少女の日記 名無しの存在
「うっわっ、なにこれ凄い。こんな難しいの読むの!? と言うかエロい、なんか不健全な匂いがプンプンするよっ!!」
「うーん……翔坊君も読んでるんだよね、これ。最近の子は進んでるんだねぇ……」
「……文句あるなら、その翔を引き剥がしてください。勝手に覗き込んで来るんですから」
うっとおしそうにそう言って、少女は具現化していたその本を閉じて消す。初めて少年を送り届けた日から一月以上が経っていた。何というか、慣れというのは恐ろしい。案の定あの日から少年は自分から帰ることをしなくなった。日が暮れると意識が段々と希薄になっていき、遂には寝息を立て始める。それを放っておくわけにもいかずに家まで連れて行くと、案の定あの日と同じ様に駄々を捏ねて少女を束縛した。
「んー、文句はないよ? それに多分、私達が言っても翔坊ちゃんは止めないと思うし」
「……そうですね、止めて聞くなら苦労はしません」
「あ、あはは………ごめんね、迷惑かけて」
「謝る必要はありませんよ、現状を改善してくれればそれで」
刺々しい少女の言葉に、新羅と桜は顔を見合わせて苦笑した。一月という時間は決して短くない。これでも大分少女の言葉も柔らかくなった方だった。そして少女からしても一月の間に分かったことも色々とあった。あの少年の名前が篠原翔と言う事と、新羅、桜、進の三人は少年の祖父と祖母に当たるのだということ。そして新羅、桜、翔は真魔であり、進は真魔の魔法で不老不死となっている存在だと言う事。少女からしてみれば特に興味もなかったが、最近では朝食に加え、夕食も用意をされていて、何かを話す機会も増えていた。今の様に、少し空いた時間に話す事もある。
「それにしても遅いわ。片付けの手伝いも良いけど、私の時間の事も考えて欲しいものね」
「そんな事言ってー♪ 翔坊ちゃんを待っててくれるなんて優しーなー♪」
「……翔を一人で行動させたら、貴女達が『心配』して付いて来ちゃうかも知れませんからね」
「……そ、そんな事ーないよー?」
少女は、あえて『心配』を強調させてそう言った。最近、桜が妙に少女と翔が何処に行っているのか気にしている様なのだ。ハッキリ言って迷惑この上ない。そんな桜に付いてくる口実を与えない為に、最近では家を出る時も翔を連れて一緒に行動をしているのだ。少女が一緒なら心配する理由もないし、万が一付いて来ても直ぐに気付く。
「……まあ、良いですけどね。もし付いて来たら、私は別の土地に飛びますから。貴女達に踏み荒らされた場所でリラックスなんて出来ませんし」
「わ、分かってるって、あ、翔坊ちゃん来たみたい!!」
「ふふっ、じゃあ翔坊君の事よろしくね?」
「ふぅっ………はいはいっ」
玄関から翔が現れると、二人はそれぞれ印象の違う笑顔を残して、翔と入れ替わるように家に入っていった。桜にも釘を刺したし、取り敢えず付いてくることはないだろう。そんな小さな出来事に満足感を得ている少女の袖を、近付いて来た翔がクイッと引く。
「……遅れてゴメンなさい」
「そうね、付いて来たいならもう少し素早く行動しなさい……ほら、行くわよ」
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少年には、名前がありませんでした。
少年には番号が付けられていました。
1392と言う数字だけが、少年をこの世界に認めていました。
親はなく、権利もなく、名前すらなく、少年は4つの数字に寄ってのみ、誰かに必要とされました。
人ではなく、別の何かとして。
少年はそこにいました。
そんな始まり方をする本だった。いつもと同じく、少女が無作為に選んだその本を魔法で具現化する。そしていつもと同じ様にページを開き、捲る。ただそれだけの事だった。翔もいつもと同じ様に少女の隣に座り、少女の読むペースに合わせて、その本を読んでいた。
(……奴隷が主人公か。こんなものが売り出される時点で良き時代なのかしら)
「…………」
(……今日も変わらず無反応。ホラーもスプラッタも悲劇も駄目だったし分かってたけど……まあ、良いけどね)
追い払う為に色々試した。最初は意味が分かっていないのかとも思って聞いてみたが、分かって見ているらしく、本の内容についての質問は完璧に応えた。少女も正直、もう諦めていた。それよりも物語に熱中してしまおうと考えを変えていた。
共に育った少年0982は子供達の兄の様な存在で、時にまとめ役になり1392のグループを指揮する事もありました。
仕事を覚えるまでには沢山叩かれました。大人の容赦のない拳によって、何度も何度も。
ミスは少年の罪でした。
ですが、その0982は殴りません。
ミスをしてもフォローをし、辛ければ励ましてくれました。
ページを捲る。その度にとても子供が読むものだとは思えない物語が続いていく。少年を買ったものに殴られ、罵声を浴び、泣くことを許されず。それでもそれが普通になった少年は仕事を段々と覚え、共に生きる仲間が増えていく。
番号のふられた仲間が一人、死にました。
体が元々弱い子だったのでしょう、少年より後に来た少年でした。
ここに集められた物たちに差別はなく、区別もない。
ただ平等に与えられるのは仕事と罵声と暴力だけ。
少年は疑問を持ちませんでした。
何故ならそれは当然の事であるからです。
物語は佳境へ突入する。沢山の悲劇と、そんな中での僅かな幸福が訪れ、不満を言う事なくただ生きていく少年の人生が、もう後僅かなページとなっていた。
0982が逃げました。
逃げる背は撃たれました。
血が広がって、動かなくなりました。
何故そんな事をしたのか少年は不思議に思います。
