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まじかるタイム  作者: 匿名
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少女の日記 少年の檻

「……何よ此処、焼け跡……?」


 進の居場所を頼りに飛んだ先は、ほぼ全焼した一軒家だった。既にそうなってから随分時間が経っている様で、雑草なども生え放題になっている。そのくせ焼け跡はそのまま残っているのだから、周りの民家からすれば迷惑なオブジェだろう。最も、このオブジェが見える人間は真魔関係の者くらいだろうが。


「ごめんね、ちょっとスス臭いかも。」


「それは構わないけど、何なのよ此処。持ち主は何考えてるのかしら、さっさと片付ければいいのに。」


「そうしようとも思ったんだけどね。」


 ゆうの苦言に桜が苦笑で返した。予想はしていたがこの連中の持ち物らしい、と言う事は……。


「此処は翔坊君にとって……辛くても、唯一の父親との記憶がある場所だから。」


「……悪趣味な事、そんなに優しい父親だったのね。」


「うん、優しかったよ。……優香……私達の娘には、ね。」


「入ってくれる? 見て欲しいのは、もっと中よ。」 


 新羅がそう言うと、玄関の扉が自然に開いた。そして先に入った三人の姿が闇に溶け、ゆうもそれに続いて家の中に脚を踏み入れた。











----

------

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「……玩具に……ベビー用品?」


 三人に促されるまま入ったその部屋は、他の部屋と同じく大分燃えてしまっていたが、どうやら子供部屋の様だった。少なくともそう思えるくらいにはそれらしき物が揃っていた。どうやらそこが終着点らしく、その奥には部屋はないようだ。


「見せたかったのは此処なの? それにしても赤ん坊用の物ばっかりね、翔が生まれてすぐ燃えちゃったのかしら。」


「生まれてすぐって事はないかな。少なくとも三年くらいはここで暮らしてた筈だから。」


「あら、そうなの? その割には……。」


 三年、と言う事は少なくとも三歳にはなっていただろう。その割には置いてあるものは本当に生後間もない子供用の玩具やベビー用品の残骸。長く見積もっても、生後一年程度の子供が使うような物のはずだ。


「元々使ってもいなかったんだろうな。買ったのは翔坊が産まれる前だったんだろう。」


「何よ、意味あり気に言うのね。」


「この部屋にある物で、翔坊が産まれた後に買われた物は恐らく……これだけだろうな。」


「………そう……。」


 そう言って全員が視線を向けた先にあった物は……有刺鉄線が巻きつけられた鉄製の檻だった。凶暴な猛獣を捕獲しておく為に使う、そんな冷たい檻。それで、ゆうは理解した。翔が少なくとも三歳までの間していたと言う生活を。


「檻に入れて虐待、か。随分酷い事するわね、まるで猛獣じゃない。有刺鉄線まで付けて……物語の中で偶に見るけど、やっぱり現実にもあるのね。」


「翔坊君は生まれてからすぐに此処に入れられたの。ここの住人が誰も居なくなった後、火事で私達が異変に気付いて見に来るまでずっとね。」


「愚かにも私達は三年間も異変に気付かなかったの。私も桜もそんな事を気に出来る精神状態じゃなかったから。それに、進君も私達の傍にずっと居てくれたから。」


「話が見えないわ。」


 翔が虐待を受けていたのは分かった。でも何か理由があるはずだ。少なくとも子供を望んで居なかったようには見えないし、桜と新羅に関しても翔を溺愛している。父親が隠していたとしても、三年間も放置するなんてあるのだろうか。この人達なら不法侵入してコッソリ見に行くくらいは平気でするだろう。


「全ては翔坊君のお母さん、つまり私達の娘である優香が死んだ事から始まったわ。」


「まあ、話の流れから母親が居ないのはなんとなく察してたけど……原因は?」


「原因は翔坊ちゃんの魔力の暴走。出産の時にね、母親である優香を胎内から吹き飛ばしちゃったの。私達も傍に居なかったから魔力の暴走に対応出来なくて……逆にあの子の父親は、それを目の前で見てしまった。」


