少女の日記:ステキナケイカク
叫び声は闇へと消え、暫くの時間を置いて、やっと優も少しずつ冷静になって来ていた。
叫び声を上げている内に気付いたのだ。こんなに煩くしては、翔が目を覚ましてしまう。
闇の中で、優は翔の頭を優しく撫でた。自分の胸に身を預け、穏やかな寝息を立てる翔の体を抱きしめながら。優しく、大切な宝物を扱うように。
「………わた……しが……なる、わ。」
ポツリと囁くように呟く。翔に聞こえていなくとも構わない。これは誓いなのだと優は心に言葉を刻み込む。
「母親も、姉も、妹も、恋人も、親友も、妻も、翔が欲しいもの全てに……。」
翔のものを奪ったから? 違う、私はそこに居たいのだ。翔の隣の居場所を全て、自分だけのものにしたい。その何よりも大切な居場所を他人に触れられるのが、我慢ならない。
「翔だけは、誰にも渡さない……他の物は何も要らない。」
翔だけは、全部私が独占する。全部私が守ってみせる。もう他の誰にも手出しはさせない。私が欲しかったのは、翔の傍の誰かでも、翔が持つ何かでもない。たった一人、翔だけが居ればいい。最初からそれだけで良かったのだと、気付く事が出来た。
「もっと、早く気付けば……。」
新羅達が訳知り顔で翔を可愛そうだと庇護している時、シュリやエルトリエルが翔を引っ張り回して自分の物の様に扱っている時、澄がたった一人で翔を独占し、二人だけの秘密を共有している時もそうだ。翔は私のものなのに、私だけのものなのに、と内心で思っていた。だからずっと苛々していた。自分の独占欲に気付かないふりをして、あんな女に翔を預けてしまった……あんな、翔を傷つけるだけの無価値な女に。
「くっ………。」
今更悔いても仕方ないのは分かっている。それにこうなってしまったのは、自分にも責任があると理解もしている。でもこれからはもう、二度とこんな事は起こさせない。翔には沢山謝ろう、そして沢山愛し合おう。辛い現実は、自分が翔を支えて行けばいい。翔を不幸にした両親や女なんて、翔が心を痛める必要のない取るに足らない連中だ。そんなクズにでも、翔は罪を感じてしまうだろうが……たっぷりと時間はある、ゆっくり、二人で乗り越えればいい。
「いっぱい酷い事言って……ごめんね、翔。」
そして翔を抱きしめる手を強めて腰に回して……ぬるりと、嫌な感触を味わった。
「……え?」
優は気になって、自分の手を見る。翔を包むのと同じ血にまみれた手だった。だがそれ自体はいい、先程の自傷行為で翔の体は血まみれになっている。抱きしめたら自分にも血がつくのは当たり前だし、優は翔の血に不快感は全く感じない。……だが、そうじゃない。
「……これ、何?」
背中の腰の辺りは別に血が溜まる場所じゃない、床に流れ落ちていく場所だ。その筈なのに、手についた血の量は完全に異常な量だった。嫌な予感がする、背筋を寒いものが通過していく。こんな感覚は優には初めてだった。
「嘘よ……嘘よねっ!?」
優は焦りながら翔の服を持ち上げ、目的の場所を見る。腰の辺り、先程刃物が突き刺さっていた場所を。
「そんな……馬鹿な……。」
血が、流れていた。動脈でも切断したのだろうか、かなりの量だ。本来ならばとっくに失血死しているだろう。……だが、問題はその箇所や血の量ではない。
「…………。」
治れと願う。その痛々しい傷跡に、癒えろと願う。そしてその願いは、いとも容易く叶えられた。一瞬で、まるでなかった事の様に傷は消えて、綺麗な素肌が戻ってくる。
「……治っ……た? なんで……なんで翔に傷が……なんで私の力が翔に効いて……。」
その現実を受け入れる事を、心が拒絶していた。
「おかしいわ……なんで効くのよ……。」
必死に分からないふりを続けながらも、優は全てを理解していた。翔は真魔だ。同じ力を持つ翔に、優の力は通用しない。そしてそれ以前に、真魔に傷など残らない。心が、生きるために必要な要素を常に完璧な状態になるよう保護するからだ。
………では、今のはなんだ?
「……翔は……もう……。」
目の前が真っ暗になった。全てを喪失した気分だった。やっと気付いたと言うのに、やっと優しくしてあげられると言うのに。体から際限なく力が抜けていく。翔を失ったら、自分は何を愛して生きればいいのか。いや、そんな自分は許せない。翔以外の物に心を奪われ、翔以外の人を愛する自分など、決して許せるはずがない。そんな自分が存在するのなら、この手で躊躇なく消し去ってやる。その可能性すら、今この手で……。
「……ゆ……う……。」
「……っ!? 翔!!」
自分自身の心を殺すか、世界そのものを消し去るか、はたまたその両方か。最早翔のいない世界に一瞬でも居たくないと優が決断しようとした時だった。
「……息がある。そもそも傷はあったけど、血自体の勢いはずっと変わらなかった……って事は、まだ……間に合う……。」
光明が差した様だった。そして同時に、翔の最後の言葉を思い出す。翔は気を失う寸前、確かに言っていた、『返す』と。つまり、翔はまだ死ぬつもりではなかった。しかし……。
「自分の心を殺し続けたまま生きるなんて……。」
出来るか、出来ないか以前の問題だ。翔にそんな事はさせたくない。それに自分が望む翔は、人形の翔じゃない。ありのままの翔でいいのだ。誰が認めなくなって自分が認める。それを否定した過去の自分なんて知ったことではない。翔を否定するのであれば、それが自分であっても敵でしかないのだから。……それに、そんな事を続けさせれば間違いなく心が耐えられない。翔が壊れてしまう。
「……冷静になれ……、さっきの出血で何ともないって事は、まだ翔の心は生きてる。でも、傷自体が塞がらなかったのは……もう、時間がないって事ね。」
考える。真魔の力で無理矢理心を取り戻させるのは不可能だ。まだ心が生きている以上、真魔の力は翔側の真魔の力に阻まれて表面的な部分にしか届かない。それに、きっとそんな方法で心を修復したら間違いなく元の翔とは違う誰かになってしまう。出来るか出来ないかではなく、そんなのは優が認められない。優は翔に『返して』など欲しくない。一方的ではなく、愛し合いたいのだから。……ならば、一体どんな方法がある。
「………あっ…。」
……思いついた。翔が幸せになる方法。翔が傷つかず、人に愛される充足を学べる方法。これなら大丈夫、翔の心が辛い事を忘れられるまで、守ってあげられる。上手くいけば生きる意味を与えてあげられる。そこまで行けば、安心して翔と生きられる。……それと同時に、自分を罰する事も出来る。翔はきっと、酷い事を言った自分を簡単に許してしまうと思うから。だから、翔の代わりに、翔を傷付ける者は私が処罰する。
「………繋ぎが、必要ね。」
方法は決まった。だが今は時間稼ぎをしなければならない。翔を少しでも苦しめておくなんて絶対に出来ない。例えどんな犠牲が出たとして、翔の笑顔に比べられるものなどありはしない。
「……ふふっ……ははははっ……。」
翔の心が壊れる前に、躊躇っている時間はない。きっと皆喜ぶだろう。翔の為になることなのだから。