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   ◆◆◆


 何度夢に見たか。

 そう呼びたくないのに、悪夢という形を作って。

 楽しい思い出は、いっぱいあった。旅は辛く、時には泣き言もたくさん吐いた。

 しかしいつも励まされた。勇気をもらった。生きる事を教わった。

 あんなにも、満ち足りた生活は他にない。

 それなのに、夢に見るのはいつもあの日。

 彼が殺される日。

 城の者に殺される時もある。自分の手で殺す時もある。

 おれを苛むその悪夢は、いつだって悪夢のままで、旅の途中を映そうとはしない。

 お前が殺した

 お前が殺した

 お ま え が こ ろ し た

 お前が殺したんだ、あの人を。

 それ、なのに。

 彼がいつか、また旅を始めたおれの目の前に、なんてことのない日常の続きとして、現れて、くれるんじゃ、ないかって。

 思う。

 勝手過ぎるのは分かっている。

 だがもう一度彼に会えたら。

 そうなったならおれは。

「―――――…ししょう!!!!」

 彼が、居た。

 操舵室に悠々と胡座をかいて。

 師匠。

 おれを育てた人。

 師匠。

 おれを人間にした人。

 師匠。

 おれが殺した人。

「師匠ォォッッ!!!!」

 何故。どうして。何故彼がここに。彼は死んだ。彼はおれが殺した。彼は二度と戻らない。

 彼は――そうやって二度と顔を見せないからとこんなにもおれは――おれは!!

「師匠! 師匠! 何故っ! 何故あなたがここに!!!?」

 信じたいのに信じたられなかった。

 あんなにも奇跡を望んだのに。

 でも。しかし。だから。それは。

「あなたは……ッ…!! あの時、土の中に……っ!!」

 後ろの少女が酷く困惑しているのに構っていられなかった。

「あなたは……死んだ、はず…!」

 おれが殺したのだから。あの時の、己の弱さが招いた命の喪失。彼は、自分が殺したも同然。

 何故。

「………お前、オレがあれしきで死ぬと思ってたのかァ?」

 瞬時に、察した。

 自分を責めるな。

 死ぬ間際、師匠は言った。おれを最後まで気遣っていた。

 あの師匠と、この目の前に居る師匠は、違う。

 何かがとはいえないが、違う。

 おれは、その可能性を――よりによって奇跡を信じない事にした。



 その男は、舵輪に片手をのせながら、ゆったりとして言った。

「それで? そっちのお嬢ちゃんとはどうしたんだい、王子」

 少女がびくりと震えるのが分かる。

 ほら、彼女にも分かるんじゃないか。

 目の前の師匠の顔をした誰かは一つ、間違いを犯した。

 師匠は決しておれを“王子”などとは呼ばなかった。

 この男は、師匠などではない。

 やっとはっきりと分かると、むしろ安心したのが不思議だった。あれほど幽霊でもいいと思い切望した相手が、偽者と分かって安堵するなんて。

 だが断定できる。

 目の前の男の、粗野な物言い、濁った瞳、薄笑い。

 武人でありながらどこか洗練された物腰を持っていた、師匠の素振りの欠片もこの男からは見つけられない。

 こんな人間、たとえ同じ顔であろうとも師匠であるはずがない。同じ顔であるからこそ、その中身の違いがにじむ顔が許せない。

 偽者をつくるのなら、もっとましなものを寄こせ。

「……師匠、何故今まで手紙ひとつくれなかったんですか」

 声の平坦さに、おれの背で彼女が小さく息を吐いていた。おれが冷静さを取り戻した事に安堵したのか、おれがまだ師匠が生きていると信じこむフリをしている事に気がついたのかは、分からない。

