-020- ラッキースケベとかなんていうかホントウザいからとりあえず死ねばいいと思う!
冷たく無機質な感覚。
数センチほどの水溜まりの中、翔兵の意識は覚醒する。
……俺はまだ……生きている……のか……?
ひどい悪夢を見ていた気がする。
倦怠感。動こうにも身体がだるい。
霞む目に映るのは薄く張った水、鉄の床、薄暗い空間。そこは間違いようもなく、あの炎の雨から逃げ込んだ、貯水タンクの中だった。
悪夢は続いていた。
残念なことに。
「…………」
ふと、天上から差し込む薄い光に気がついた。オレンジではなく、白い光。
夜が明けたのだろうか?
あの地獄のような夜が?
起き上がろうと、重い身体に力を入れる。
ポニュ。
右手にやわらかい感触を感じた。
実際にはそんな音は聞こえないのだけれど、あえて表すならそんな擬音になる。
「なんだ? このやわっこいの」
モニュ。モニョ。
「……ああ、なんだ。雫の胸か……」
そういえば――意識を失う前、雫に落ちようとする炎の雨を払いのけたのだった。多分、そのとき倒れ込んで、偶然そうなったのだろう。
翔兵は雫に覆いかぶさるように、身体を預けていた。その右手は彼女の胸を、一切の遠慮なくわしずかみにしていて、とても幸せそうに見えた。
「……胸?」
つまり、おっ……
「――お胸ええええええぇぇぇぇぇぇっ!?」
未知との接触を果たし、驚き飛び退く翔兵。
どうやらパンツに対しての免疫はあるようだが、そういう直接的なアレの免疫はないらしい。
さわってしまった。
ていうか、揉んでしまった。雫のお胸。
生まれて初めての感触、自分の身体で一番やわらかい部分がお尻だとすれば、その数十倍はやわらかかった。
「ち、違う! わざとじゃないんだ! わざとだったら直接いかないし! 手の甲でさり気無くいくし! 気がついたらこうなってて――って、……あれ?」
見降ろす雫はどうやらまだ眠っているようで、小さい寝息をたてて、うつむいている。
ほっと、安堵のため息をつく。しかし胸はまだバクバクと激しく脈打っていた。
あれからずっとこうしていたのだろうか?
その……雫のあれに……手を当てて……。
手に残る感覚を思い出すように、開いて閉じてと思い返してみる。
雫の濡れた長い髪。細い首。やわらかそうな四肢。はだけたバスローブの奥には布一枚のみ。べったりと濡れたワンピースが肌に張り付き、スタイルのいい雫の身体のラインをくっきりと浮かび上がらせていた。
それは艶めかしくも、官能的で。
思わず、ごくり、と生唾を呑む。
「……あのー……雫……さん……?」
返事はない。
「……………………」
触りたい、と、素直に思った。
突っつくだけなら……駄目かなあ?
いやでも、不慮の事故でもうすでに揉んでいるわけだし……ああ、くそ。しまったな。
こんなことなら驚いて離れるんじゃなかった。
本当にしまったな!
……っていうか、あれ? これ、雫はまだ気を失っているわけだし、さっきの状況のまま眠っている体でなんとかなるんじゃないか?
……あれ? これ……いけるな?
