第63話:恋に花を、愛に誓いを
「うん……頑張ったな、俺。」
「……こんな所で何黄昏れてるんですか、至福の時間だったでしょう?」
「ああ、神斗君か。そっちは休憩かい?」
「はい、姉さんは美里さんが一緒ですと特に入浴が長いですから。見回りに来ない今の内に休憩を入れようかと。」
庭に面している廊下で涼みに出ていた翔の所へ神斗が来て、苦笑しながらそう言った。確かにさっきの空間は視覚的にはかなり至福の空間なんだけど心的には拷問だ。あの状態でいつものペースでれたりしたら、恐らく色々と終わっていただろう。……美里も肌を晒すのは流石に恥ずかしかったらしく、あれからあまり積極的に来なかったのがせめてもの救いな気がする。それでも十分過ぎる程に積極的だが。
「しかし、愛されていますね。両親の指示で翔さんが入る前に男性用浴場の再清掃まで徹底させられましたが、本当に意味があるとは思いませんでしたよ。」
「……そんな事までさせられてたのか。そういえば最初に浴場に入ろうとしたら清掃中になってたな。あれはそういう真相だったわけか。」
美里が来る事を予測してたのかあの両親は。まぁ、あがる時に美里と命には女湯に戻ってゆっくりするように言っておいたから、いくら二人が長湯でもこの後の風呂場の回転が悪くなる事は恐らくないだろう。まぁ翔自身、後の事を考えたから女湯に戻らせたのかと言えばそうではなく、美里自身がその場で浴槽に浸からなかったからだと言うのが本音だ。最後まで『ここは男湯ですから。』と言ってお湯には浸からなかった。理由は良く分からないが、実際それをされると翔自身がゆっくり入浴する事が出来なくなりそうだからそこはありがたかった。……まったく惜しくなかったと言えば嘘になるけど。でもそこは神斗には伝えないで置くことにしよう。折角掃除してくれたんだし。
「美里さんは何処に居ようが超VIPですからね。個人であそこまで影響力のある人間は他にはいませんよ。人当たりも良いですし、あの人を人間的に慕っている者も男女問わずかなりの量です。……まぁ、そんな美里さんが物凄い潔癖症なのは昔から有名な話ですから家に来られた際には色々と気をつけるんですよ。今回の清掃の徹底もそういう理由からです。」
「ああ、だから再清掃なんて……しかし、潔癖症か。まぁ、そういう所はあるな。……結構、いやかなり。」
「……ですが。これはあくま推測ですが、恐らく僕らの清掃も外側はともかく、浴槽側はかなり無駄に終わっているんじゃないですか? 特に、婚約者が出来てから潔癖度が酷くなったという噂がもう広まってるみたいですし。翔さんへ対する操と、美里さんの先程の狂い様を見るとあながち間違いでない気がします。」
「狂い様ってのは気になるが……まぁ、申し訳ないけどその推測は当たりだな。」
翔がそう言うと、神斗はやっぱりかといった表情で苦笑した。自分が潔癖症を強くした原因らしいが、なんとも申し訳ない気分だ、翔にとってはとても良い湯だったから尚更。しかし、美里の潔癖症はそんなにも有名なのか。確かに今日も飛ばしてたからなー……主に近付いてくる男を。あれは有名にもなろうと言うものだ。でもそれはつまりあれだろうか、男湯に入りたがらなかったのは俗に言う、『お父さんの入ったお風呂は嫌。』な状態なのだろうか。潔癖症もここまで来ると凄まじい。最近の常に甘えて来る美里からは連想がしにくいが。
「そうだろうとは思っていたので気にしてはいませんよ。今日の事は流石に予想外でしたから、許して頂けただけでこっちは恩の字です。出来れば、この後始末もなんとかして頂ければ助かるのですが。」
さっきのか……。確かにあの惨事を予測してたらあんな事は言わなかっただろうけど。
「……でも、さっきのアレ。どう考えてもわざとだろ?」
「確かに美里さんを呼ぶ事に関しては、わざとかと聞かれればそうなんですけどね。潔癖症の美里さんが浮気前提で選ぶくらい惚れてる婚約者がこちらに泊まっているわけですし、確実に来ると思いましたよ。何度も泊まっているから気後れで来ないというのもないと思いますし。万が一来ない事を考えて同時にお誘いの言葉も伝えましたから。……どうやらそれが惨事の引き金になってしまった様ですが。確かに潔癖症ですが、いつも冷静なイメージが強いのであんなのは予測していませんでした。肝が冷えましたよ。」