「私達もそれに気付いて直ぐに飛んでいったんだけど、酷い状況だったわ。本当に母体だけ吹き飛んでいたのよ。近くにいた医者も、父親も、特に怪我はなかったけど、その部屋が血塗れで、優香が………。」


「……………。」


 新羅も桜も口に出すだけで、思い出すだけでも体が震える様だった。目の前で愛する人が即死する様を見て、その変わり果てた姿を見て、無事に産声を上げた存在を見て、一体父親は何を思ったのだろうか。それを想像する事はゆうには出来なかった。


「そしてその後の翔坊君は父親が引き取ったの。今思えばそれは、復讐する為だったんでしょうね。私達もそれに異議はなかったわ。それどころじゃなかった。私達にとっても初めての子供だったの、優香が死んで、あの光景を思い出す度に毎日が地獄みたいに思えたわ……。だから父親を責める気にはなれない、それが最低な行為だって分かっていても。」


 恐らく、父親も狂ってしまったのだろう。そんな現場を見せられては、自分の子であっても悪魔のように見えてもおかしくない。悪魔を入れておく檻、だから有刺鉄線という過剰な物まで付いているのか。ゆうが檻を見ながらそう考えていると、唐突に檻の周りが明るくなった。恐らく新羅か桜が魔法を使ったのだろう。


「血塗れでしょう、その檻も。」


「ええ、それに傷だらけね。何だかそこらじゅうが凹んでるし。」


「何処で手に入れたのか分からないが、そこの引き出しに散弾銃が入ってるから、多分それで撃ったんだろうな。今は開いているが、最初は檻の鍵も溶接されていて、中からも外からも開かないようになっていた。」


「なるほど、檻から出さずに虐待する為にってところかしらね。真魔じゃなければとっくに死んでるわ。」


 檻から出すのが怖かったのか、単なる趣向か。それとも何をしても傷が直ぐに癒えてしまう翔に対して、どんどん方法が過剰になったが故の結果か。


「でもこんな檻なんて、翔坊君の力があれば簡単に壊せる筈なのにね。」


 鉄製の檻。それは猛獣や普通の子供を入れておくには完璧過ぎる牢獄だ。しかし翔は違う。魔力も知識もある真魔だ。いくら真魔の力がコントロール出来ないと言っても、普通の魔法ならば知識と魔力である程度なんとかなる。それこそこんな檻を壊すくらい出来ない筈がない。


「翔坊ちゃんは魔法を使えないんだよ。私達真魔の記憶構造は普通の人間と違うから、きっと産まれた時の事を覚えてるんだと思う。自分が実の母親にした事を覚えてて、だから多分無意識の内に魔法を使わないようにしてるの。」


「でも魔法は使えなくても魔力を振り回す事くらい出来るわ。だから檻から出なかったのは……紛れもない翔坊君の意思よ。自分が父親にされる事全ては、自分のせいだって思ってる。あの子はそういう子なのよ。」


「……そうでしょうね。あの子は決して馬鹿ではないわ、出る方法くらいは理解していたでしょう。」


 それはやはり、その責め苦を受けることが自分の責務だと思っていた証拠だ。そしてそんな翔は、父親にとっては余計に辛かったかも知れない。せめて翔が泣き喚いて許しでも請ったのならば、まだ恨みも晴れただろうに。


「翔坊が何をされたのか、その詳細は俺達も知らない。この檻や散弾銃や血の跡を見て想像するしかない。翔坊に聞けるはずもないからな。ただ一つ言えるのは俺達が来た時にはもうこの有様で、丁度この檻の前に父親の死体が転がっていた。完全に黒焦げの死体だったから、新羅や桜がそう言わなければ俺には見分けもつかなかったくらいだ。火の出処は複数箇所あったんだが、家の内部からだったし、完全に父親の放火だ。何故そんな事をしたのかは分からないけどな。」


 恐らく、翔の目の前で父親は自殺したのだろう。最後に家を焼いたのは、翔の存在を進達に伝えたかったからかも知れないし、ただ自分の燃えていく様を翔に見せたかっただけかも知れない。何にしろ、翔は見る事になった。両親が二人共、自分が原因で死んでいくのを。


