Ⅴ
◆◆◆
少女の出て行った後の操舵室は、棺桶に片足を突っ込んだ人間が二人残されただけだった。
全身が痛み、どこが致命傷かどうかも分からないくらいだが、腹の穴がその存在を定期的に訴えてくる。
「…何故、船なんだ…」
まだ解けていない謎はたくさんあった。
瞼を上げているのも億劫で、閉じた目のまま問いかけた。
「くく……俺も、たいがいひでェ事ばっかやってきたが、あんたら王族ってのはもっとひでェや」
相手の声が、おれのものよりしっかりしている事に気づいて、小さく目を開き本人の姿を探す。
腹に刺さったままのおれの剣をおさえて、仰向けに寝転がっている。
半分死人のような姿を確認し、また目を閉じる。
「自分の擁護する王子が、生まれ順でいったら下でさ。秘密裏に他の王子たちを殺すのに場所と人間を必要とした。さすがに王宮で人を殺すわけにはいかないらしいな。見つけたのは、金で言う事を聞く犯罪者たちと、船だ。やつらどこか人気のない家屋でもほしかったらしいが、人生そう上手くはいかねェ。まあ、船は海上に乗り出してしまえば、ばっくれやすいってもんで結果的にはよかったらしい」
男は、唾――あるいは血――でも撒き散らすかのように咳き込んだ。
「まずは手始めに、護衛も少ないあんただったってわけさ、第八王子」
何気なく聞き逃してしまいそうになったが、その可能性に気がついて、戦慄した。
まずは。
手始めに、第八王子。次は、第三王子。それから、第五王子にも手はのびる。そう、言おうというのか? この男は。この男の背後に居る人間は。
次が待っているから、特定の場所――一軒家は無理だったから――一隻の船が、必要だったのだ。また次も使うから。
権力のために、人を殺す。
次々に。
おれは……これで、いいのか?
このままで、いいのだろうか……?
自分に王位が回ってくる事はないだろうと、真実から目をそむけてはいないと、政治には、王宮内の闘争には興味を向けないできていた。
そんな自分だからこそ、特異な育ちだからこそ、伯母以外には誰にも目をつけられず、玉座争いの中に巻き込まれずにすんでいた。伯母も、あれでいて本当の息子ではないため完全におれを掌握は出来ていない。
それで良いと思っていた。政治の事はほとんど分からないし、上層部もおれを必要としていないのがよく分かっていたから、関わる事をしてこなかった。
だが、こうして狙われた今。次があるなどと、企てる者の存在を知った今。
見て見ぬふりなど―――…。
「依頼主は、誰だ」
黒幕の存在など、雇われでも口にはしないだろうが、知らず口をついていた。
「今頃それを聞くかねェ」
友人に軽口をたたくかのような、男の言い草が癪に障る。
やはり聞いても無駄なのだ。
「いい事を教えてやろう」
代わりに男は、妙な優越感のにじんだ声で笑った。
「ここは海上の船の中でも、まだ沖にすら出ていない船の中さ。人を一時的に監禁した後、殺す場所だったらどこでもいい。別に海洋に乗り出す必要はなかったんだ」
まだ、港に居る。
そう言われたも同じだった。
まさかと思い顔を上げる。
男の顔は、眠ったように安らかなものだった。
「それは、本当か…?」
「疑い深い王子様だな。お前は、本当に……」
男の声はそれ以上聞き取る事が出来なかった。
どかどかと荒い足音と共に、仰天したような人間の声がいくつも上がる。
「本当だ、人が死んでやがる…!」
「いえ、そちらではなく! こっちです…!」
誰よりも聞きたかった者の声が遠くにあって、おれは安心したのかもしれない。
目を閉じると、柔らかな闇がおれを眠りに誘っていた。
◇◇◇
船を駈けずりまわり、私は甲板へと続く戸を見つけて、外へと飛び出した。
海洋に居るのだから、無意味な事と思いつつ、ボートを浮かべるのならいずれは甲板に出る必要があるのだと分かっていたからだ。
空は、漆黒の月のない夜だった。
冷えた空気に身を震わせて、ボートを探すために素早く首を回す。
そこには、信じられない光景が広がっていた。
しかしとても素晴らしい景色が。
夜の港町。
明かりはあまりなく、出歩く人もほとんどないが、道なりに内陸へと視線を進めると酒場でもあるのか、凝った明かりとにぎやかな声が遠くに聞こえてくる。
酔っ払いの馬鹿騒ぎが、今は天使の奏楽よりも有り難いものに思えた。
私たち、海に出ていなかったんだわ!