「……ん、まぁ確かにな。俺も驚いたよ、あの攻撃魔法に加えて目の前で自殺されそうになったくらいだし。」
もしあそこで止めなかったら今頃本気でどうなっていたやら。最悪……いや、かなりの確率で人命に関わる事になっていただろう。あの全部壊して一緒に死ぬ発言もあながちテンションだけで言ったようには思えないし。
「しかし、そんなに愛されてるのになんでこんな所で黄昏れてるんです? 恋人なんですから入浴くらい一緒でも問題ないでしょう。美里さんが男湯を嫌がるなら女湯で混浴しても誰も文句は言いませんよ? 美里さんと姉さんがいる内はどーせ誰も入らないでしょうし。翔さんに女湯に入ったらどうにかなるような変態性があるとは思ってませんから。寧ろそうだったとしても篠原さんとイチャついて貰って、先程の不快を忘れて頂いた方がこちらとしても気が楽です。」
「ああ、その話に戻るのな。まぁ、付き合ってる美里はともかく命と一緒はかなりマズイだろ。そもそも美里が呼んだからって、命も無理して俺と一緒しなくてもいいのにな……。」
「まぁ確かに姉さんも一緒は倫理的にはマズイっちゃマズイですが、普通は喜びますよ? あのレベルが二人もですからね。あの姉は容姿に関しても中々に有名ですし、弟目に見てもかなり美人の部類に入ると思います。一部は『小波の紅玉』なんて呼んでる方もいますし。……それに流石に姉さんもタオルくらい巻いてたでしょう? 姉さんもあれでかなりロマンチストですし、美里さんの影響でかなり古風ですからね。あ、そういえば美里さんの方の呼び名もありますよ? 凄い数ありますが、聞きたいですか?」
「美里はあんまりそういうの好きじゃないだろうし、遠慮しておくよ。まぁ、命については確かにそうかも知れないけど……。何か駄目だろう、そういうのは。女性の肌ってのはそう簡単に晒していいものじゃないと思うし。……やっぱり好き合った人とでないと。」
「……今時そんな事を言う男の人居たんですね、夢見る乙女ですか貴方は。……そのくせどうやって四人も納得させたのやら。」
神斗は、翔の言葉を呆れた様な口調と視線でぶった切った。確かに古い考えかも知れないが、翔は本当にそう思ってるのだから仕方ない。それなのに真夕達には正直不義理を働いてしまっているのは分かっているのだが……。全部翔が真剣に考えての結果だ。翔がそんな事を考えていると、神斗は視線をすっと外して微笑した。
「いや、これは僕が口を挟む事じゃありませんね。」
「そうしてくれると助かる。自分でも何でこんな事になったのか、今だに信じられなくなる時もあるんだ。」
「それはそうでしょう。まぁ、美里さんのファンの方に恨みを買わないように気をつけて下さいね。と、言うよりあんまり他人には言わない方が良いでしょうね。篠原さんの場合、当事者が皆納得していますからそれで何かあるとは思えませんが、悪評は立たないに越したことはありません。僕らの環境的に多重婚は珍しくはないですが、特に美里さんの妹さんは重度のシスコンですから、知れると面倒臭いかも知れませんしね。」
「ああ、そうするよ。しかし妹さんがシスコンねぇ……っ!?」
神斗が軽口を叩いて笑うと、翔も釣られて苦笑した。だが次の瞬間、視界の外から神斗に対する重い殺気を感じて、翔はとっさに魔法を遮断するバリアを展開した。
「っ……み、美里!? 何て事をするんだ!!」
「翔さん、今すぐその下郎から離れて下さい。……命ちゃんに聞きましたよ? その人が今日行った翔さんへの無礼を。翔さんの体調が悪かったにも関わらず決闘などと言う前時代的な代物で翔さんに怪我をさせようとしました。その罪は他の誰が許しても私が絶対に許しません、極刑です。」
……あれを言っちゃったのか命は。まぁ、確かに美里に隠して置くのはいけないかも知れないけど、一応気にしてないって正影さんにも言ってあるしなー……面倒な事をしてくれた気がする。
「まぁ落ち着けって、俺はもう気にしてないんだから。」
「ですが、翔さんが私に釣り合わないなどと、無礼もいいところです!! それに翔さんは病み上がりだったのでしょう? 翔さんも翔さんですよ、そんな状態で無茶をしてはいけません。……いえ、どんな状態であろうともうあんな事はしないで下さい。魔法の医療だって完全ではないのです。現実世界での戦闘はそんなに簡単に行って良い事ではないのですよ? 取り返しのつかない事態になってからでは遅いのです……。」
