-017- 結! 炎の涙!
「……このままじゃポークカレーだな」
翔兵は薫をちらりと見て、悪態をつく。
「なんや? 豚と加齢合わせてポークカレーってか? 全然上手ないわ!」
「いや、誰もそこまでは言ってないけど……」
自虐的過ぎる。
こんな状況でも、まるで用意していたかのように的確な返しをしてくるあたり、おっちゃんは流石だ。
「まあまあ、ビーフよりはヘルシーということで」
「……それなんのフォローにもなってなくね?」
「あはは……」
「……はあ……」
他愛もない会話。
それをせずにはいられないほど、重苦しい空気がそこにはあった。
外は雨が降っていた。
オレンジの――炎の雨だ。
空から落ちてきた灼熱の月。それを憂沙戯の皇帝デバイスで回避したまでは良かったのだが……しかし、そこから富山県チームには打つ手がなかった。
なに一つ、だ。
反撃をしようにも、敵だって馬鹿ではない。陸橋の上にずっと留まっているはずはなく、すでにその姿は消えていて――位置を探ろうにも、敵の位置はマップに表示されていない。
さらに悪いことは重なって、建物のすぐ隣をかすめたその塊は、例によって爆炎を撒き散らし、立ち昇る黒煙が視界の半分を奪った。これには恐らくは敵がいると思われる中立エリア――北陸自動車道側を含み、富山県チームは雫のデバイスでの攻撃すら封じられた形となっていた。
そして不幸のフルコース。
その頼んでもいないデザートにこれだ。
ほこりや煤を巻き込み、周囲に降り注いだ黒い雨の後。淡いオレンジに光るモノが空に無数に浮かび――そして、糸が切れたように降り注いだ。
ベチョ。
ボウッ、と。
粘着性を持った雨は、地面にこびりつき、炎上。
敵は炎の塊を小さく分散し、まるで雨のように落としてきたのだ。
地上ならまだしも、いくら憂沙戯のデバイスが強力とて、逃げ場の無い屋上ではこれに対抗するすべはなく――たまらず、翔兵らは水蒸気爆発で側面の一部が吹き飛び、鳥の巣箱のようになった貯水タンクの中に逃げ込んだのだった。
ウインドウの時計を見る。
時刻は午前二時を回っていた。
敵の攻撃で飛び起きたのが、たしか零時を少し過ぎたくらいだから……信じられないことに、それからまだ二時間も経っていないことになる。
何日もこうして逃げ惑っている気がするのに。
肉体的にも、精神的にも、もうぐったりなのに。
「……なんだろう……なんか……息苦しいよ……」
肩で息をする雫。
周囲の酸素が薄くなってきたのだろう。これだけ大規模な火災だ、一面火の海という状況でまだ息が出来ていること自体幸運ではあるが、
「……あかん、なんか……くらくらしてきたわ……」
しかし、それももうすぐなくなる。
一酸化炭素を大量に含み、酸素バランスの悪くなった空気はやがて酸欠、呼吸困難を引き起こす。
あまり頭の良くない翔兵にだってわかる。
このままじゃ、みんな死んでしまうのだ。
だが、それを打破することが出来ない。完全に袋小路に追いやられてしまっていた。
敵はなにを思って自分たちを攻撃するのだろうか?
死にたくないから――という理由はあるにしろ、同じ人間だ。攻撃すること、暴力を奮うこと、殺すことに躊躇いはないのだろうか? 自分勝手な考えかもしれないけれど、こんな窮地に追いやられてしまっては、それに怒りを覚えずにはいられない。
次に来たのは後悔だった。
なにか自分にも出来たんじゃないだろうか? こうなる前に動くべきだったんじゃないだろうか? なにをすればいいのかなんて、わからないけれど――でも、なにもせず追い詰められて、いま、自分はじわじわと殺されかけている現実。
納得のいく死を望むわけじゃない。
この世界が理不尽なのは、もう知っている。
ただ――出力された“意味”を押し付けられて、されるがまま、潰されるがまま、ただ震えている自分に心の底から嫌気がさした。
このゲームの中で翔兵がしたことといえば、それは知れている。
反抗するでもなく抵抗するでもなく、ただ周りに流されるまま、彼は今に至る。強いてあげるなら、亜蓮に説明を受けた際に、激動にかられ怒鳴ったくらいか。
絶対に生きて帰る。
そう皆の前で啖呵を切ったにもかかわらず、翔兵はその目的に伴う行動なんて、なに一つ行っていない。
口だけ――達者だ。
呆れを通り越して笑えた。
情けなさ過ぎて目と鼻に熱いものを感じた。
翔兵の潤んだ視界には憂沙戯がいる。
こんな状況になっても彼女だけは諦めず、黒煙の中、見えない敵の影をひたすらに探していた。生きるために、必死になって。
彼女の強さが眩しかった。
