第76話:懐かしい日常
「………もう夕方か、随分長い間寝てたみたいだな。」
目が覚めて、周りを見渡す。いつも通りの自分の部屋、真夕もいないようだ。ふと寝返りを打つと、人一人分くらいのスペースから甘い香りがした。恐らく美里がさっきまで一緒に居てくれたのだろう。美里は香水などはあまり使いたがらないが、普段使うシャンプーの匂いなどからでも分かってしまい、そんな自分に思わず苦笑してしまう。
「まるで変態だな……って、今更だが。」
自分で自分にツッコミを入れつつ翔は起き上がる。なんだか妙に頭が冴えている、心の中にあった霧が晴れていく感じもした。とはいえ、まだ完全に晴れている訳ではない。翔は普段着に着替えつつ、頭の中を整理していく。夢で見たあの出来事は……そう、紛れもない自分の過去だと断言できる。
「でもなんか、まだ微妙に思い出せてない気がするな……。」
「それは仕方ないわよ、人間の脳にも限界があるわ。一気に思い出す事は不可能だもん。」
「ああ………え?」
「おはよう、翔坊ちゃん。」
そこには誰も居ないはずではなかったか、それに何故この子がここに居るのだろうか。目の前にいたのは、心の中で出会ったあの白い少女だった。自分を翔坊ちゃんと読んで、愛おしそうな眼差しを向けてくる少女。……そう、彼女は……ここに居ていい人間だ。
「桜……お婆ちゃん……。」
「っ……あっ……う、んっ……そうだよっ、さくら……おばあっ……うぇっく……。」
「ちょっ、お婆ちゃん何で泣いて……というか、あれ、今まで何処に……なんで桜お婆ちゃん此処にいて、今まで居なくて……あれ。」
混乱する翔の隣で、わんわんと泣き出した少女。一向に話が進まない中、桜という名前の、何故か翔が自分の祖母だと記憶している少女が泣き止むまで、翔は混乱したままだった。
「思い出すのはゆっくりで良いんだよっ、まずは皆の所に行こう?」
「あ、ああ……うん。」
桜はそういうと、待ちきれないかのように翔の手を取って部屋を出る。翔はなんだか分からないまま、桜に手を引かれて、偶にチラっとこちらを確認しては泣きそうになる桜について行った。
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ガシャン
「……さ……くら……?」
「……うん。」
「……なにこれ……夢かな……、あははっ……桜がいる……桜が……。」
料理中だったのか、翔と桜がリビングのドアを開けて入った瞬間、新羅は抱えていたボールを手から垂直に落下させた。まるでありえない物でも見ているように固まったままの新羅に桜が近づくと、一度翔を見て、それからまた桜に視線を戻して……涙を流しながら抱きついた。
「ただいま、新羅。」
「さ、桜っ………さくらぁっ!! 良かったっ、桜っ、桜っ!!」
「わわっ、ちょっ、新羅っ!! そんなに泣かないでよ……私も今っ、泣いたばっかりでっ……。」
そんな事を言いつつも、桜の眼には再び涙が溢れていた。どうやら二人が落ち着くまでは割り込まない方が良さそうだ。
(新羅さん……じゃなくて、新羅お婆ちゃん……? なんだこれ? なんで新羅さんが俺のお婆ちゃんなんだ?)