「あー……まぁ、それは分かってるんだけど……。」
段々と語尾を小さくする美里に、翔が歯切れの悪い返答をすると、美里は翔に非難する様な視線を向けた。……美里にこんな視線をぶつけられたのは初めてかも知れない。
「……もしこれから無茶をして翔さんが傷付くような事があれば、私も自分で同じだけの傷を負いますから………良いですね!?」
「わ、分かった。分かったから泣かないでくれ。……美里に泣かれると何も言えなくなる。」
「……じゃあ、約束して下さい。」
最初は神斗への怒りが前面に出ていた美里が、段々と翔に矛先を向けて来て最終的には瞳を潤ませて泣き付かれるという事態に、流石の翔も困ってしまいどうして良いか分からなくなってしまった。神斗に視線を送ると、少しばつが悪そうに視線を逸らされた。いや、ここで神斗に助けを求めるのは間違いだろう。少なくとも美里は自分の為に泣いているのだし、そもそも自分以外が何か言った所で無駄な気がする。
「分かった、もうしないから許してくれるか、美里?」
「ほ、本当ですか……? 本当にもうしませんか?」
「ああしないよ、約束する。だから泣かないでくれ。美里に泣かれると、どうしていいか分からなくなるんだ。」
翔が何とか分かって貰おうと美里の眼を見て真面目に答えると、美里も翔の意思が伝わったのか追求を止めた。やはり今日はこれからあまり美里を刺激しないほうが良いかもしれない。翔の安否や状態に対しての感情が不安定になっているみたいだと翔は推測した。
「………それでは僕はこの辺で。」
「………待ちなさい。貴方を許した訳ではありませんよ?」
「…………。」
神斗が逃げ出そうとした途端に美里の眼が細まり、殺気が復活した。……翔は、美里が泣き止んでも結局何も解決していない事を思い出した。……しかし、美里の口から出たのは翔も予想外の言葉だった。
「……事の顛末は全て聞きました。命ちゃんは分かっていないようでしたが、姉想いの弟さんの事です、色々考えての事だったのでしょう?」
「え……?」
「……相変わらず鋭い人ですね。」
美里は呆れた様な、しかし見下すというわけではない表情でそういった。翔には理解出来なかったが、美里は何か察しているらしく、神斗は苦笑した。
「確かに、命ちゃんの事があるとはいえ、その為に翔さんを傷付けるかも知れなかったというのは許せません。ですが、今回は翔さん自身も乗ってしまいましたし、結果的に無事でしたから、翔さんが許している今、私が何か言う気はありません。翔さんの無事を確認する前でしたら……話は変わっていたでしょうが。」
「……それは怖い話ですね。でも、さっきの攻撃も篠原さんが防いでくれなかったらと思うとぞっとしますよ。」
「大丈夫ですよ。ギリギリで弾道が変わるように撃ちましたから。私だって翔さんが悲しむ事は望みません。翔さんは私が誰かの命に魔法を向ければきっと悲しみますから。貴方の為ではありません。」
「まぁ、そうだな。さっきみたいのはもう勘弁して欲しい。」
正直、美里がむやみやたらに人を傷付けるとは思えなかったが、翔の事になると敏感過ぎるのが難点だ。
「ですが、それを踏まえても許せない事があります。」
いきなり美里の眼が鋭くなったのが翔にも分かった。神斗も一歩後退る。
「翔さんの身体や心が傷ついても、私が全て癒して差し上げられます。だから私は常に翔さんの傍にいなければなりません。」
「えっと……つまりどういう事でしょう?」
ああ、何となく美里の言う事が分かった気がするなぁ。でもこれって、つまりあれだよな。
「許せないのは、貴方が私と翔さんを引き裂こうとした事です。貴方は私から翔さんを奪おうとしました。」
「えっと………つまり、惚気ですか?」
「……済まないな、なんか。」
「いえ、その……。変わりましたね、美里さんも。」
神斗が半分呆れた様な表情で翔に確認を取ると、翔は少し申し訳なさそうな笑みを零しながら謝罪した。
「私が翔さんと会って変化したのは認めますが、惚気でも何でも今は関係ありません。貴方がやった事は九条院に対する、そして私に対する明らかな裏切りです。どんな思惑にしろ、子供の喧嘩や悪戯で済む事ではありません。」
