Chili pepper
社内恋愛というのはうまくいっているときはいいが、関係に破綻をきたすとおそろしく面倒だ。
ていうか、私だって社内恋愛なんて絶対イヤだと思ってた。面倒なのは目に見えてる。好き好んで同じ会社の人を好きになった訳じゃない。
と、前園珠美は心中でつぶやいてみたが、日本語的なクドさ・微妙さに、つい苦笑が漏れた。
珠美はそもそも、仕事に対して責任感の強い人物で、普段からオフィシャルとプライベートを切り替えて、周囲に影響しないように注意深く振る舞っていた。
いや、そもそも、うまくいっていようがいまいが、プライベートな人間関係が仕事を左右するのって端的にウザいじゃん? クールじゃないじゃん?
というわけで、彼女の恋愛の破綻は、彼女ひとりの責任の範囲内に収まり、彼女のみが負担を負えばよい話だった。珠美はそのことに大いに自負心を満たされ、…ていうか、そのプライドだけでやってくしかないじゃないすか。
で。何故に彼と彼女ふたりの責任ではなく、彼女ひとりが負担を負うのかと言えば、相手の彼はあまり誠実な人物ではなかったようで。
それが判明したのは、彼は彼女にまったく一言も相談も報告もなく転職&結婚をキメやがった次第による。ちなみに結婚相手は転職先の重役の娘だそうな。
珠美がどういうことか尋ねると、
「え? 俺たちってそういうんじゃなかったろ?」
というひと言が帰ってきた。
それで、全部終わり。
かくして、本日、華々しく彼の送別会+結婚を祝う会が催されているはず。
珠美は、餞別代わりに会費をくれてやったものの、さすがに行く気にならないのでテキトーに用事をでっちあげてばっくれた。
とっとと帰ろう、と思いつつ、帰ってもどうしたらいいのかわからない。何をする気にもならない。我ながらすごいな、この無気力状態。彼女は深々とため息をついた。
社内にはほとんど人がおらず、残った人たちも手早く残務を片づけて送別会に合流するようだった。帰り際、すれ違っていく同僚たちは「行かないの?」と目で問うてくる。
人目を避けて人気のない自販機スペースに向かい、ほしくもないけれど適当に飲み物を買った。ガタン、と音を立てて落ちてきたペットボトルは、彼が好んでよく飲んでいた緑茶だった。
カッとした。思わず、そのままボトルをゴミ箱にぶち込みたくなり、腕を大きく振りかぶって。
それから、しばらくそのまま。頭上に緑茶のペットボトルを掲げて、ゴミ箱を睨みつけた姿勢で動けなかった。何かをこらえるように、その手は小刻みにぶるぶる震えた。
「あのー」
と、怪訝な声がかかって、珠美はハッと振り向く。
「それ、要らないならもらっていい?」
声をかけてきた人物は、彼女の手のボトルを指さした。
隣の部署の佐藤晴彦。へらりと調子よく愛想のいい男で、しょっちゅう女性をからかっている様子を目にするが、天性の愛嬌のせいか、不思議と評判は悪くない。
自販機前で買ったばかりのペットボトルを構えてゴミ箱前・仁王立ち。という奇態な行動を目撃されて、珠美は、う。と言葉に詰まった。
目撃した佐藤は、またいつものようにからかってくるのかと思いきや、特に事態を尋ねもせず、ごく平坦な態度でボトルを受け取るべく、手を差し出してくる。
珠美は黙ってボトルを渡した。
「ありがと。えーっと、130円かな。ちょうどあるよ」
小銭を渡そうとしてくるのを遮って、「いえ、いいです」と発した途端、ばらばらと涙がこぼれ落ちた。うそ。泣いてる、私。
ごまかしようもない事態にも関わらず、彼は「いいの? ありがと」と常温の声音で返す。サンキュ、と重ねて礼を言いながら、きびすを返して去っていった。
気を遣わせた。
佐藤に対する罪悪感と感謝を感じながらも、決壊した涙腺はなかなか止められなかった。
その後、幸いにも誰も来る様子はなく、珠美は自販機の陰にしゃがみこんで、嗚咽を噛み殺す。
たかが失恋しただけで、大げさだ。ここは仕事をする場所。個人的な感情を持ち込んじゃいけない。
だけど。今だけ。誰もいないから。
しばらくして、珠美はよろりと立ち上がった。
だめだ。帰らなきゃ。会社にいたら至るところに涙腺の地雷がある。
こりゃもう、マスカラもファンデもくずれてえらいことになってんだろうな。誰もいなくてよかった。
と、自販機スペースを離れようとしたところ、物陰からいきなり箱ティッシュが現れた。つまり、そこに佇んでいた人物がティッシュを差し出してくれた次第で。
「…佐藤さん」
ていうか、いつからそこに。
彼は、気まずいとこ見ちゃってごめん、と言いたげに申し訳なさそうな視線を投げてくる。
それから、気を取り直したように
「すっげえ辛い担担麺の店があるんだけど、行かない?」