 あの男は許せない。

 だが、まだ偽者であるとおれが気づいていない演技をしなければならない。相手は手練だ。おそらくは本物の師匠ほどの腕は持っていないだろうが、かなり――強い。

 男を油断させておかなければならない。そのためにはまず、自分の正体がばれていると敵に悟らせては駄目だ。

 短く、自然な動作で手の中の剣を握り直す。汗ですべり落ちそうだが、意志でそれをねじ伏せた。

 後ろ手で、背後の少女の手を探る。それを握ると、現実と自分がつながっていくのが分かる。

 そうだ。この手だけは守らなくてはならない。

「あなたが…生きていたらと思っていたんですよ…」

 お芝居を続ける。虚しさがつのる。言葉だけは、本物だった。本当の師匠に会えたらと。

 おれの物言いに、男は何も気づいていないようだ。偽者だから当然だ。おれは師匠に敬語など使うなと言われ、慣れるまでは何度も彼の嫌そうな顔を見た。

 師匠はおれを対等に扱ってくれた。だから、敬語なんか使うんじゃねえ、とあんなに言ったじゃないか。

 そうだ。確かに王宮は人の死を認識させるのに一役かったようだ。

 師匠は死んだ。

 男の顔が、師匠に似ているだけの他人に見えてきた。

 ためらいはあれど、おれはこの師匠の顔をした誰かを屠る事が出来る。

 もうその顔を見ていたくもない。

 ただその前に、彼女を安全な場所に避難させる必要がある。

 おれが人殺しになる様も、見せたくない。

 そもそも、何故連れてきたのか。彼女がついて来ると言って聞かなかったのと、一人だと危ないと判断したからだが、今この場にいてはおれは彼女に気を配れるほどの余裕がない。

 せめて、この部屋から出ていてもらうか。それをささやきかけようと、首を曲げた。

「…余所見はいけねえなァ、王子様よ?」

 集中を他所へ逸らした瞬間に、男は一足跳びで目前まで迫って来た! 鋭利な剣を伴って。突きつけられたその切っ先は、おれの背後の少女にも向けられているように感じる。

 背中の彼女が声もなく息をのむ。油断、した。

 まさか、操舵手でもあるはずの男が舵を放って跳んでくるとは思わなかったのだ。

 男のどこか嗜虐性を含んだ眼差しは、おれの芝居がばれてしまっている事を物語っていた。

 それでも、師に剣を向けられて不機嫌になった弟子を演じる。

「どういう事です、師匠…」

「もう芝居は結構だ。術はそろそろ解ける頃だろうしなァ」

 訳が分からなくて、おれは顔をしかめる。

 男はどこか師匠に似た顔を愉快そうにゆがめる。

 その手に取ったのは、机に置いてあった香炉のような卵型の物体。見落としてしまいそうな程うっすらとした煙がそこから出ている。細くたなびく煙は、弱くなっていた。

「試しに、と思ってやったんだが。俺を見た人間が亡くした者の姿に見えるってヤツらしい」

「何を……」

 今や、師匠の顔をしていた男はほとんど別人になりつつあった。

 その変貌が、かえっておれの精神をゆるがした。こんなにも師匠に似ていない男が今まで師匠に見えていた自分が信じられない。

 疑問はたくさんあった。術とは何で、どういうつもりでそれを使ったのか。何のために。何が、ここまでさせるんだ。

 手の中をすべり落ちていきそうな剣の柄を、止めるように彼女の両手が包む。

「どうして、私を…私たちをここへ?」

 彼女にも問いたい事はたくさんあっただろう。それらを押し留めるような声音で、いや、恐怖も、躊躇も不安も何もかもを押し殺して声を出していた。

 そうだ。何故、王子であるおれではなく彼女を真っ先に狙ったのか。

 目と鼻の先に剣があるのも忘れ、挑むように返答を待つ。

 相手に答えるつもりがあるならば、それを待つ。

「何、嬢ちゃんを狙った訳じゃない。第八王子をおびきよせる餌になれば、誰でもよかったんだ」

 ―――やはり、おれなのか。おれのせいで、彼女は、誘拐事件に巻きこまれた。

 胸が、焦げるように焼きついた。

 賊に襲われた時、おれは一人だった。その気を引くために近くに居合わせただけの少女に目をつけた。王子を捕まえた後は、口封じに?

 思うと、彼女が生きてここへ連れてこられた事が奇跡のように思えてきた。王宮かどこかで殺されてもおかしくなかったんだ、おれが狙いだったのなら。

 全身が総毛立つ。

「第八王子、あんたは他のやつらの暗躍でひどく王位に近づいた。精力的に政敵を排除する人間ばかりだろう、王宮は。あんたが生まれた頃には上に五人居た王子たちが、今や二人だ」

