-009- はわ! はわわわわ!
どうしてこうなった。
公園から数分、商店街を歩きながら戸津甲翔兵は自問自答する。
それはこのゲームへ参加したことへのモノではなく、今から行かなくてはいけなくなってしまった未知の領域、それに向けられた言葉だ。
「どうしてこうなった……」
今度は口に出して言った。
足取りが次第に弱まる。
残念なことに、翔兵の脳内辞書には女性を慰める方法というものがない。妹をなだめる、ならば、それは豊富にあるけれど。
「そうだ。ゆゆだと思えばいいんだ、それなら上手くやれそうな気がする……」
翔兵はなぜか蒼井雫を迎えに行くハメになった。
思い違いでなければ、たしか憂沙戯が迎えにいくと言っていた気がするのだけれど……なぜ自分がその役目を果たそうとしているのか、その経緯はまったく思い出せない。
別にこれは描写が面倒だったり、ここに至るまでの展開が思いつかなかったから、という訳では決してなく。あまりの状況に思考が止まってしまった、的な解釈をして頂けると幸いだ。
事実、翔兵はそれほどテンパッていたし、必死だった。
繰り返す、必死だったのだ。
「マップを見る限りこの辺りなんだけど……あっ!」
見つけた。
雫は洋服店のウインドウの前、肩からカバンを下げ、物悲しげにそこに立っていた。
憂えたその姿はどこか艶っぽく見えた。
「……よう」
考えもなしに話しかけてしまった。
「なに?」
雫は振り向きもしない。
とりあえず、脳内辞書にあった無難な台詞をチョイスする。
「みんなしんぱいしてるぞ」
若干棒読みになってしまった。
多分、翔兵は役者とかにすこぶる向いていない。
雫はどこかいぶかしんだ様子で、冷やかな目で翔兵を見、
「……今日あったばかりの人に心配される覚えなんてない」
ぴしゃり、と打ち払われた。
口にはしないけど、可愛くねえなあ、と思う。
しかし予測範囲内の反応ではあった。逆に泣きつかれたりでもすれば、それこそどうすればいいのか分からないので、ポジティブに考えて良しとしておく。
ふと目を閉じ、翔兵は心の中で自分に言い聞かせる。
これは妹、こいつは妹、ゆゆだと思えばいい。
ゆゆをなだめて着いてこさせる、簡単なことだ。
世の中にこれほど簡単なこともあるまいて。なんだ、楽勝じゃないか。
……よし。
「ジュース買ってあげるから、一緒に戻ろうぜ? な?」
「……はあ?」
「だから、あの、ジュース……買ってあげるからさ。一緒に戻らないかなーって……」
「なにそれ、馬鹿にしてるの? もう、放っておいてよ。一人にさせて」
「…………」
ダメだった。
ゆゆならこれで一発なんだけどなぁ……。どうやら、妹ほど簡単にはいかないらしい。
こういったことは苦手だった。というのも、大日本帝国の教育制度は、完全に男女別の学舎でそのカリキュラムを終えるので、翔兵にとってみれば女性という生き物はイコールで妹、ゆゆに結びつく。
それは同じように雫にも言えることで。
お互いに、歳の近い異性が苦手なのだ。
「……つーかさ、お前なに見てんの? 服?」
「なんだっていいでしょ。君、ちょっとしつこいよ」
雫の正面。
店のガラス越しには、洋服を着たマネキンが並んでいた。
ビジネススーツ、フリルのついたタンクトップに空色のジーンズ、デニムのショートパンツにTシャツを着た簡単なものもあれば、ふんわりとしたイメージのワンピースに薄いカーディガンを着たものまである。
どれも夏を感じさせる、爽やかなものだった。
「へえ」
「……なによ、私が服見てちゃいけないわけ?」
雫は翔兵と同じ、紺色の制服姿だ。
大日本帝国にはこんな華やかな服というものが少ない。あるにはあるが、それは式典などに用いるものでーー普段着るようなものは厳粛といっていいほど地味だ。
低国民は個人の個性というものを強国に管理統制されているので、そういったものが流通することは、基本的にない。
その理由は視覚的に身分格差を植え付けるためだろう。
ともあれ。
翔兵は服には興味がないけれどーー言うまでもなく雫は女の子で。
だから自分を可愛く着飾りたい、綺麗に見せたい、センスを見てほしい、自分というアイデンティティを理解してほしい。
そういう感情は男性よりも女性のほうがずっと強い。
「そんなことは言ってないけど、あれだったら着てみればいいんじゃないかなーって。ほら、あれなんかお前に似合うと思うけど」
ワンピースの後ろにある、いかにもデキる女って感じのビジネススーツを着たマネキンを指差し言った。
こういうクールな服装が雫には似合いそうだ。
「……でも、これ人様のものだし。勝手にはよくないと思うの」