「私達がそれを見つけた時、翔坊ちゃんが私達に謝ったんだよ。お母さんだけじゃなくて、お父さんも殺しちゃった、ゴメンなさいってね。父親はもう死んでるのに、最後まで檻から出ずに、涙一つ流さなかった。あの子は私達が出るように言わなければ、本当に一生此処にいたんだと思う。」


「……………。」


 桜がそう言うと、暫くしてパッと明かりが消えた。それと同時に辺りが一気に暗くなる。周りが黒一色なのは変わらなかったが、屋根が燃え残っている為に星の光も入らない。この部屋には窓もなく、正確には窓が何か鉄板の様なもので潰されている為に光が入らないのだろう。ここに来るまでもあまりに真っ暗なので夜目が効いていたが、こうして見るとあまりに異常だ。

 そして、そんな中で桜がポツリと呟いた言葉が、ゆうの心に波紋を生むことになる。


「あの子……本当は翔って名前じゃないの。」


「え?」


「ちょっ、ちょっと桜!! それは言わなくてもっ……。」


「駄目、ここまで話したなら全部知ってもらわないと。中途半端に教えるのはやっぱりズルいよ。」


「翔って名前じゃないって……それってまさか。」


 その言葉はゆうの脳裏にある可能性を過ぎらせた。今日、翔が言っていた事だ。『しょう』と『ゆう』しか持っていない……なら、本当の名前は……。


「あの子の本当の名前は優。産まれる前に、男の子でも女の子でも良いからって両親が付けた名前なの。あの子の母親の優香から一文字取って………優しい子に……なり過ぎたけど。」


「……その名前で呼んだら、自分をそう呼んじゃ駄目だって翔坊君が言ったから……。翔って名前は後から私達が付けたの、だから優ちゃんの名前は元々……。」


「っ………!!」


 ふと、言いようのない感情が優の心を支配した。顔が熱くなるような、腹の底が煮えるような、その感情は優が初めて感じる感情だった。怒り……そうだ、きっとこれが怒りなのだ。今まで怒りだと感じていた感情は、ただの苛立ちに過ぎなかったのだと、優は初めて理解した。


「翔坊に理由を聞いたら、父親に言われたんだそうだ。お前が優香の名を継いでいるのが許せない、息子であるのが許せないと、だから……。」


「ふざけんじゃないわよっ!! だから? だからなんだって言うのっ!!!!」


「ゆ、優ちゃんっ?」


 自制が出来ない。怒りとはこういうものなのだ。目の前の三人が憎い訳ではない、だが無性に感情を叩きつけてやりたくて仕方がない。憎しみからではなく、別の何かによって優の感情は暴走していた。不快だった、目の前でとうとうと翔の不幸を語るこの三人がひたすらに不快だ。


「翔は不幸だったわね。でもアンタ達は同情するなと言ったわ。なのに何故!? アンタ達は私に何を期待してるのよっ!!! 両親から貰った名前? 母親の文字が入ってる? だったら何よっ!!! 私に翔の母親でもやれっていうのっ!? 冗談じゃないわっ!!!!」


「べ、別にそういう意味で言ったんじゃないのっ!! ただ翔坊ちゃんにとってのその名前がどんな意味を持っているのかを……。」


「それが迷惑なのよっ!!! アンタ達は私に期待してるわ。自分達で何も出来ない癖に、偶然会っただけの私に何かの役割を期待してる。母親? 姉? 恋人にでもなれって!? そんなもの他人に期待するなんて頭おかしいわよアンタ達っ!! そんな事だから翔に遠慮されるのよ。あの子がアンタ達に甘えられないのは、あの子が優しいからでも、アンタ達が娘を失った被害者だからでもない!! 一番に翔を腫れ物扱いしてるのがアンタ達だから、あの子は一人で私に付き纏ったりしないといけないのよ!!!!」


「っ………!?」


 気付けば、胸の内にあった言葉は全て三人に向けて解き放たれていた。そしてその言葉はいとも容易く進達の心を打ちのめす。優も、こんなに激しく叫ぶほどに誰かに感情を向けたのは生まれて初めての事だった。それだけに叫び終わった後に我に返ると、自分が何故そこまで感情的になったのか、自分自身でも理解が出来なかった。


