-002- 守り通せ! 己の主義!
政府の手回しの早さには舌を巻くものがある。
翔兵はそれを痛感していた。
国営テレビで自身が全バトの選手に当選したことを知った翌日。翔兵の住むアパートに早朝から軍服を着た兵士二人と、パンツスーツ姿の女性が訪れた。
おめでとうございます、の言葉から始まったそれは、翔兵の耳を素通りすること請け合いであったが――しかし、聞き流したところでそれを逃れることはできない。
翔兵は黒い車に乗せられた。
それはもちろん、表向きは本人の意思で出場し、本人の意思で同行した――という呈でだ。
実際には強制であるということは、いうまでもない。
「……あの、俺はいまからどこに連れていかれるのでしょうか……?」
「んーと、ごめんね。規則で場所を教えることはできないの。あっ、なにか飲む? ジュースがいいよね? 口に合うのがあればいいけど……」
車内。
そこは意外にも広々としていて、頼めばどこからかワインでも出てきそうな、そんな雰囲気だった。
対面にはスーツ姿の女、その両隣りには軍人らしき武装した男が二人。
窓にはスモークが貼られ、外の様子は見えない。
車はすでに動き出していた。
俺はどこに連れていかれるのだろうか……。
行先は知っている。全バトの舞台だろう。
有体に言って――翔兵は参加などしたくない。出来ることなら今すぐにでも、それこそ暴れてでも車を降り、逃亡を謀りたいものだったが……どうやらそれはできなさそうだ。
なぜなら女性の両脇に座る軍人――その手には銃が握られていたのだから。
銃。
翔兵にとって、それはテレビや雑誌の写真などでしか見たことのないもので。
その存在はもちろん知っていたが、実際に目の前に暴力の権化ともいえる、その無機質な金属を見せ付けられては、翔兵も委縮するほかない。
その威圧感といったら。
翔兵程度を黙らせるには十分過ぎるものだった。
「はい、翔兵くん。どうぞ」
と、女は翔兵にグラスを差し出す。
透明なグラスには黒い液体が注がれていた。
しゅわしゅわと気泡が浮いている様は炭酸飲料のそれだった。
コーラ……だろうか。
ペプシしか飲まない主義だけど、と翔兵は、
「あの……これって……」
訊いてみた。
「コーラだけど?」
案の定。コーラであった。
コーラでは、あった。
「ですか……あのこれ、ペプシ……ですか?」
突拍子のない質問に女はきょとんとした表情だ。
たしかに、間の抜けた質問ではある。
しかし翔兵にとって問題はそこであり――“本当にただのコーラであるのか”それ以外はない。
「え? ……えっと、ごめんね。私そういうのよく分らなくて。翔兵くんはペプシじゃないと口に合わないってことかしら?」
「いえ、いや……まあ、なんといいますか……主義で」
「主義……? あはは。きみって面白い子だね。……ちょっと、これってペプシなの?」
女は隣に座る軍服の男に訊いた。
しかし男は「分かりかねます」と言って、翔兵をにらむのだった。
まるで駄々捏ねてんじゃねーぞクソガキ、とでも言いたげな風である。
「んー困ったわね。じゃあ、これは私が貰おうかな。翔兵くん、ほかにはオレンジジュースか……あとは水しかないけど……飲む?」
その言葉に翔兵は安心した。
というのも、見知らぬ怪しい人に飲み物を出されたこと――それに警戒を覚えないほど翔兵も馬鹿ではない。……妹のゆゆならば迷わず飲んだであろうが。
ペプシしか飲まない主義。
確かに掲げてはいるけれど、そこまで重視もしていない。むしろここで問題だったのは、それに毒が盛られている可能性であった。
その心構えは立派なものだが、この戸津甲翔兵。
さんざん妹の素直さ無邪気さを小馬鹿にしてはいるが、やはり兄妹である。そう簡単に人を信じてはいけないことは、これから嫌というほど学ばなければならないだろう。
言っても、これから参加する全国対抗バトル・ロワイアルでそれは嫌というほど経験することになるわけだが――ともかく。
まだこのときの翔兵はそういった経験が浅く、人間の悪意に対して鈍感であり、
「あ、すいません。やっぱりコーラでいいです。それ、いだたきます」
と、それを受け取ってしまうのだった。
恐る恐る口をつけ、ごくりと一口。
コーラだった。
しかもこの味はペプシである。
運良く自分の主義を守り通せた翔兵であったが、次の瞬間、戦慄を覚えた。
スーツ姿の女性の口元が、釣りあがった。
三日月のように。にぃっと。
直感で翔兵は今飲んだ液体に何か盛られたことを悟った。
「――! なにを飲ま、せ……っ!?」
即効だった。
視界が一転してぐにゃぐにゃと回り出す。
翔兵はシートに背中を預け、うなだれるように顔を落とした。
「……安心して、毒じゃないから。ただの睡眠薬――だから。ふふふ、単純な子でおねえさん助かっちゃう。ねえ? 翔兵くん」
そう言ってスーツ姿の女性は正体をなくした翔兵の右手を取る。
軍服の男は重々しいケースを取り出すと、それを開けた。
中に入っていたのは腕輪。
そして注射器。
「ついたら、起こしてあげるからね。ぐっすりおやすみなさい、坊や」
混濁する視界。
耳の裏に激痛が走ったような気がした。
しかし、あらがうことも悶えることもできない。
自分がなにをされているのか――それすらも理解できないまま、翔兵の意識はまどろみの中へと消えた。