「いやまぁ、確かにそうなんですけどね。美里さんが報復してくるには十分な理由があるわけですが………。」
どうしたものかと考える神斗と、今だに殺気放ちまくりの美里の間で、翔も多少居心地が悪くなって来たので、取り敢えず美里の怒りを鎮める事にする。美里の言い分も分かるが、これはもう済んだ問題なのだから。……それに神斗の、命の為と言う思惑が微妙に理解出来た気もする。正直ただのお節介と言ってしまえばそれまでだが。
「……美里、俺はもう正影さんにも気にしていないって言ったんだ。だからその話はもう終わりにしよう。」
「で、ですが……。」
翔が美里に諭すようにそう言うと、美里は不満そうに翔を見上げた。神斗はホッとしたような表情をして、少し頭を下げた。翔に任せるという意思表示だろうか。
「美里は俺が、あんな何の拘束力もない勝負に負けたくらいで、本当に美里から離れると思ってるのか? そんなわけないだろ?」
「そ、そんな事はありません!! 私は、何もそういう事を言っているのではなくてですねっ!?」
「確かに神斗君の行動は褒められたものじゃないし、裏切りとも取れるかもしれないけど、もう反省してるみたいだし、これ以上言っても逆効果だと思わないか?」
「……ううっ……それは確かにそうなのですが……。」
「それに、今回の事も半分くらいは……俺の責任なんだよ、美里。」
「……先程の事ですか? 翔さんはしつこく付き纏われたと聞いていますし、挑発されたと受けとって構わない内容でしょう。翔さんに非はありません。私としても、今後翔さんへの被害だけ注意して頂ければ……。」
「あ、ああ、確かに神斗君の責任は勿論あるんだけど……。」
確かに現実問題、美里の言い分は正しいとはいえ、翔が自分の責任を話す前から美里が翔に対して甘過ぎるのは、翔も神斗もスルーの方向だ。美里はというと、翔に何の責任があるのかと言った様子で小首を傾げている。ナチュラルな上目遣いと唇に当てられた人差し指が可愛く思えるのは、翔もこの際スルーする。今はスルーしないと美里を甘やかして終わってしまう。……いや、今から言う事もある意味同じ結末を迎えるのかも知れないが。美里が翔に甘くなってしまう事を嬉しく思ってしまう時点で自分には美里を注意出来ないのかも知れないな、と翔は自嘲した。
「あのな、美里。あの試合を受けたのは、しつこかったのも、挑発されたのも関係なくて、決断した理由自体は俺の個人的な事なんだ。」
「……それは、どういう事ですか?」
「ああ、美里は九条院の跡取りだからな、婿として俺を扱うとしても、美里自身が影響力の強い九条院本家は良いとして、眼の届きにくい分家や他の筋からはこういった形にしろ、違う形にしろ、何かしらの横槍は予想はしてたんだ。強制で政略結婚はなかったにしても、美里の隣を狙ってた奴なんて幾らでもいるだろうしな。だけどやっぱり、何となく自分の中で納得がいかなくてね。何で俺と美里が釣り合わないだの何だのって、そういう風に言われなきゃならないのか、何で皆快く祝ってくれないんだってな。まぁ、神斗君にはもう話しちゃったから言うけど、俺と他の三人の事まで知ってたら、倫理的な事もあるし、何か言われても仕方ないとは思うけどな? だから正直理由としては、かなり苛立ってたからって部分はあると思う。実際、神斗君の決闘する本当の理由を聞き出すにしても、俺が本当に決闘なんかする必要なかったしな。美里への好意が嘘かくらいは分かってたし。」
「それはまぁ……そうですね。篠原さんには色々とばれていたみたいですね。」
「そうだったのですか……翔さんが……。」
翔がそういうと、美里は考え込む様に俯いた。翔は事実を言っただけだ。本当にそういう部分は翔にもあった。翔は元より理不尽な物事には不快感を覚える事も多かったのは事実だ。確かに大部分の責任は神斗にあるが、翔としてはあまり責任の追求などはしたくなかったのだ。何よりこの責任と言うのは翔が美里の夫だからという部分が大きい。あまりそういう力関係は好きではない。美里もそのあたりは理解してくれるだろう。
「美里、俺がそういうの嫌いなのは分かるだろ? 今回は許して上げような?」
「……分かりました。申し訳ありませんでした翔さん、弟さんも。」
