少女の日記:シアワセヘノナミダ
「……な、何……言ってるの?」
「聞こえなかったんですか? 翔の中に入ってください。魔力の形態を取れば、今の翔の心になら近づけます。後は、適当に翔の心を安定させてください。主な役割は脳の記憶回路を守って欲しいんです。記憶にアクセスさせない。記憶がないのを不思議に思わせない。記憶が完全に消えてしまうのを阻止する。……翔には辛い記憶ですけど、やっぱりそれあっての翔だと思いますから、私の考えだけで消すなんてしたくないですし。」
「ゆ、優ちゃん……どうしちゃったの!? 順を追って説明して!! そもそもなんで桜が!!」
「そうだぞ、一体何があったんだ?」
優が計画を実行すべく翔の部屋を出ると、そこには三人が固まっていた。どうやら優の悲鳴を聞いて心配になったらしいが、本当に今入って良いものかと考え込んでいたらしい。……本当に馬鹿馬鹿しいと思う。そんな事だから翔がこんなになるまで気付いてあげられないのだ。一体どれだけの間傍にいて、一体どれだけの傷を見落としたのだろう。……こいつらも、両親やあの女と同罪だ。
「なんで? 最初に言いましたよ、翔の為です。時間がないので早くしてください。本当なら私がやりたい所ですが、私は翔の傍で、翔を守らないといけないんです。貴方達になんて任せておけない。」
「っ……しょ、翔坊君の為って……だからその意味が。」
「翔の記憶を一時的にでも封じておかないと、翔の心が死んでしまうんです。魔力化自体は私達真魔なら出来ます。私が無理な理由は言いました。桜さんの方が適正だと思ったのは単に血の繋がりがあるからです。魔力の質自体はいくらでも変えようがありますが、一発勝負ですし、なるべく元が近い方が良いです。翔が壊れたらどうするつもりですか? 今の翔は簡単に壊れてしまうんです!! ああもう焦れったい、あんた達が呑気に悩んでる間にも翔は苦しんでるのに!!!」
「お、落ち着け!! いつもの優ちゃんらしくないぞ!!」
「煩い、役に立たない奴が!! 話を長引かせるな!!!」
瞬間、進の体が動かなくなり、そのまま地面に倒れる。ドサッという音と共に、新羅と桜が反射的に進に駆け寄る。
「なっ、進君!!」
「進!! 大丈夫!?」
「っ……あ、ああ……なんだ、今のは……真魔の力ってやつか。」
桜と新羅が進を起こすと、進は何が起こったのか把握出来ないと言うように自分の体を見回した。優は、ただ進を一時的に『黙らせた』だけだ。方法も理屈も要らない、ただ起こしたいと思った事が起こる、そんな真魔の力で。
「ゆ、優ちゃん貴女なんてことを……!!」
「進君に手を出すなら……優ちゃんでも容赦はっ……!!」
進を攻撃した優に対して、桜と新羅も強烈な殺気を放った。しかし優は僅かも動じる事なく、表情を笑みの形に変えた。……その瞳は、全く笑っていなかったが。
「あははっ、容赦はしないって? どうするんです? 私の弱点は翔だけです、翔を殺しますか? そんな事をしたらこの世界ごと貴方達の大事な物を全部殺してあげますよ。蘇生させるならそれでも構いませんが、貴方達は、自分の想像から生まれた人格を持つ『何か』でも、そこの男だと信じて愛せますか?」
「………あ、貴方……本気で言ってるの?」
「だ、だめっ!! そんなの駄目っ!! 進は……進だけはっ……。」
「さ、桜、新羅……。」
二人に向けられた殺気を笑い飛ばしながら、優は進へと視線を移した。この二人の弱点はもうとっくに知れている。人を愛すると言う事が、どれほど人を弱くするのか優にはもう分かっていた。真魔と言う絶対的な存在でさえ、こうも弱くなってしまうのだから。
「……もう一度言います、早くしろ。」
そして、それと同時に知っている。人を愛すると言う事が、どれほど人を強くするのかを。恐怖も、善意も、倫理も、何もかもが些細な事に変わる。ただその人を愛する事だけに、自分の全てを捧げられる。周りの全てが、翔を救うための道具に変わる。例え他の何かを壊したとしても、翔の為ならばそれは仕方のない事だ。自分は、翔の事だけを考えていればいいと信じられる。
「優ちゃん……そんな事したら、桜は元に戻れなくなるかも知れないんだよ?」
「戻れるでしょう。真魔なんですから、魔力になっても意識を保てるように工夫してください。寧ろそうでなくては、翔の記憶のコントロールが出来ないでしょう。」
「そうじゃない!! いつまでもそんな事して、桜を道具にして……そんな状態で居たら桜がおかしくなっちゃうかも知れないじゃない!! もしそうなったら……桜までおかしくなっちゃったら……。」
「その時は、新羅さんが後を引き継いで下さい。貴方はスペアです。まあ、桜さん以外になるなら適正も何もないですし、出来る人なら誰でも良いんですけどね。」
「っ……!?」
「……優ちゃん……本気で、言っているのか?」