「もう話はないわよね。」


「……………。」


「私は帰るわ、被害者面した偽善者ども。もう私の感情に付きまとわないで、迷惑なのよ。」


 優は一言だけそう吐き捨てると、次の瞬間にはその場から居なくなっていた。僅か5年か6年生きただけの若き同族に、圧倒された者達を残して。











----

------

--------














「おかえり。」


「………はあっ。」


 翔のいる寝室へと戻ってきた優は、予想通りと言えば予想通りな展開に、不機嫌を引きずったまま盛大に溜息を吐いた。まあ、自分を探しにそこら中を徘徊しないだけ良い。そうなれば真魔であるが故に魔法でサーチ出来ず、目で探さなければならなくなる。……とはいえ、面倒なものは面倒なのだ。


「………寝てなさいよ。」


「ん……でも、眠くない。」


「まだ2時よ? そんな訳ないでしょうが……アンタは他の真魔とは違うんだから。」


「大丈夫、本当に眠くない。」


「……分かったから、ほら、布団に入りなさい。」


 なんとも律儀な事に布団の上で正座をしていた翔だったが、優が布団を指差して促すと、素直に布団の中に入ってくれた。優も不満が出る前に同じ布団に入る。翔の寝ている布団はそこそこの大きさがあるので、子供二人くらいなら狭くもない。


「……ほら、さっさと寝るのよ。翔が起きるのが遅いと、私が本を読みに行けないでしょうが。」


「うん、わかった。」


「……………。」


 優がそう言うと素直に頷く翔は、直ぐに眼を閉じて眠る体制に入った。……しかし、自分で言っていてなんだが、翔が優の起きるタイミングで一緒に起きなかった事が今までにあっただろうか? よくよく考えてみれば、翔はいつも自然と眠ったり、ウトウトする事はあっても、睡眠欲を訴える事はない。眠いのかと聞いても、眠いと言ったことは一度もないのだ。


「ねえ、まさか本当に眠くないの?」


「うん、眠くないよ?」


「……もしかして、本当は今まで、眠くなったことないの?」


「……………。」


 優の言葉に翔は何も応えなかった。しかし、いつも素直な翔にはそれで充分な答えになっていた。つまり、今まで眠くもないのに眠っていたのだ。他の真魔と変わらない。進達に話を聞いても、眠くなると言う部分だけが分からなかった。翔はバグなだけで、そんな必要はないのだから。


「演技してたの?」


「(ふるふるっ)」


「じゃあなんで眠るの? それに人が起こしても起きないわよね? 自分で起きる時は苦もなく起きるのに。」


「……………。」


 それに対しても、翔は何も話さなかった。じっと優の眼を見詰めたまま、それは許しを得ようとする子供の態度そのものだった。それでも普通の子供と違うところがある事を、優はこれまでの生活で知っている。翔は自分の保身の為に嘘を吐いたりはしない。悪い事があればキチンと謝るし、言う事も聞く。だから黙り込むと言う事は、演技ではなく別の理由があるはずだ。翔が話したくない理由………これは、別の方向から話をした方が良さそうだ。


「さっき優って名前の事を聞いたわ。それと翔の父親と母親の事。」


「……………。」


「別に責めちゃいないわ、そもそも翔の家族に興味ないもの。貴方が昔何をやってようが、どうでもいいのよ。いくつかの疑問点が解消されたってだけ。」


 優のその言葉にも、翔は顔色一つ変える事はない。その時の翔の心理を読み取る事など優には出来なかったし、本心から興味もなかった。


「でも翔については色々分かったわ。どうせ父親から何か言われたんでしょう? ほら、言ってみなさい。」


「……寝ないなんて気持ち悪いって言われたから。せめて人間らしく振るまったらどうだって。普通は夜は眠くなるんだって言ってた。」


「なるほどね。」


 まあ確かに眠らない人間は気味が悪いかも知れない。尤も、その父親がそういう意図で言ったのではないことは容易に想像がつくが。


「じゃあなんで起こしても起きないの?」


「お父さんの目覚ましの音で一緒に起きたら怒られた。」


「なんで?」


「………分からない……多分、自分で起きなかったから。」


 ……それはきっと、翔が分からないのではなく、理由など最初からないのだろう。翔はそれに無理矢理に理由を付けて納得しているのだ。父親のそんな気紛れ一つで、今の翔の行動は成り立っているのかも知れない。