羨ましくも思う。
あんな風になれたらよかったのに、と。本当に。
「…………」
ダン……ダン……と天井を炎の雨が揺らす中。
まず、雫が喋らなくなった。
彼女はうながれるように顔を伏せ、いつの間にか動かなくなっていた。
昼間に洋服屋のショーウインドウから取ってきた白のワンピース、その上に羽織ったバスローブも所々煤けて、黒くなっている。
力なくうつむく彼女の頬は濡れていた。同じように酸欠で朦朧とする翔兵には、それが雨で濡れたものなのか、それとも別のものなのか――その判断はつかない。
次に薫だ。
例によって同じように、薫もまた動かない。
大きく荒い息づかいが止まって、両手をぐだんと垂れる様はどこか糸の切れた大きな人形のようで怖かった。
外を見渡していた憂沙戯もその意識を失ったようで――物干し竿にかけられた洗濯物のように、タンクの裂け目に身体をくの字に曲げ、引っかかっていた。
「…………」
やばいな、と思う。
どうやらまだ意識があるのは、翔兵ただ一人のようだ。
それでも危機感や喪失感より先に来るのはどうしようもない倦怠感で、身体を動かそうにも重くて上手く動かせない。指一本動かすのも億劫に感じる。
なにか、大きな音が聞こえた。
それからまた少しして、薄暗かったタンクの中に赤い光が差し込んだ。
上を見上げると、穴の空いた天井から雨が垂れようとしていた。忌々しいオレンジの雨だ。あの分厚い鉄の壁面を破ったらしい。
それは糸を引き、今にも落ちてこようとしている。
真下には雫がいる。
触れればどうなるか――そんなの考えるまでもない。大火傷で済めば儲けものだ。
それでも、これで最後になるかもしれないと思うとなにか形にしておきたかった。小さなことでもいいから、“自分の意思”で“意味”を作りたかった。
すでに死んでいるかもしれない雫を守るため、翔兵は言うことのきかない腕を持ち上げる。
そして手のひらで、滴るそれを受け止めた。
その瞬間――
パキン。
と、ガラス細工が砕け散ったような音が響いた。
翔兵の右手に触れた炎が、光の粒子となり空中に拡散する。
「……え?」
それはしばらく翔兵の煤まみれで素っ頓狂な顔を照らし、消えた。
「……なん……だ……? いま……の……」
もう、声を出すことすら難しくなっていた。
なんだっていいや。と、思う。
雫は無事だった。それだけでいい。
朦朧とする意識の中、最後の力を使い果たし、翔兵はうつ伏せに倒れた。
すでに雫も、薫も、憂沙戯も眠ったように動かない。タンクに薄く溜まった、ぬるくて黒い水に顔を半分埋めて、翔兵は静かに目を閉じる。
恨みもあるし、後悔だってある。
しかし残念なことに、酸素がなくなっては人間は活動できない。取り巻く環境が変われば人間なんてものは簡単に壊れ、維持できなくなる。
この全バトという舞台もそうだ。
そんな状況になって初めてわかったけれど――頭が回転しない状態に陥った思考というものは、それは投げやりだ。
どうせ、無駄だ。
もう、どうなったっていいや、という具合に。
考えることをせず、されるがまま、流れにその身を預ける。それの向う先が真っ暗な闇で、訪れるものが死だとしても――抗い、立ち向かうことができるのは強い人間だけで――残念なことに翔兵はそれに当てはまってはいない。
なにかを得られる者は、必死にそれに向かい手を差し伸ばした者だけだ。掴み取る努力もしない翔兵が生きるという未来を勝ち取るだなんて、おこがましいにもほどがある。
だから。
だから――仕方ない。
嫌だけど、それが当然で、自然の摂理なのだ。
弱者は淘汰され、強者の食い物になるしかない。諦めた弱者は努力を続けた強者を羨み、そして結果だけを見て嫉む。
世の中はそういう形に出来ているし、人間とはそういうカタチに作られている。
地の底のような場所、どす黒い水に浸りながら――翔兵の意識はもうすぐにでも切れようとしていた。
最後に、閉じた瞼の奥に、光を見た気がした。やがて溶けるように翔兵は意識を失う。
“それ"が起こったのはその直後だった。
広がる富山の街並み。
そのいたるところにこびりつき、オレンジ色に燃える“炎の涙”が白く、眩しく光輝き始めた。その光は次第に光度を増し――そして糸が切れたように再度、音を立てて一斉に砕け散る。街全体を覆っていた死神ともいえる炎は忽然と消え、残ったのは消し炭とその残骸だけとなった。
意識のなくなった翔兵の視界。
そこに広がるウインドウの端に浮かんでいたアイコンが一つ、誰の目にも触れることなく、ふっと消えた。
追記 8/17 誤字修正しました。