「いえ、責任の追求は当たり前の事ですし。」
美里が頭を下げると、神斗は少し焦りながら頭を下げた。……もしかしたら、命はこのわだかまりを後に残したくないから美里に言ったのかも知れないな、と翔は思った。
「ですが、翔さんが不快感を覚えるようでしたら、少し考えねばなりませんね。」
「……あんまり無茶はしないでくれよ?」
「ふふっ、翔さんが悲しむ危険性がある事はしません。私が傷付くのは、翔さんが傷付く時だけですから。」
美里はそういって、翔の腕に抱き着いた。神斗はそれを見て苦笑し、邪魔にならない様にと後退りをした。だが、それに気付いた美里が何かを思い出した様に口を開いて、それを引き止めた。
「ああ、待って下さい。貴方にはまだ聞きたい事が一つあるのです。今聞いておくのが一番都合が良いものですから。……お時間を頂いても宜しいですか? 出来れば、二人で話せると良いのですが……。」
「え? ええ、僕は構いませんが……。」
「ん、それじゃあ俺は先に部屋へ行ってるよ。」
「はい。……あ、でも翔さん勘違いしないで下さいね? 私が翔さんより弟さんと話がしたいなー、と思っている訳では決してないのでっ!!」
「大丈夫だよ、流石にそこまで疑い深くない。」
翔が美里から離れた途端に美里が言った言葉に、呆れている様な、照れている様な、そんな曖昧な表情を見せて、翔は立ち去った。神斗もそれを見て苦笑していたが、翔の気配が消えた後、美里の方を見ると、神斗は真面目な顔にならざるえなかった。
「単刀直入に聞きます。翔さんと戦って見てどうでしたか?」
「はい? どうって言われても……強かったですよ? あれじゃあ強いとか弱いとか言うレベルの話にすらなりませんが。」
「……そういう事ではありません。違和感と言うかなんというか……そういう物はありませんでしたか?」
「……難しい質問ですね……。それに、意図が全く分からないんですが? どうされたんです?」
神斗は歯切れの悪い美里を不審に思いながらそういった。美里は溜息とも嘆息とも取れる様な息をついた。
「不安なのです……あの人が。」
「不安? 何がです? あの人なら多少風当たりが強くても立派に婿になれると思いますが。」
「そうではありません。」
美里は何かを思い出すように神斗から視線を外し、庭の方を見た。
「少し前まで、翔さんに受け入れて頂くまでは、こんな事不安にも思いませんでした。私は……大勢の方が噂していらっしゃいますが、気配や雰囲気に異常に敏感です。魔力のせいもあるかも知れませんが、その人の所在が分かるだけでなく、果ては人の悪意や下心、どんな気持ちでいるのかさえ読み取れます。人だけではありません、全ての物の事が分かるような感じさえするのです。気持ちや感情が、確かめようがないような物まで……。眼を閉じていても、この屋敷の全ての人々の事くらいは分かりますよ? 凄いでしょう?」
「……成る程、噂は本当でしたか……。でも貴方が潔癖症になるのも、分かるかも知れません。」
神斗が言うと、美里はクスリと笑った。自嘲しているような感じさえ受ける。人はそこまで純粋には生きられない。あの普段純粋過ぎる程の命でさえ、恋をしただけで言葉に淀みが出る。そういう物だと神斗は思っている。それなのにあくまで純粋な物や花の様な意思のない生き物の、有るはずのない『意思』まで汲み取れてしまうのだ。一度、人と比べてしまえば潔癖症にもなろうというものだ。命は良くも悪くも剣に、人々の中では純粋だった。美里はそれもあって命を友としたのだろうと神斗は推測した。
「翔さんと出会った時は、それはもう驚きましたよ。放心のあまり前方不注意で翔さんに迷惑をかけてしまいました。だってあんなに心が澄んだ綺麗な方、世界中探しても他にはいません。婚約の事もあって、私は狂喜しました。それに翔さんの事は、命ちゃんから聞いていましたから……ずっと前から。」
「そうみたいですね……。」
「それから、学院であの方と再開して、私は運命を感じました。純粋と言っても悪意や傲慢でない、だと言うのにあんなにも自分に素直でいられる。花や自然の物でない、本心に奇跡の様な方……。そうでありながら、翔さんは優しい方でした。きっと他の人にも分かるのでしょうね、多くの時間を共にしたわけではなくとも、本当に自分の味方をしてくれるのが誰なのか、分かってくれようとするのが誰なのかが、本能で。」