「ならこれからは、私が起こしたら直ぐに起きなさい。」


「………でも……。」


「怒られたのは翔が自分で起きなかったからじゃないわ。翔が憎いから怒っただけ、貴方の父親は理由なんて何でもいいから貴方を傷つけたくて仕方がなかったのよ。私には理解出来ないけど、愛する人が殺されたって思えばそれくらい憎むものだと思うわ。」


 それは進達が聞いていれば急いで止めに入ったであろう言葉の刃だった。今の優の台詞は、翔が母親を殺したのだと肯定している様なものだ。全ての元凶を作ったのはお前だと言っているに等しい。だがいくら包み隠したところで、それは真実なのだ。他者が何を言おうと、翔の中で真実なのだからそれはそう受け止めるしかない。


「でも私は別に憎くないもの、怒る理由なんてないわ。寧ろ寝る度にいちいち翔を背負って帰るのも面倒なのよ。寝るなとは言わないわ、だからちゃんと起こしたら起きなさい。」


「……分かった。」


 素直に頷く翔を見て、優は先程からの不機嫌が少し解消されたように思えた。もしかしたら、こうして自分に付き纏う理由も問いただせば聞き出せるかも知れない。


「ねえ、翔。もう一つだけ教えなさい。」


「何?」


「………翔は、なんで私に優って名前をくれたの?」


 優は少し迷って、もう一つの気になっていた事を聞く事にした。


「んー……理由?」


「そうよ。優って名前が翔の両親がくれた名前で、自分が名乗れない理由も知ってるわ。でもだからって……。」


「………やっぱり、しょうがいい?」


「その名前の方が断然似合わないの最初から知ってて言ってるでしょう? 別に変えて欲しいから言ってる訳じゃないわよ。」


 どうも意図してる事が伝わっていない様子だ。分かっててはぐらかせる程に翔は器用じゃない事も重々承知している。


「私が聞きたいのは、なんで今日になっていきなり名前なんかくれる気になったのかってこと。あの本の主人公達が可哀想だったから? それとも他に何か狙いがあったの? 怒らないから言ってみなさい。」


「うん。」


 突然、何か思いついたように優の袖を引っ張った。最近用事がある時はこうして呼ばれるからもう慣れた。


「何?」


「いつもこうやって呼ぶの不便だから。」


「………は?」


「なんで不便なのか思いつかなかったけど、あの本読んでて閃いた。でも僕が勝手に名前付けたら駄目だから、どっちかあげて、それで呼ぼうって思った。」


「じゃあ本当に翔でも良かったの?」


「僕が『しょう』って呼んだら『ゆう』のことでしょ?」


「………ああ、まあ確かにそうね。」


 つまり自分が呼ぶ為だけだと。


「でも私が翔になったら、翔以外の人が困るわよ? 私が翔を貰って、翔が優を使わないなら、他の人が翔を呼べなくなるわ。」


「………あ。やっぱり、翔は駄目。」


「要らないわよ、私は優で良いわ。」


「うん。」


「話はそれだけ、もう寝なさい。」


「うん、分かった。」


 優がそう言うと、先程と同じ様に翔は眼を閉じて眠りだした。眠気はないと言っていたのに、それでも翔は言い付けをしっかり守ってしまう。守らなかったからと言って怒る存在など、もうこの世にはいないと言うのに。


(三年もあれば、人って習慣にも従順になるのね。たった数ヵ月で……この有様か。)


 三年後、自分はこの翔と言う檻の中でどうなっているのだろうか。力ずくで、抜け出そうと思えば抜け出せる筈だ。罪の意識で抜け出さなかった翔とは違う。自分はいつでも抜け出せる。自分を縛る理由など何もない。だから少なくとも三年後には、自分の姿は檻の中には無い筈だ。その頃にはきっと、新しい自分だけのお気に入りの場所が見付かっているだろうと確信しながら、優は最近慣れつつある微睡みの中へと落ちていった。




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