翔の頭は再び混乱した。知識として翔の中にある新羅という人物は、自分の祖母だ。直接的な血の繋がりはないが、進の奥さんで……桜の方も進の奥さんで直接的な血の繋がりがあって……。
「新羅さんは……新羅お婆ちゃんで………え?」
「っ……しょ、翔坊くんがっ……おばあっ……ちゃん……って……うぐっ……うっ、うわあああああああぁぁっ……。」
何やら再び新羅の勢いが激しくなってきた。どうやらまだ二人が落ち着くには時間が掛かるらしい。そんな二人を眺めながら、ふと隣を見ると、美里が呆然と新羅たちを見ていた。自分に向けられた翔の視線に気付くと、側に寄って耳打ちした。
「これは一体……どういう事なんですか?」
「いや、良く分からないけど……あの二人は、俺のお婆ちゃんみたいなんだよな。」
「………はい? えっと……失礼ですが翔さん、寝ぼけていらっしゃいます?」
翔の言葉に、流石の美里も混乱したように微妙な笑みを浮かべている。どうやら正気を疑われているらしい、無理もないが。
「うん、なんというか、記憶が戻ったというか……。」
「いやいや、それ以前にお二人共若過ぎると………って、それは本当ですか!?」
「えっと、うん、多分。まだ思い出せない部分の方が大きいけど、なんか記憶を失ってたらしいな、俺。今でも良く分かってないんだけど、そういう事らしい。」
そう、少なくとも桜の事は忘れていた。新羅が祖母である事も、今ふと思い出した。そんな事ある訳ないのに、知識だけは存在する。自分の全てが、あの二人は自分の祖母であるのだと言っているのだ。そして、思い出した事はそれだけではなかった。
「澄の事も……思い出した。」
「そうですか……。」
「ああ、どうやら俺は、昔に澄とあってるらしい。しかも何度となく一緒に遊んでる。なんでこんな事忘れてたのかは思い出せないけど……。」
「無理に全部、急いで思い出す必要はありませんよ。………それよりも翔さん、今日は私と一日イチャイチャする予定でしたのに……全然起きてくださらないんですから、寂しかったんですよ?」
「うっ、す、すまん。」
少し責める様な美里の視線から逃げるように視線を逸らしつつも、翔はありがたかった。澄と何があったも気になるだろうに、美里はただひたすら普通に接してくれている。拗ねた様な表情で、ぎゅっと抱きしめてくる美里に、思わず優しい笑みが出てしまう。そんな二人の隣では、新羅に抱きつかれた桜が、キョロキョロと辺りを見回していた。
「新羅、進君は!? 私も早く会いたい!! あの二人だけイチャイチャするのは狡い!!」
「う、うんっ、そうだよねっ!! 進君なら今私達の部屋で……。」
「本当っ!? 進君!! 大好きな桜が今戻ったよぉっ!!」
「ちょっと桜っ!! 抜けがけは狡い!! 私も行く!!」
「私、久しぶりだよ!? 10年くらいぶりの感動の再会だよ!? 体感時間的には100年ぶりくらいなんだから!!」
先程までの号泣は何処に行ったのか、ドタバタドタバタと勢いよく部屋を出て行った二人に、翔は自然と懐かしさを感じていた。……そして美里と二人きりになる。さて、これから自分の責任を果たしに行かなくてはならないだろう。
「なぁ、美里。俺今日は……。」
「……分かりました。翔さんならそう言うって思ってましたから。お夕食の支度をして待ってますね?」
「…………。」
翔は自分の台詞に先回りされた事と、美里が当然の様に待っていると言った事に驚いた。翔が何も言わないでいると、美里はくすくすっと悪戯っぽく笑う。
「あら、私何かおかしい事を言ったでしょうか?」
「………いいや? 悪いな、ちょっと遅くなる。」
「ふふっ、買い物に行ってる真夕さん達にも伝えておきますね。それとも優さんには言わない方がいいでしょうか?」
「んー、任せる。どっちみち、俺のすることは変わらないからな。」
翔がそう言って笑うと、美里もいつもの優しい笑みでそれに応えた。まるで全部分かっていると言うかのように、翔にはそれが堪らなく嬉しかった。
「分かりました。それでは、お早いお帰りを………、いってらっしゃいませ。」
「ああ、行ってくる。」
美里の笑顔に見送られつつ、翔はその場を後にした。翔が部屋から出てから数秒後に玄関のドアの開く音がして、閉まる。それを聞き届けると、美里は落ちているボールを拾い上げて、夕食の準備を再開した。