などとつらつら考えつつ、
「……ふぅ」
なにかに思い至った翔兵は大きく息を吐いた。
「……よしっ」
なにがよしなのだろうか。
そんなことより思案すべきことがあると思うのだけれど――しかし残念なことに、エロ一色に染まった翔兵の頭には他のことを気にする余裕はない。それはもう、お腹を空かせた駄犬が餌に貪りつくように脳が労働していなかった。
目の前にある未知への扉、それに釘付けだ。
「……ん」
と、雫の口から息が漏れた。
翔兵の大声に目覚めたのだろう。
「うわっ! し、雫っ!? いやあ、良かった! 死んじゃってたらどうしようかと――」
口から出まかせ。
そんなこと全く思ってなかったくせに。胸のことで頭いっぱいだったくせに。
流石、変態と犯罪者のレッテルを貼られているだけはある。
我らが戸津甲翔平はやはり格が違った。
「……翔兵……くん……?」
か細い声で、雫は彼の名を呼んだ。
「わたし……どうなったの……?」
「あれからみんな気を失って……、そっからは俺もあんまり覚えてないんだけど――」
説明をしながら、ふと、記憶をなぞってみる。
つい数時間前のことだけれど、ずっと昔のような、夢の出来事のような気さえした。
みんな気を失って、翔兵は絶望し、炎の雨が雫に落ちようとして――それから――
「……ん? そういえば、みんなは?」
そこで翔兵はハッとする。
首を振って周りを見てみると、貯水タンクの中には翔兵と雫しかいなかった。
「あれ? ――ってことは」
胸の奥から熱いものが込み上げてくる。
ここにいないってことは、動いたということで、動いたということは――それはつまり。
「おっちゃんも、憂沙戯も生きてる……!」
嬉々として。
翔兵は自分で気付いていないだろうけれど、その顔はこれまでに彼が見せたどんな表情より明るく輝いていた。
「雫、いこう!」
「えっ、ちょ、待って……」
みんな無事だった。
踊り出したくなるような高揚感が重かった身体を信じられないくらい軽くする。
昨日の翔兵ならば、たった一日前に出会った人間の生存にここまで喜ぶことは出来なかっただろう。
しかし、彼らは共有した。
悪夢のような夜を、先の見えないトンネルを一緒にくぐり抜けたのだ。
雫の手を取り、タンクの外へと駆け出す。
「いよう、翔兵くん。お熱い夜やったなあ」
茶化すような聞き覚えのある声に、思わず翔兵の頬はほころぶ。
薫だ。
「おっちゃん! それに憂沙戯も!」
「……ううむ。ストックホルム症候群につり橋効果まで付け加えてきましたか……。翔兵さん、恐ろしい子……」
よくわからないことを言っているけれど、どうやら憂沙戯も無事のようだ。
「手ぇなんか繋いでもて、いやー若いっていいなあ。青春やなあ!」
「ッ!」
その言葉に思わず繋いでいた手を振りほどく。
「――違っ! これは翔兵くんが勝手に引っ張ったからで――」
ニタニタとする薫。
こんなうっとおしさも、久しく感じる。腹が立つことには変わりはないけれど。
「……あれ? ちょっと待って。それじゃおっちゃんら、もしかして……その……あれ、見てたのか……?」
見られていた? あれを?
あの雫の胸をわしずかみにして、重なるように倒れていたシチュエーションを?
……いや、それ冗談じゃ済まないんだけど。
「んーなんのことやろうか、わっからんなあー。わしはなんも見てんし、なーんも知らんけどなあー。なあ、憂沙戯ちゃん?」
「……不潔」
ジャックポット。大当たりだった。
憂沙戯の一言がぐさっと胸に突き刺さる。
「違う、待ってくれ。あれは事故なんだ、なにもやろうと思ってやったわけじゃなくて――」
具体的なことを言ってしまうと、雫に勘付かれそうだから言えなかった。
「――不慮の事故というか、故意でやったわけじゃない。本当に、マジで!」
苦し過ぎる。
「いやいや、誰も本気になんかしとらんて。しかし、なんていうか、羨ましいなあ翔兵くんは! どやった? 感触は? ええやんか、教えてや。わしと翔兵くんの仲やんけ」