「いまさらそんなこと関係ないだろ。もう誰もいないんだし――このまま飾られるより誰かに着て貰ったほうが服だって喜ぶさ」
「だとしてもだよ。私には出来ない」
「んじゃ、こうしよう。俺が取ってくるから、それをやるよ。こういうのなんて言うんだっけ……えっと……」
「窃盗」
「いや、違うって」
いや……そこは違わないか。
誰も見ていまいが、それは盗みであり、犯罪だ。
もっとも――犯罪を犯したところで、それを裁く人間はいないのだけれど。
「……そうだ! 善意の第三者だ。お前は何にも知らないんだから、悪いのは俺で、お前は悪くない。それでいこう!」
「そう言ってる時点で善意の第三者じゃなくなっちゃってるけど……」
しぶってはいるが、どうやら嫌ではないらしい。
「んで、どれがいいんだ?」
雫はわりと素直にすっと指をさした。
それは白い柄の入った短めのワンピースに、モコモコしたベージュのカーディガンを着たマネキンだった。
「えっ、あれか? 雰囲気的にもっと大人びたものが好きそうなイメージだったけど……雫って意外と可愛い趣味してんのな」
整った顔立ちに、翔兵と同じくらいほども身長のある雫はスタイルもいい。
さらりとした長い黒髪は腰ほどまであって、紺色の制服が重なりおかげで黒一色。凛とした仕草や口調から、クールビューティだと言われれば翔兵だって違和感はない。
有体に言って、美少女だ。
だから、ああいう白を主張した服もすごく似合いそうだ――というか、雫は大抵の服を着こなしそうではあった。和服とか彼女の雰囲気的にもすごく似合うんじゃないだろうか。
スタイルが良いっていうのは、わりと卑怯だと思う。
「……いま、なんて言った?」
「え?」
「はぐらかさないで。いまなんて言ったの?」
いきなりの言及に戸惑う。
よく分らないけど……地雷、踏んじゃったパターン?
「……お、大人びたイメージ?」
「違う」
「……か、かわいい趣味してるな?」
「それの前」
えっと……なんて言ったっけ、俺……。
「……雫?」
翔兵がそう呼ぶと、雫はぼっと顔を赤らめた。
まんまるに見開いた目は右往左往と泳いでいる。
「えっ、なに? 俺なんかダメなことした!?」
「べ、べつに……そんな大したことじゃないけど……」
それだけあからさまに動揺されては、翔兵としても大したことじゃないでは済ませてはおけなかった。どうやら怒らせたわけではないようだけれど……雫がこうなってしまった理由が分からない。
「なあ、雫――」
「っ!」
今度はしゃがみ込んで後ろを向いてしまった。いったいなんだというのだろうか……?
背中越しに、なにやらぶつぶつと独り言が聞こえる。
「……は、は、初めてお父さん以外の男の人に名前で呼ばれた……『ちゃん』も、『さん』もなかった……。しかも、さ、三回も呼ばれてしまった。こ、これは大変なことだ、大変なことだぞ……」
「…………」
そこかよ! どれだけ純情なんだよ! と。
見降ろす雫に心の中で突っ込みを入れる翔兵。
彼女に対するイメージが崩壊した気がした。つんけんしながらも、可愛いところもあるじゃないか。
ふと、そのとき、
「あっ」
翔兵も大変なことに気がついた。
雫の制服のスカート。
それがしゃがんだ拍子にカバンに引っ掛かったのか、ぺろんとめくりあがり、その意味をなくしていた。
つまり下着が見えていた。
白だ。
しかも、デフォルメされた猫の可愛らしいイラストがプリントされている。
「…………」
どうしよう、と、思う。
当の雫はといえば、そのことには全く気が付いていない様子でブツブツを独り言をつぶやいている。そこに描かれた猫は純粋無垢な目で翔兵を見上げていた。
よく見ると三毛猫だ。
きっとメスなのだろう。
オスだったら、それは色々とマズイだろうし。
「…………」
本当にどうしよう、と思う。
なんだか色々と見てはいけないものを見てしまった気分だった。
しかし、たかが下着を見たくらいで欲情する翔兵ではない。
というのも、妹と二人暮らし、家事全般をやってのける翔兵は洗濯もそつなくこなす。もちろん、それは妹の服も下着も例外ではない。なので翔兵にとってそれは日常的に見慣れたものであり、見たところでどうというものでもなかった。
加えて、こうみえて翔兵は親切だったりする。
取って付けやがったな、とか思うかもしれないけれど――それは翔兵が物心ついたときからそういう性格であって、妹の面倒を懇切丁寧にみていることからもうかがえるように、彼は優しく律儀な少年なのだ。
このときの翔兵の思考回路はこうだ。
名前を呼ばれただけで赤面する女の子が、もしスカートがめくれてパンツが露わになってることを知れば、それは恥ずかしくて死んでしまうんじゃないだろうか?
