頷いた。
「なるほどな、そっちの事情はよくわからねェが、一応人語は伝わってるようだな」
――コクコクッ、僕はまた頷いた。
「お前、一人か?」
――コクコクッ!
「何だ、俺と一緒じゃねェか」
そのときの〝空門〟さんは何だか寂しげな顔をしていた。
「……」
「……」
無言で僕の顔を見つめる〝空門〟さんと上手く話せない僕。何だか気まずい空気が流れていた。
「なあ、お前、俺の仲間にならないか?」
「うー?」
……そのときの僕は意味がわからなかった。勿論、内容ではなく意図であるが。
「俺の仲間になって、一緒に旅をしようぜ」
……聞き間違いでもないようだった。
「あうあー、うあー」
「勿論、仲間になったら言葉も教えてやるよ」
偉く強引な勧誘だったと思う。
「俺はお前が気に入ったんだ。だって、お前は俺に似ているんだよ」
それは僕もどこか感じていたことだった。
「 お前、〝空っぽ〟だろ 」
「――」
「俺も〝空っぽ〟だからわかるんだよ、何となくな」
……見透かされていたようだ、僕の本質を。
「ついてこいよ。んで、一緒に探そうぜ、楽しいことをな」
〝空門〟さんが戸惑う僕に手を差し伸べたのだ。
「 俺は〝空門〟だ 」
――〝空門〟さんは突然名乗りを上げた。
「剣の腕なら天下一、空龍心剣流正当伝承者にして、大陸中をさ迷う流浪人」
その瞳は真っ直ぐ、僕の瞳を捉えていた。
「さあ、取るか払うか――選べよ」
「……」
「友達になろうぜ」
「……」
……僕は戸惑っていた。
だって、この人の提案は滅茶苦茶だし、僕はこの森の外を知らないし、何より今が変わってしまうのが怖かったからだ。
な の に 。
――僕は〝空門〟さんの手を取っていた。
……興味があったからだ。
どんな世界があるのか、どんな人達がいるのか。
何よりもっと知りたかったのだ、この見ず知らずの子供に友達になりたいと言う不思議な人を……。
「決まりだな」
〝空門〟さんは僕の小さな手を強く握り、笑った。
「自分で言うのもあれだが俺はちゃらんぽらんだ。だが、俺は仲間を大切にする」
……大きい手だな、と僕は思った。
「だから、よろしくな」
……僕は、
――ギュッ
……僕はその大きな手を握り返したんだ。
この日を境に僕の人生は動き出したのだ。
死んでいた時間。
惰性の人生。
――それが、今、〝空門〟さんの大きな手でこじ開けられ、動き出したのだ。
……それは今から五年前のことであった。
……………………。
…………。
……。
「……」
……僕は暗闇の中にいた。
「これがあなたの〝特異能力〟ですか」
そう、僕はタツタさんが展開した闇の中にいた。
「……」
話し掛けてもタツタさんは答えなかった。当然だ、身を隠す為の闇なのに、話して居場所をバラしては意味がないからだ。
「……」
「……」
……僅かな沈黙。
「 来た 」
……迫るプレッシャー。
……跳躍する僕。
――ドッッッッッ……! 跳躍した僕の真下を黒い衝撃波が通り抜けた。
「……っ!」
「僕にはその程度の小細工は通用しませんよ」
――ギロリッ、僕は着地すると同時にタツタさんがいるであろう方向を見つめた。
瞬 駆
――僕は一挙にタツタさんと間合いを詰める。
「お前、見えるのかよ!」
「 見えませんよ 」
――タツタさんが刃を振り抜く。
――僕も刃を振り抜く。
流 れ る 雲
「 ただ感じられるだけですよ 」
――斬ッッッッッ……! 僕はタツタさんの肩を切り裂いた。
「――ッ!」
――集中の糸が切れたのか、闇が解除された。
〝流れる雲〟で斬撃をいなして、そのまま交差するときにタツタさんの肩を斬ったのだ。
「生まれつき魔力を持たない僕の肌は人並み以上に他人の魔力に敏感なんです」
肩を押さえ、地に膝を着くタツタさんに僕は語る。
「長い年月を経て鍛えぬいた耳は僅かな音を捉えます」
「……」
タツタさんは鋭い眼光で僕を睨み付ける。
「諦めてください、あなたでは僕には勝てません」
「……」
「そして、唱えてください――〝極・闇黒染占〟を」
「 わかったよ 」
……よかった。やっと折れてくれたようだ。
「 ただし 」
――否。
「 俺の最強の一撃を受けてからだ 」
……タツタさんはまだ諦めてはいなかった。
「……わかりました」
チンッ、僕は刃を鞘に納めた。
「あなたの最強の一撃を受けましょう。そして――……」
――僕は抜刀の構えをした。
「 真っ向勝負でそれを叩き潰します 」
「 やってみろ 」
――タツタさんも抜刀の構えをした。
「……」
「……」
……静かに睨み合う僕とタツタさん。
……吹き付ける横風に木々が鳴く。
……一枚の木葉が風に煽られ、宙を舞う。
「……」
「……」
……木葉が地面に落ちた。
――ドッッッッッッ……! 両者、同時に飛び出した。
空 龍 心 剣 流
流 雲 蒼 天 流
――両者の間合いは一挙に詰まる。
――僕は刃を解放する。
――タツタさんも刃を解放する。
神 月
神 憑 く 雲
――そして、両雄が激突した。
「……」
「……」
……沈黙する僕とタツタさん。
「……危なかった」
僕はタツタさんに背を向け、呟いた。
「100パーセントでやらなかったら僕の方が負けていましたよ」
――ブシュッ、タツタさんの上体から血飛沫が舞った。
「……糞がっ」
タツタさんが膝を着く。
「さあ、約束は約束です」
僕は納刀して、タツタさんの方を振り返った。
「〝極・闇黒染占〟を使ってください」
「……どうやら、ここまでのようだな」
タツタさんはやっと諦めてくれたようで、その瞳には戦意は無かった。
「一つ、頼みがある」
「何ですか?」
タツタさんは真剣な眼差しで頭を下げた。
「俺には仲間がいる、そいつらに伝えてほしい」
「……」
「今までありがとう。俺と一緒に戦ってくれてありがとう――てな」
「……はい、伝えます」
互いに全力を出しあったのだ。そのぐらい応えてやるのが騎士道というものであろう。
「じゃあ、言うぞ」
「どうぞ」
タツタさんはゆっくりと口を開いた。
「極・闇黒染――……」
――そのときだった。
「 ギリッギリセーフだね 」
「……っ!」
――地面に一本の黒い刀が刺さった。
「おせェーよ、ばーか」
「……どなたでしょうか?」
――トンッ、間髪容れずに一人の少年が黒い刀の柄に着地した。
「 夜凪夕 」
……これは予想外だった。
「 空上龍太の仲間だよ……! 」
……突然の乱入者、夜凪夕は威勢よく啖呵を切ったのであった。