新羅は桜が壊れた場合のスペアだ、と。ハッキリそう言った優に対して、新羅は信じられないものを見る目で優を見ながら絶句した。進もまた、明らかに桜と新羅を道具としてしか見ていない優を見て、茫然とそう呟いただけだった。
「本気ですよ? だから……桜さん、分かってますよね?」
「……うん。その代わり、もし、私が失敗しても……。」
「駄目です、その場合は新羅さんにやって貰います。二人共失敗したらその時は……他の真魔の方への見せしめに進お爺さんには死んでもらいます。その方が、貴女達も本気になれるでしょう? 貴方達が本気で翔の事を助けてくれるって信用、ないんです、私。」
「そ、そんな……。」
「成功すれば良いんですよ、一発で。ただ、翔を中から壊したりしたら……絶対に許しませんよ。」
優の冷たい視線と言葉が、三人を一気に追い詰めて行く。逃れる事など出来はしない。そもそも優にしてみれば、一刻を争う今になってもウダウダと悩んでいる三人が腹立たしいくらいだった。いっそ、進の半身くらい戯れに吹き飛ばしたくなる程に。翔の受けた痛みは、その比ではないのだから。
「ふふっ、五秒後に進お爺さんは生きたままバラバラになりまーす。」
「ま、待ってっ、やる、やるからっ!! 全部優ちゃんの言う通りにするからっ!!」
優が笑顔のままそう告げた瞬間、桜は顔を真っ青にして叫んだ。絶対にやる、今の優には容赦などと言う言葉はない。本当に五秒待つかすらも怪しいと桜は感じていた。そして、やっと覚悟を決めたかと、呆れる様な表情で優は溜息をついた。翔は、今も苦しんでいるのだ。
「桜……。」
「だめ……それなら私が先に……。」
「私の方が確かに適任だし、大丈夫だよ。だから新羅、進の事お願いね。」
「さく……ら……。」
「仕方ないわね………お別れに五分だけあげる。それじゃあ、部屋の中で待ってるから。」
優は三人に背を向けると、そう一言冷たく言い放った。グダグダと悩まれるより、時間を決めてスパッと未練を断ち切って貰った方が結果的に早く済む。そう考えての事だった。……優の中には既に、三人の姿など有りはしなかった。
----
-----
------
「………ふふふっ、ふふふふふっ………。」
「終わった……のね。」
「……成功したのか? 桜は……どうなった。」
全ては一瞬の出来事だった。翔の前で桜の姿が消え去り、穏やかな寝息を立てる翔だけがその場に残った。部屋に残った血の痕は、三人が入ってくる前に優が全て消し去った。翔の翼をこんな奴らに見せるのは、我慢ならない事だったから。
「翔……ちょっとだけ御免なさい。」
優は翔に近づき、小さなナイフで翔の手の平に傷を作った。そして優はその傷に、治れと願う。……しかし、今度はその傷が塞がることはなかった。少しずつ血を流して行くだけだ。
「……完全じゃないけど、成功ね。ううん、逆にこの程度の方が日常生活に誤魔化しも効く……ふふふっ。」
「…………優ちゃん。」
「進君、大丈夫だよ。成功したってことは、桜が上手くやってるって事だもん……だから、大丈夫。」
「……そうだな。」
優の笑い声がその暗闇に漏れる。しんと静まり返った闇に、染み渡るように広がっていく。既に桜の事など、優の心の中には存在していなかった。桜はきっと、大丈夫だ。そう思い込み自身の心を押さえ込む二人とは対照的に、優は目の前で眠り続ける翔の事しか目に入っていない。
「翔……ふふっ、私が……ずっと守ってあげる……私だけが……。」
これからは、もう目を離したりはしない。過去の記憶は全て封印し、翔の心の中には幸せな記憶だけが刻まれていくのだ。もう二度と、自分を責めなくて済むように。もし、いつか全てを思い出したとしても、その時に絶望しない程に幸せな記憶だけで翔を埋めてあげればいい。元々、翔が自分を責める必要はない。悪いのは全て、両親とあの女なのだから。
「……私との思い出も、作り直しましょう。次はもっと、幸せな思い出を……。」
もしこのまま翔の記憶を戻さなければ、自分との事も忘れたままになるだろう。でも、それでもいい。自分が翔に言った事、してきた事、それが翔にとってどんなものだったのかは、翔にしか分からない。けれど、次はもっと、幸せな時間を翔にあげたい。もう二度と、悲しい顔をさせたくはない。だから……次は、次はもっと……。
「………あら……?」
ポタッ
翔の顔を覗き込んでいた優の目に、不思議な光景が見えた。翔の頬に、何処からか水の雫が落ちてきたのだ。そしてそれは、いくつもいくつも降り注いでいく。その正体に優が気付くのは、自分の頬を、手で触った時だった。
「あははっ………嬉し涙って、本当に出るのね。」
自分の目から流れる物の正体に気付いて、優は笑う。次から次へと溢れてくる涙に、優はそう結論を付けた。穏やかな寝息を立てる翔が愛おしくて、何故だか胸が苦しくて、いつまでも溢れる涙は枯れることなく滴り落ちた。
「………後は、最後の仕上げだけ。」
その呟きもまた、溶け込むように消えていった。