と言った。
佐藤は送別会には行かないらしい。
「そんな親しくなかったし。それに今、ヤツの上司に無茶な仕事を押しつけられそうになっててさ、逃げたいんだ」
へらりと笑った。
担担麺の店、というのは中華料理店というより文字通り担担麺に特化した専門店で、店中にラー油と花椒の匂いが満ちている。
「…すごい。担担麺だけでこんなに種類があるんだ」
「辛いの苦手だった? こっちの白ゴマ担担なら辛さ控えめだよ。でも俺としてはガッツリ辛いヤツをお勧めしたいな。どう? このへん」
と、佐藤はメニューの辛さ表示で下から2番目あたりを指す。
珠美は、うっしゃ。と妙に戦闘的な気分で、もう一段階辛いものを選んだ。こうなったら、何でも持ってこい。食ってやる。
彼は少し驚いたように目をみはり、ついでおもしろそうに笑った。
「知らないよ。本当に辛いよ、ここの」
「いいの」
と強がりつつ、それでも一番辛いのにしないあたり、小市民だな私。などと思った。
ほどなくして運ばれてきた担担麺は、見た目からして凶悪だった。
真っ赤なラー油がスープの表面を厚く覆い、そこに丸ごとの唐辛子が幾つも浮かんでいる。花椒もたっぷりキかせてあって、湯気が刺激性のガスみたいだ。
怯んだ様子の珠美に、佐藤は愉快そうに声をあげて笑った。
「信じられない」
その10数分後、珠美は呆れてつぶやいた。
というのは、担担麺の辛さと痺れの度合いと、それを涼しい顔でぺろりと平らげてしまった佐藤、両方に対して。
しかも、珠美の注文したものよりも10倍くらい辛いという触れ込みなのに、
「もう二段階くらい辛くてもよかったかなー」
と、物足りなげな様子が心底驚きである。
「…舌バカなんじゃないの」
「褒められたと思っておくよ」
珠美の憎まれ口に、佐藤は笑って返した。
佐藤はこの店の常連らしく、通りすがりの店員に「相変わらずの変態舌ですね」とか言われていた。
店員は珠美に軽く会釈して、
「お客さん、危険だからこの人の真似しちゃダメですよ」
などといい、佐藤は大げさに顔をしかめて言い返す。
「出してる店が何を言う」
軽口を言い合うさまに、珠美は小さく笑った。
真っ赤などんぶりの半分くらいを進撃したところで、珠美は、ふーっ、と大きく息をついた。
「うー。辛い」
「大丈夫? 無理すんなよ」
「ううん。辛いけど、おいしい」
でも辛い。ふふふふ、と笑いだした。
あんまり辛くて笑えてくる。
額にも鼻の頭にもびっしり汗をかき、メイクはすっかり落ちてしまった。鼻水も止まらない。
「うー。辛い」
辛い。辛い辛い。
辛い辛いと繰り返しながらも果敢にどんぶりに向かう。
ヤバい。涙出てきた。はー、辛い。
抱えた箱ティッシュから数枚引き抜いて鼻をかむ。涙がぼろぼろこぼれる。それでも食べる。なんだかムキになって食べた。
泣きながら食べ続けた。
彼は何ともいえない表情で見守っていた。
やがて、珠美のどんぶりは唐辛子を残してすっかり空になった。
鼻の頭を赤くして、やりきった感満載にどんぶりを押しやる。佐藤は、すごいすごい、と拍手して称えた。
「スープまで全部食いきるなんてすごいな。がんばったね」
「辛かったー。でも、クセになりそうだねこれ。おいしかった」
ていうか、担担麺食べただけでナゾの達成感。なんだろこれ。はははは。
おかしそうに笑う彼女につられて、彼も笑った。
「達成感か。なんかわかるな」
俺さ、辛いもん好きなんだよ。タイ料理とかインドカレーとかも詳しいよ。気に入ったんなら、またどっか行こうよ。
いつも通り、へらりと笑って言う。
あまりにさりげないものだから、珠美はあっさり「うん」と答えそうになり、それから困ったように目をそらした。
「…ありがとう。ごめんね、気を遣わせて」
「んー。まあ、確かに気は遣ってるけど、俺がやりたくてやってるだけだから気にすんなよ。そんなに申し訳なさそうにされてもな」
それに、誘ってるのは社交辞令じゃない。自分が好きなものを気に入ってくれる人がいたら嬉しいもんだろ。それだけだよ。
「…そっか。ありがと」
佐藤がまったく気負わない様子で言うものだから、珠美も素直に礼を言う。
それから、何か言おうとして口ごもり、しばらく黙って。躊躇しながら
「何も聞かないんだね」
か細い声で聞いた。
「……話したいなら聞くけどさ。でも、あんま詮索されたくないんじゃないかな、と思って。
俺ね、本当はこういうの得意じゃないんだよ。いつもふざけてばっかりだし、深刻な向きじゃないんだ。もっとちゃんと相談にのったりできればいいんだけどね」
ううん。と珠美はかぶりをふった。
「すごく助けてもらった。ありがとう」
「うわ。勘弁」
と、佐藤はいたたまれないように手で顔を覆った。