薫は鼻の下を伸ばして、ぶん殴りたくなるような顔で言った。
本気でパンチを飛ばしてもいいような気がした。
「…………」
憂沙戯は憂沙戯で、口を閉ざし、ジトっとした目でねめつけている。まるで『なんで生きてるんだろう? 汚いなあ』とでも言いたげな視線だ。
たまらなく痛いから本当にやめてほしい。
「まあまあ、みんな無事ってことで。翔兵くんの男らしさも見れたことやし、結果良けりゃなんとやら、やな!」
「……翔兵さん。ああいったことをするな、とは、言いませんけど。あの、今度からは時と場所を弁えてください、ね?」
なんだろう、これ。死にたい。
事情を知らない雫の頭には、終始クエスチョンマークがついていた。
これを貞操観念の強い彼女に知られてしまえば、それは大変なことになるのは想像するに難くない。ちなみにそれには、雫の指が、という意味も含まれている。
「とにかく。みんな無事だったということで。そろそろ、ここから降りましょうか」
仕切り直すように憂沙戯。
昨日の一件で、この富山県チームのリーダーは名実ともに彼女にこそ相応しいもの、となっている。言葉を交わさずとも全員の意思が一致し、自然とそうなっていた。
それは“皇帝”というデバイスの力だけではない。
憂沙戯がいなければ、翔兵だけじゃない、雫も薫もこうして再び陽の元に出られることはなかったのだ。
“皇帝”の言葉に、一同、頷く。
「しっかしまあ、あばさけた機能のデバイスもあったもんやなあ……」
薫の背景には、見るも無残な地獄の焦土と化した富山の町並みが広がっていた。これをたった一つのデバイスが作りだしたのだから、笑えないどころの話ではない。
笑えないし――現実味も感じられない。
と、これまでの彼ならば、そう思ったであろう。
しかし、少年はその暴力を奮われ、追い詰められ、自分の無力さを突きつけられ――そして絶望の中、嘆いた。
だからこそ、強くならなければいけない、と思う。
勝てなくてもいい。
闇雲でも、もがくことをやめない。今度こそ、と。
「……なあ、みんなちょっと訊いてほしい」
「?」
「俺は無力だ」
皆に視線を配り、翔兵は言う。
「……でも、それでも俺は立ち向かう。これは憂沙戯に教えて貰ったことだけど――どんなに惨めでも、哀れでも――諦めたやつほど、かっこ悪いもんなんてもんはないし、情けないことはない」
それは公園で自己紹介をした、あのときのように。
「いまも俺の気持ちは変わってない。俺は家族を残して死ぬつもりなんてないし、こんなとこで死んでやるつもりもない。このクソみて―なゲームから絶対に生きて帰る」
あのときの言葉は、軽くて、中身のない漠然としたものだった。
「この思いはみんなも一緒なはずだ。不安で、怖くて、なにも出来ないかもしれないけど――でも、俺はもう諦めない。もがき続けることだけはやめない。みじめでも、情けなくても、笑われて蔑まれても絶対に……!」
しかし、いまここにあるのは、そんな宙ぶらりんな思いではない。
死に片足を突っ込んで、やっと得られた意思。
確固とした、決意だ。
「俺は帰る。“みんなと一緒に”」
*
――そういえば、ひとつ。
言い忘れていたことがあった。
この物語は英雄譚などでは決してなく。
ヒーロー気取りの主人公が、敵をぶっ飛ばしてカタルシスを得られるような愉快痛快なものでなければ、小説や漫画のように、倒した敵と肩を組み和気あいあいと出来るような、そんな反吐が出るほど生ぬるいものでもない。
人間は驚くほど残忍だし、
生きることは思った以上に過酷だし、
現実は目を覆いたくなるほど残酷なのだから。
だから、これは――
もっと生々しく、
もっと殺伐と、
無慈悲に、そして淡々と、
悪意、殺意、恐怖、失望、絶望、裏切り、さまざまな負の感情渦巻く泥沼の中で、自身の“意味”を求め、もがき苦しむ者たちの物語であり――
そして、一人の少年の物語。
戸津甲翔兵の成長譚なのだ。
ようやく、少年は踏み出した。
この全バトという舞台に。
立ち向かうための初めての一歩を。