逃げる事はいけないこと、それを教えてくれたのは0982です。
撃たれるのは痛いこと、それを教えてくれたのは目の前の存在です。
では何故逃げたのか、分からない、わからない、少年には理解出来ませんでした。
いけないことではなかったのかと、苦悩する少年の心情が巧みに描かれる。少年が当たり前を享受して生きる中で初めて生まれた疑問が、少年を追い詰めていく。そして、最後の数ページ。
分からない、だから知りたい、きっとそれは、少年に残された最後の心だったのでしょう。
0982と言う、自分を支え続けてくれた兄のような存在が求めた何か。
何か分からないそれが、どうしても知りたいと少年は欲を持ちました。
そして少年は逃げ出しました。
0982を知るために、0982と同じ様に。
欲を持った少年は初めて、人間になりました。
人間として、死にました。
最後のページを捲り、あとがきを読んで本を閉じる。そこには奴隷社会における様々な批判、そしてそれを現在に残る差別に当てはめて批判するエゴの塊。此処に書かれている事は全て正義と人権を書いたものだと、作者の思念が支配していた。
それを見て正直、興醒めしてしまった。可哀想な少年だ。こんなエゴの為に創造され、名前すら与えられず、チンケなオチと、興醒めのあとがきに寄ってその全てを台無しにされた少年は本当に可哀想な事だと思う。この本のカバーに載せられた写真が言っている。社会批判は美味しい飯の種だと、その醜く太った顔が言っている。
「ふう……はずれね」
「……………」
「何? どうかしたの?」
翔はいつも無表情だ。本を読み終われば感想を言う事もなく、少女に合わせて立ち上がるまでじっとしている。少女の得た余韻を壊さないようにと配慮しているのか、それとも黙っていろと言った言いつけを素直に守っているのか。だが今日は少し違った。翔の顔がいつもよりも暗い気がする。今までどんな話を読んでも全く変化しなかったこの少年の表情が、ほんの僅かな違いだったが。
「……あんたも、少しは人の心ってものがあるのね」
「……………」
悲しんでいるのか、悩んでいるのか、それとも同情しているのか。僅かな変化しかないからそこまでは分からない。なんとなく暗いと感じただけで、本当にそうなのかも分からなかった。
「はあっ……今日はもう御終い。もう一冊読む時間もないみたいだし、帰るわよ」
少女はそう言って立ち上がった。『帰る』などと言う言葉が出るようになるとは、自分も相当あの連中に毒された様だと溜息が出てしまう。このままでは本当にこの翔と言う子の世話係のようではないか。そう思って翔の方を見ると、珍しく少女が立ち上がっても動かない。
「どうしたの、立ちなさい? あんた一人置いてくと次にあいつらが迎えに来ちゃう可能性が……」
「………名前……」
「………はあ?」
「……………」
ぽつり、と。翔が呟いた言葉に、少女は思わず聞き返すような声を出した。はずれの本を引いて機嫌が悪い事もあり、大分不機嫌な声色になってしまったが。
「………ゆう……」
「何? ゆー? 何それ」
「名前、あげる」
「…………はあっ……」
なるほど、名前とはそう言う意味か。恐らく物語の少年と、名無しの少女を重ねたのだろう。それだけ呟いて何も喋らなくなった翔に対し、少女は溜息をついて睨みつけた。どんな理由にしろ名前なんてものは、人と関わる事のない自分には必要ないものだ。
「要らない。必要ない。気に入らない。」
「……じゃあ、しょう」
「だから要らないって言ってるでしょうが!! そもそもなんであんたと同じ名前なのよ!?」
諦めずに別の名前を提供してくる翔の名前を、少女は声を荒げて否定した。翔なんてそもそもが女の名前じゃないし、からかっているのだろうか。
「でも……それしかない……」
「……何言ってるの? それしかないって」
「僕の持ってるの、『しょう』と『ゆう』だけ。ほかの、持ってないから……」
「持ってる……?」
意味が分からない。そもそもなんで『ゆう』なら持っているのか。持っていないと駄目なのか。
「名前は大切だってお爺ちゃんが言ってた。きっと、僕が付けたりしちゃだめだと思う。だから、持ってるのあげる。『しょう』と『ゆう』、どっちがいい?」
「………要らないって言ってるのに……」
「いらないなら、すてていい」
「……………」
……強引だ。本当にうっとおしいくらい強引だ。この翔という少年は、普段は従順なくせに、こうと決めると絶対に覆さない強引さを持っている。少女が追い払っても頑なに帰らなかった時の様に、少女を家から返すまいと駄々を捏ねた時の様に、この少年は絶対に譲らない時は譲らない。
「………『ゆう』で良いわ。翔はあんたでしょ? 大切なものなら簡単に上げるとか言うんじゃないわよ」
「………ゆう……うん、わかった」
「捨てても良いけど、まあいいわ。なくても困らないけど、あっても困らないものね」
結局、今回も押し通されてしまった。どうせこっちが折れるまで折れないのだから、面倒はさっさと終わらせてしまうに限る。
「………ありがとう、ゆう」
「なんで翔がお礼を言うのよ。相変わらず意味分からないわね」
「ゆう、捨てないでくれたから」
「……言ったでしょ、あっても困らないからよ。名前なんてなんでもいいもの………ほら、帰るわよ」
「うん、分かった……ゆう」
少女が、ゆうがそう言うと、翔は今度こそ頷いて立ち上がった。名前……欲しいとも思わなかったが、あっても困らない。そんな風に譲歩してしまう自分に、驚く事がないでもない。
変わっていくのだろうか、いや、もう変わってしまったのだろうか。少なくとも少女の日常は変わり、少女の存在もまた、この日変わる事になったのだった。