つーかこの三毛猫可愛いな。
ああ、これは大変だ。はやく教えてあげなければ!
とまあ、こんな感じで。
「なあ、あのさあ」
「……た、大変なことになってしまったぞ。この場合、わ、私はどうすればいいのだろう、どうすることが正解なのだろう。同じように、しょ、しょ、しょうへいと呼び捨てなけれいけないのだろうか。……で、でも今日あったばかりの人を呼び捨てになんて、それも、お、男の人を……わわっ! 私いま翔兵って呼び捨てに! ちが、いまのはノーカン……」
雫の独り言が止まらない。
「あのー、聞いてます? 雫さん」
「ひゃうぅっ!?」
条件反射のように、ビクッと跳ねる雫。
なんか、面白い。
「よ、四回目だ、またしても呼び捨てにされてしまった……四回も汚されてしまった……やはり狼だった、野生の男の人は格が違った! これは覚悟を決めて、私も呼び捨てにするしか方法はないのだろうか……ああ、お母さん、先立つ不孝をお許しください……」
ひどい言われようだった。
翔兵としては、呼び捨てられようがそれは構わないけれど、汚した覚えなど全くない。そこだけは全力で否定しておく。
どうやら……この蒼井雫さんは、随分と高い貞操観念をお持ちらしい。彼女はこちらの言葉は全く耳に入っていない様子で、いまも延々と自問自答を繰り返している。
なぜか呼び捨てにされた自分の名前には過剰に反応するけども。
「……いや、いまちゃんと『さん』をつけて呼んだけど……。それより、パンツ見えてるよ」
さらっと言えた。
これならば下着に興味がないというアピールにもなるし、彼女も傷つかずに済むだろう。
我ながら紳士的だ。
勢いよく振り向いた雫の顔はさらに真っ赤になっていた。
耳まで赤くなる人を初めて見たかもしれない。
「……は、わ」
「はわ?」
「はわわわわわわ……」
よく分らないリアクションに、首を傾げる。
どうやら感謝されているのは間違いないようだけれど――そんな涙目になるほどのことをしたつもりもない。
だが、翔兵はそれを無下にするようなことはしない。
心優しい少年なのだ。
だからにっこりと笑って、同調を示すように、
「白って、汚れ目立つから大変だよな。すぐ黄ばむし」
最低である。
「へ、変態っ!」
その台詞は翔兵にとって、大変遺憾なものだったかもしれない。
けれど、それはもっともなものだった。
雫は拳を振り上げ、翔兵の肩めがけ突き出す。
ポキっと気持ちのいい音が聞こえた。
まったく痛くはなかった。
「痛いっ!」
音を鳴らしたのは雫の指だった。
雫は悶えつつ、手をさすっている。
「……お前はなにがしたいんだよ」
さっきとは温度が違い過ぎる雫に、少し戸惑う。
「うるさい変態! わ、私に話しかけるな!」
「へっ……変態……って……」
変態呼ばわりされた。今日会ったばかりの女の子に、それも二度もだ。
親切を踏みにじられた気分だった。同年代の女子にそんな風に言われたら、さすがに翔兵だって傷つく。傷の深さは単純に倍だ。
心に深い傷を負い、打ちひしがれる少年の図がここにあった。
そんな翔兵をよそに、雫はそっぽを向いてずかずかと商店街の奥へと足を進め始める。
「? おい、どこいくんだよ雫。……つか、パンツまだ見えてるぞ」
雫はビクッと震えて、ぴたりと足を止める。
スカートを払うようにパンパンと叩いて直す。
そして踵をかえし、ずかずかと翔兵に詰め寄る。
「……えっ、あの、あれ? 俺、なにかダメなことしちゃった、かな……?」
「……人の下着を……」
あまりの剣幕にさすがの翔兵もたじろいだ。
雫の目は堪えた涙でいっぱいだ。
「勝手に見るなーっ!」
握り込んだ拳を腕の稼働域いっぱいにまで引き溜め、放たれたのは二度目のグーパンチ。今度は左手だった。
ぺち。
ポキポキ。
例によって爽快な音が聞こえた。
商店街に悲痛に叫ぶ犬の鳴き声のようなものが響き渡った。




