-034- 心の委託先
耗部八太郎は走っていた。
空は夜に染まり、月と街路灯だけが街を照らしていた。
動悸が激しい。肺が潰れそうだ。
足が痛い、手が痛い、顔も、頭も、胸も、痛い。痛い。
「……俺は……」
八太郎は考える。
何一つ前置きもなく、前触れもなく、ごく自然に、さも当然のように、耗部八太郎はこの舞台に上げらた。
それを必然と呼ぶなら――五木六華との出会いはなんだったのだろうか? と。
運命か、それとも単なる偶然か。
偶然か、はたまた奇跡的な運命か。
つまるところ――それは終わりでしか無かった。
終わりが始まった。
止まっていた心が動きだした。
始まりが終わった。
終わりに向かって心が動きだした。
――結局。終わってみれば自分なんてものはこんなものだ。
誰の目に触れることもなく、賞賛されるでもなく、脚光を浴びるわけでもなく、必要とされるでもなく、哀れみをかけられるわけでもなく、儚くなく淀みなく、単に――ただ単に消えていくだけ。
八太郎は寂しかった。
孤独が、怖かった。
誰からも必要とされていない自分の価値とはなんなのだろう?
現実から目を反らすために、必要とされたいがために、自分は少女を助けたかったのか?
違う。
失いたくないという気持ちは紛れもなく本物で、ただ単純に、純粋に守りたかった。
罪滅ぼしか?
それでもいい。
偽善者め。
なんとでも呼べ。
失った妹たちをダブらせ、“意味”を勝手に五木六華に委託しているだけじゃないのか?
「…………っ」
自問自答を繰り返す。
俺は、俺は、
俺は……。
「……なにが、したかったのかな……」
なんにせよ、どちらにせよ。どうであろうと、どう足掻こうとも。
辿り着くのは終着点。
そこに、着いた。着いてしまった。
耳が痛くなるほどの静寂。
息が止まった。
そんな気がした。
「六華っ!」
「ああ……やっぱり……きてくれた……」
五木六華は空を仰ぐように倒れていた。
その右半身は右手首を中心に弧を描くように消滅していて、刳り抜かれた断面は火傷のようにぷっくりと腫れあがっていた。血は、そこまで出てはいない。
「……りつ……か……」
言葉が詰まった。
焼いた魚の眼みたく白濁に染まった少女の右目。辛うじて開いている片方も、どこか頼りなく虚ろとしている。ところどころに見られる裂傷、服は血で汚れていて、十四歳の少女が泣き叫ばずに耐えれるような傷には、とても、とても見えなかった。
そんな状態になっても、少女は、六華は、やはり涙を流してはいない。
代わりに八太郎が泣きそうになる。
「……ごめんな、俺、絶対守るって言ったのに……」
「えへへ……しゃーなし……ゆるして、あげます……。わたしも……ごめんなさい……」
六華の声はもうきれきれだった。
「耗部、さん……」
「なんだ?」
「……わたし、こわいです……死んじゃうって……どんな……かんじなんでしょうか……」
焦点が合っていない眼が八太郎を見上げていた。
ぽたり――と。
少女の頬に涙が落ちた。
八太郎のものだ。
ふと、六華と初めて出会った二十一世紀博物館の前、その芝生の上でピクニックのような穏やかな時間を過ごしたことが思い起こされた。
愛おしくてたまらない。
胸を掻き毟りたくなるような衝動。
他に何もいらなかったのに。
唯一守りたかった人を、守れなかった。守れなかったのだ。
共鳴するように六華の瞳からも溢れ、零れた。
それは少女がこの舞台に上がって、初めて流したものだった。
涙は彼が落としたモノと重なり、幼い肌を伝って、冷たいアスファルトに落ちた。
「……あーよくない。……ぜんっぜんよくないな、人生って」
「そんなこと……ありませんよ……」
「……え?」
「だって、耗部さんに逢えましたから……」
鼻の奥がつんとする。
歯を噛み砕くほど力を込めて、笑顔を作り、微笑む。
そうでもしなければ、抑えきれなかった。
八太郎は六華を抱きしめた。
「……服……よごれちゃいます……よ……?」
「ばかやろう、そんなこと気にすんなよ」
「…………」
「……悪い、ばかやろうは……俺だ……」
「……ねえ……耗部さん……」
「……なんだ?」
「ありがとう……」
……それは。
それだけは、こっちの台詞だ。
そう答えるように、八太郎は腕に力を入れる。
次第に冷たくなっていく六華をあたためるように、強く。強く。
「……あのチョコ……おいしかった……な…………」
しばらくして。
闇の中、彼らは光に包まれた。
少女の頭に埋め込まれたインプラントがペナルティにより自爆し、六華のデバイスだけを残して二人は分解された。
風に乗った粒子は空高く舞い上がり、月明かりに照らされながら――やがて、消えた。
石川県チーム。
“騎士”耗部八太郎、“魔術師”五木六華――死亡。