この様子では錨もまだ下ろされたままだろう。
そんな事より、あんなに願った陸地がこんなにもすぐ傍にあるというのなら、ただ立っているわけにはいかない。
助けを呼ばなくては。
大抵の町には警備隊が居るはずだ。いや、その前に医者だ。城の人間に知らせるよりも早く、彼の命を。
船には、船内と桟橋をつなぐような便利な代物は一切かかっていなかった。
ボートを探す暇もおしくて、決意よりも早く、海に飛び込んでいた。
身なりはいいが、全身がずぶぬれの娘を見て男たちはどう思っただろう。
とにかく人が大勢居る場所を目指して一心に走った。海水を多く吸い込んだドレスが重い。こんなもの、身を飾ってもいざという時には何の役にも立たない。
それは酒場だったのだろうか、確認する間もなく助けを呼んだ。
人が船で死にかけていると、叫んだはずだ。
気ばかり急いていて、私の言葉は支離滅裂だっただろう。
それなのに、男たちは緊急事態をすぐに察して、親身になってくれるどころか私に怪我人までの道案内を頼んだ。誰かが医者を呼んでくるという言葉に安心して、私は船へと取って返した。
男たちは港町の者だ、元より海や船には詳しいのだろう。あっという間に船の中に大勢で乗り込み、上手く動けない私まで抱え上げて船内に浸入した。
「げっ、なんだあこりゃあ…」
船室のあちこちに、殿下の気絶させた賊の姿があって、死屍累々、という光景に町の者はおののいていた。
気絶しているだけだと言うとなると誰がそうさせたのかを口にする事になり、あの人までも要らぬ嫌疑をかけられるかもしれないと、私は口をつぐんだままに通り過ぎた。
何より、彼の事が頭の隅々を占領していたから。
今もまた体中の血を外に出してしまっているに違いない。
操舵室の扉を、蹴るように開ける。
「殿下!!」
死んだように動かない、少年。
まさか。
そんな、そんなことは、だめだ。
ゆるさない。
私が、私がやっとあなたを見つけられたのに。
どうして。
すがりつく私になだめる声。
「運び出す…いや、この傷は動かさない方がいいか…?」
「医者の先生をここに呼べ」
冷たい、体。
この腕がついこの間、私に触れていたなんて…信じられない。
両手で片手を取っても、ぴくりとも動かない。
せめて瞼を開いて、お願いだから。
こわい。
息が、出来ない。
お願い…息を、して。私に、息をさせて。呼吸を楽にさせて。
口を開いて。
私の名前を呼んで。
唇に、息をしているか確かめるために近づく。
私の気が動転しているからか、何も感じられない。そんなはずはない。
だって、あの時、この唇が私の額にキスをくれたじゃない。
お願い。
私の涙を止めるのは、あなたしかいないのに。
息が出来ないの。
私に呼吸をさせるのは、あなたなのに。
息を吹き返すには、口から息を吹き込めばいいと聞く。
そうだ。彼が出来ないのなら、私が息を吹き込めば……。
「………ろう…な」
「先生!」
医者の訪れで、かき消された彼の声。
でも、今、確かに口を開いた!
「殿下! 殿下、殿下…!!」
私は耳を彼の口元に寄せた。一語たりとも聞き逃すものか。
さっきの彼の言葉は、全ては聞き取れなかった。
「…なき……ばかり、……ている…」
今度も、彼の中では文章になっているだろうに、口が言う事を聞いてくれないのだろう。切れ切れになったそれは、私の想像力でも補うには事足りず、意味をなさない記号になる。
「嬢ちゃん、どいてくれ」
「どうなんだ、先生」
「こりゃまずい…何でもいい、止血を!」
医者と思しき男性が、助手らしい男に何かを言う。
私は暴れながらも取り押さえられ、彼の元から引き離された。
「お願い、彼の傍に…!」
居させて。
だって、あのひとは、何といったの?
だって、あのひとはどうして怪我を負ったと思うの?
私という、足手まといがいなければ。
私のせいで。
今にもその命のともし火が消えようとしている。
「頼むよ嬢ちゃん、おれたちに出来る事は祈る事しかねえ…」
人の死を今までに見てきたような目で、町の男は私をなだめた。
とはいえ、それが今の私とはつながらなくて、ひどく薄情に見える。
「でも…だって!」
私の睨むような瞳に、見当違いの怒りを向けるなと彼らは思っただろうか。
それを確認する術もなく、私は更に彼から遠ざけられる事になる。
「これは一体どういう騒ぎだ」
「警備隊のやつら、来るのが遅いぜ…」
狭い操舵室を殊更狭めようと、制服を着た男たちが押し寄せる。
「ええい、埃をたてるな!」
医者の非難を受けて、警備隊員たちが大怪我をした人間に目を向ける。
「…まさか、第八王子殿下では…!」
彼の身分が判明してからは、私の口を挟める余地はほんのわずかも存在しなかった。
時間は幾分たったが、空が白くなるよりも早く、彼らはやってきた。どのくらい馬を飛ばしたのか、慌てて転がり込むように王宮の騎士たちが現れ、まだ目を覚まさない王子に顔を青ざめさせた。
動かすなという医者の忠告を無視して、彼ら王宮の人間は第八王子を連れ出すと、どこに向かうのかという問いにも答えずに彼の身柄をどこかへと隠した。
それから、私にも王宮の人間は立ちはだかる。
貴女の身柄を預かります。と言ったかどうかも定かではなく、自由に動く事を禁じられ、しばらくはどこだか場所の分からない家で軟禁状態にされる。
私の事はどうでもよかった。
ただ彼の安否が分からないまま時をすごすのは、拷問と同じだった。
私は信じるしかなく、便りがないのは元気な証拠、良い知らせ。と自身を騙すしか手はなかった。
「先日、第八王子殿下の意識が戻りました」
その報せは、実に簡素なものだった。
私の軟禁が解けたのも、そのためだ。
全身の強ばっていた筋肉が弛緩するような押し寄せる安堵に、詳細を尋ねたくなる。しかし王宮の者はそれ以上を教えようとしなかった。
いずれは人の口にはのるだろうがと前置きして、その者は私にもかん口令を敷いた。
有無をいわさず屋敷に帰されて、家主とその妻にもどういう通達が行ったのか、しばらくは自分の屋敷でも外出を禁じられた。
誘拐された娘が事件のほとぼとりも冷めないうちに出歩くのは外聞が悪いのだろう。
母上は何も聞かない、何も言わない。
そして私には王宮からもれ聞く噂以外に、誘拐され瀕死の重体に陥った第八王子の消息は知らされる事はなかった。