少女の日記 始まりの日
「…………。」
コトッ
「チェック。」
コトッ
「………うーむ。投了だな。」
「ふぅっ……。」
昼前の一戦。あの夜から習慣化しつつある対局を終え、優は盤面を見渡す。今日は中々調子が良かった。対戦相手の進も、あれから大分勉強したらしく手強くなっていたが、それでも圧勝だった。
「優ちゃん凄いね……これ、私なんてもう相手にならないかも。」
「いいえ、皆さんと戦うのはとても勉強になりますし、感謝しています。………あの女、次会ったら絶対に……。」
「あ、あはは……エルトもうかうかしてたら本当に抜かれるかもね……。」
「…………。」
闘志を燃やす優の傍らで、一方の翔はぼーっとチェスの盤面を見て座っていた。優がチェスをしている間は、優の隣でチェスの盤面を後ろから見ているのが最近の翔の日常だ。優がチェスにのめり込みだしてから、翔も優と共に家に居る事が多くなった。
「翔、貴方もやってみる?」
「ん……いい、優の見てるから。」
「……そう? まあ、構わないけど。」
こうして誘っても、翔はいつも優の後ろで見ているだけだ。あの場所で本を読んで居る時と同じ、翔は何も言わず、じっと座っている。
「今日は、家にいるの?」
「そうね、今日はそうするかもね。」
「そっか。」
優の言葉に、翔はそう言って微笑んだ。……優は、最近気付いた事がある。それは外で二人で本を読んでいるよりも、こうして家に居る時の方が翔が嬉しそうだと言う事だ。家に居ると優はチェスの盤面を前に過去のスコア(棋譜)を読んだり、実際に対局していたりするだけで、翔はずっとそれを見ているだけと言う事になるのだが……。
「はぁっ。翔、貴方それで楽しいの?」
「………? 楽しいよ?」
「……そう……。」
分からない。優は少しはこの少年の事が分かって来たと思っていた。だが、まだまだ何を考えているのかが掴めない。対局の際、チラリと様子を見てみたりしているが、いつも変わらずに優の方を見ているだけ。楽しいと口では言われても……何が楽しいのか分からない。
「優は……。」
「え?」
「優は、楽しい?」
「…………。」
それは、優にとって余りにも予想外な問い掛けだった。先程と変わらない表情で微笑む翔が、一体どんな意図でそれを聞いたのか、考えても優には分からなかった。
しかしそれでも、分かることもある。それは、自分が変わってきているということ。こんな日常も、悪くないと考える様になっていること。……優は今の自分の気持ちを振り返り、素直にそれに答えることにした。翔もきっと嘘は言っていない、だから自分も変化している自分の気持ちを、この全ての原因とも言える少年に伝えておきたい。
「そうね、まあ、悪くはない……かしら。」
「……そっか。」
翔は、いつもの調子で優に応える。優は何だか変な気持ちになって、視線を翔から盤面へと戻していた。僅かに……ほんの僅かに、いつもと違う声色を含んでいた事も、優は気にとめなかった。
「優ちゃーん、翔坊くーん、御飯出来たよー?」
「……まあ、いいわ。さて、お昼にしましょう?」
「うん。」
後にして思えば、この頃が転機だったのだろう。
優に、優しさと、苦しみと、愛情と、絶望を教える事件への……。