神斗は黙って美里が話すのを聞いていた。きっと当人の翔でさえ、こんな美里の本心を聞いたことはないだろう。だが、きっと必要なのだろう、自分にこれを話す事が。
「私も翔さんに惹かれました。会う度に心地好さに包まれて、翔さんと居るときだけは周りのどんな悪意や下心、嫉妬や汚い欲望さえも霞みました。それが気にならなくなったおかげで、今まで以上に良好な友人関係も築けました。……あの方は私がお慕いするには十分過ぎる程の方だったのです……。」
美里の話を聞いていれば、当人でない神斗にも、あらかた恋慕する理由は分かった。美里は人の一番正直な部分を見抜く、だからこそ、自分がもっとも安心出来る、淀みない純粋さをもった翔を好きになった。……だが、どうしても神斗は引っ掛かる部分があった。
「そして、私は翔さんと結ばれました。それが恋かどうかは、私にはまだ分かりませんでした。ただ幸福で、心地好くて、でも……私は気付いてしまったんです。今日のデートで、翔さんの瞳から、感情の淀みもなく涙が流れたのを見て、私は思ってしまいました。……あれじゃあ、まるで……。」
「まるで……?」
神斗は自分自身の引っ掛かりについて思案する事を止めた。いや、止めざるえない状況がそこにあった。人前では滅多な事では、いや、全くと言って良いほどに恐れなど示さない美里が、青ざめた顔で、自分の体を抱える様にして震えているのだ。
「あれじゃあまるで……壊れた御人形みたいだなって……。純粋なんじゃなくて、最初から悪意も傲慢さもない、心がないだけの人形なんじゃないかなって……。」
「そんなわけ……ないでしょう?」
神斗も、そう言いつつ思ってしまった。引っ掛かっていたのはそういう事だ。悪意はともかくとして、淀みのない人間は存在しない。そもそも先程翔が言っていたではないか、翔が神斗を弁護する時に、人間らしい不快感を。明らかに異常だ、美里の話を聞く限り、翔が純粋で淀みがないという事は単純に何があっても何も感じないと言う事なのだから。
「良く考えて見ればおかしいのです。私は翔さんに陶酔するあまり、見えていなかったのかも知れません、翔さんの異常が。心地好い感覚に溺れて、あの瞳を見ていても気付けなかった……。」
美里はそういうとまた俯いてしまった。神斗も何もいう事は出来ない。美里の思い過ごしの可能性もある。寧ろその可能性は高いだろう。心がない人間などいないし、人形であるならそれはそれで気付く。……だが、本当にただの思い過ごしなのだろうか? 神斗がそう考えていると、美里が突然笑い出した。神斗はギョッっとしてそちらを向く。
「ふふっ、ごめんなさい。……でも皮肉な物ですね。私は、翔さんを失う事になるかも知れないと怖くなったと同時に、自分の気持ちに気付いたんですから………この人だけは何があっても絶対に失いたくない、離れたくない、ずっと傍に居たいって。………本当は、私は翔さんがなんであろうと、もう構わないんです。……私は、翔さんの傍にいる内に、いつの間にか、心の底から翔さんの事が好きになってしまっていたんです。これが恋なんだって、人を好きになるって事なんだって、私は翔さんの異常に気付くと同時に気付きました。………もう私には、翔さんじゃなくちゃ駄目なんです。あの人がもし、奇跡の様な純粋な人でなくて、他の方の様な『普通の人間』だったとしても、私はあの人だけを愛し続けます。気付いてしまったんです、自分の翔さんへの想いを。それに私は嬉しいんです、今翔さんを愛する為だけに生きていきたいって、そう思える事が。」
「……そうですね、あの人なら。きっと貴方も幸せになれますよ。」
「当たり前です。私が生涯でただ一人、心から愛するお方なのですから。」
美里はそういって、綺麗に微笑んだ。神斗はその笑顔を見ながら、一つだけ、先程の戦闘で気になった事がある事を思い出した。ほんの些細な事なので今の今まで忘れていたが。美里の話を聞いていたら、言った方が言いように思えてきたのだ。
「……そういえば、篠原さん。最後に僕に馬乗りになった時に……………」
「え………?」
神斗が話し出すと、美里の表情が驚愕に変わった。暫く経って、神斗が立ち去った後も、暫く美里はその場で立ち尽くしたままだった。