「もう、前園さんさあ、俺そんなにイイヒトじゃないからね? なんか下心あんのかなー、くらいに警戒しときなよ。参ったなあ」
呆れたようにくつくつ笑いながら、顔を覆った手の陰から台詞を漏らす。
下心? と、きょとんとした様子の珠美に、なおも苦笑した。
しばらく、参った、と呟きながら笑い続けたが、やがて笑いを収め、それから、驚くほど低い静かな声で発した。
「…知らなかったな」
あなたは、あんなふうに。
佐藤は片手で目元を覆った姿勢のまま、半ば独白のように言う。
「あんなふうに?」
珠美は、佐藤の表情がわからなくて困惑気味に反問した。
前園さんは仕事のとき、いつもきちんとしてるだろ。冷静でクールで、感情を露わにしたりしない。雑談とかもあまりノってこないし、常に業務優先。ていうか、仕事なんだからそりゃ当たり前なんだけど。
仕事以外の要素をまったく感じさせない、っていうか。プライベートな部分をきっぱり締め出してる。
「かっこいいけど、ちょっと冷たいかな、って思ってた。俺なんかいつもへらへらしてるから、余計に近寄りがたくって」
カンペキだったんだ。俺んなかのイメージでは、前園さんは完全無欠なパーフェクト。
それが、あの自販機スペースで泣いてるとこ、見ちゃってさ。あ、ごめんね。偶然、本当に偶々なんだよ。悪い、と思ってすぐその場を離れようと思ったんだけど。
そこで、佐藤は視線をあげて珠美を見た。
「目が離せなくて」
知らなかった。あなたは、あんなふうに泣くんだ。
そして、驚いた。何かしんどい事情があるらしい。おくびにも出さないから、まるで気づかなかった。
いや、何があったかは知らないよ? 無理に聞き出すつもりもないし。
前園さんは、今日だっていつも通りに、クールに落ち着いて仕事してた。俺んとこの上司のフォローしてくれただろ。やっぱ前園さんかっけー、頼れるー。とか、ふざけてたもん、俺。
どんなにつらいことがあっても、前園さんは絶対表に出さない。見せない。
それはきっと、あなたの矜持なんだ。
「そう思ったら、なんだか堪らなくなってさ。放っておけなかった」
だからって、気の利いたこと言えるわけでもないし。どうしていいかわかんなくって。
「で、担担麺。芸がないよな」
大げさに肩をすくめて、茶化すように笑った。
今度は珠美が顔を覆ってうつむく場面だった。今さらだけれど、気まずさMAX。あまりにもいたたまれなくて逃げ出したいくらいだった。
そんな様子を見て取って、佐藤は申し訳なさそうな顔をする。
ごめん。見られたくなかったよね。あんなに必死で頑張って、気を張ってたのに。そういう前園さんは、すごくかっこいいと思う。粋っていうか、美意識、美学っていうか。志の高さにマジしびれる。
「でもさ、たまには力抜いていいんじゃないかな」
その類の言葉は聞き飽きるほど言われた。
無理すんなよ。素直になれよ。隙がなさすぎる。口調と言い回しを変えて、何度も何度も、いろんな人に。
いつもだったら、余計なお世話だ、と、一蹴する類の言葉が、不思議と素直にそのまま受け容れられた。
小さく頷いてからそっと目線をあげて、彼を窺うと、
「…って、いつも気ィ抜きっぱなしの俺に言われてもね」
茶化さずにおれないらしく、真面目な雰囲気をごまかすように軽々しい台詞を吐いた。
「とりあえず、またどっか行こうよ。タイ料理でもメキシコ料理でも、韓国でもインドでも四川でもいいよ」
「…とりあえず、って。何が“とりあえず”なんだかよくわかんないけど。うん。ありがと」
それにしても、本当に辛いもの好きなんだね。
珠美が呆れて笑うと、佐藤はあからさまにほっとして、それから嬉しそうに頷いた。激辛唐辛子にテンションをアゲられたのか、いつもの調子を取り戻したようだ。
「女のコも辛口のほうが好きだよ」
「何それ。女の趣味とか別に聞いてないし」
「うわ。前園さんって、実は結構な辛口」
「失礼な。こんなにスウィートなのに」
「…前園さん、俺を煽ってるとしか思えないんだけど」
「知らんがな」
「やべえ、そこで関西系いれてくるとか好みすぎる。ね、珠美さん、って呼んでもいい?」
「いやです」
後日、佐藤が「珠美さん」呼びの許可を得るために、その店で最高難度の30倍相当に辛い担担麺を制覇しなければならなかったけれど、彼にとっては甘いものだったらしい(知らんがな)。
「HER」(著/ヤマシタトモコ・祥伝社)読んでて、後書きで、泥まみれのぼろぼろになっても泣きながら立ち上がってがんばってる女の子が大好き!的なことを熱く語られてて、わかるわかりまくる超同意!!!ってなりましたんです。
で、自分でもそういう女の子を励ましたいぜ。と思ってこんなんなりました。