 それは真実だった。こんなところにつながるとは、思ってもいなかったが。

 国王には死んだ正妃の他に大勢の側室が居る。当然子どもであり王位継承者である息子もその数に比例する。男児は、末の第十二王子の示す通り十二人は居たはずだ。

 おれが生まれる前に、二人の王子が死んでいる。病気や事故か、それとも殺人かは飛び交う噂が多すぎで定かではないが、とにかく第二と第四の王子が既に他界。

 王宮を不在にしている間に、おれの伯母の息子――第六王子――が死んだ。おれが戻ってきてからは他に三人。

 第八のおれの上には二人、第三王子と第五王子しか生き残っていなかった。

 疑うべきはむしろ、第九以下の王子たちの背後―――かもしれないが、その真偽は闇の中だ。

「いくら何でも死にすぎだよなァ。だがまあ、お前さんの番が来たって訳だ、第八王子」

 世に、死神というものが存在するというのなら、そういう口をきいただろうか。

 人はいずれ死ぬ。お前の順番が明日にでも回ってこない謂れはない。

 まるで死神のようだ。

 人の死後の白骨化した姿で現れる死の擬人像。

 人間の命を順番に狩っていく、死。

「誰が、あなたのような者にやるものですか」

 我に返った。

 男は歪んだ笑みでおれの背後を見やる。

 そうだ。

 おれの命も、彼女の命も、誰にもやる訳にはいかない。彼女を無事家に帰すには今、おれの命も必要だ。

「そういう事だ」

 無理矢理に口の端を上げる事に成功した。今一度、剣の柄を握る。

 ためらいはあった。だが、今しばらくの辛抱だと――罪悪感を消すために自分にも忍耐を必要とさせ――言い聞かせて、手を突き出した。

 守るべき、娘にむかって。

 間合いの中に居る敵と、少女。

 男がどいてくれる訳がないから、彼女を剣戟の円からはじき出す必要があった。それも、敵の意表をつくため、予告なしに。

 小さな悲鳴を上げた少女は、おれをどんな瞳で見ただろうか。確認する暇もなく、男は剣を振り上げていた。

 狭い操舵室、少女から離れるために防戦一方になるが、構わない。

 それと、もう一つ。

「舵を取っていてくれ!」

 ここが海上なら、舵輪を放置しておくのは危険だ。気候が安定してようと、安全な海域でも、どういうつもりでこの賊が舵を手放したのか目を疑う。好戦的な眼差しが剣を振るって、目の前に居るのが事実だが。

「でも! 私には、何をどうしたら…」

 おれでも、船での移動をした事があるとはいえさすがに船の操作までは出来ない。何を指示できるというわけでもない。

「握っているだけでいい!」

「無茶言うねえ」

 笑う男の剣の、重い事。

 これは、庇う相手が居なくとも攻撃に転じるのは容易ではなかっただろう。

 師匠とは全く異なる、荒く我流の強い剣術は、しかし彼に肉薄するほど鋭く――つよい。

 焦燥が、汗を生み、掌中の得物の輪郭を失わせていく。

 男の剣が削り取るのは、体力だけでなく、余裕の精神も同じだった。

 喉がひゅっと鳴った。

 せめて。

 せめて、この身はどうなってもいいから、彼女だけは。

 得体の知れない巨大な怪物に、呑みこまれて胃の中に居るような錯覚。

 初めて目の前の男に恐怖した。それは、本能的なもので言えば遅すぎるかもしれなかった。

 せめて、あの少女だけは。

 舵など任せるのではなかった。

 何が、おれに大丈夫と思わせたのだろう。

 剣を握っていなければ、震えていただろう手をこのまま強く固めていられる自信が、ない。

 こんな事では、おれだけではなく彼女まで――…。

「…逃げろ…!」

 叫びにもならなくて、絞り出すような声が、情けなかった。







   ◇◇◇


 突き飛ばされて、恐れを抱いたが、彼は私を剣戟から守ってくれただけなのだ。

 自分の非力さが泣きたくなるほどくやしかった。

 私だって、彼を守りたいのに。

 舵を押さえながら、操舵室を見渡す。

 せめて、私にも何か武器になるようなものがあれば。

「逃げろ…!」

 かすかに届く声。

 彼は、何を言っているの。

 私にそんな事出来るわけがないじゃない。

「あなたを置いて行けません…!」

 ここを出る時は、二人で……。

 私の声など届かなかったようだ。彼はあの賊の対応で手一杯。

 胸騒ぎと焦りと不安とが、胸いっぱいに広がる。

 それならば、やはり私のやる事はただ一つ。

 部屋の中には鋭い剣も斧もない。武器になりそうな、先の尖った燭台なら、あった。舵など忘れて、手をのばす。

 三本のロウソクを刺せるように三つまたに分かれた燭台だ。手に取ると想像よりも重たかった。

 ちらりと、男と少年の戦いに目をやる。

 少し目を離したうちに王子の手傷が増えたのが目に見えて分かる。

 このままでは、いけない。

 最初の時のように、私が敵の意識を逸らせて、そこを彼が叩けば。

 とはいえ、私には彼らの動きを目で追うので精一杯。とても入りこむ隙間はない。

 彼のわき腹に剣が突き出されたかと息を飲めば、浅くかする程度で避けていく。男の向こう脛を、殿下の蹴りが襲い、今だと思うと男はとびすさる。

 そこで私が燭台を握りなおし、男の背に引っかき傷を作ろうと身じろぎするも、些細な時間で敵は自身の態勢を立て直す。また、あのひとの体を傷つけに向かう。

 隙など、ない。

 私は恐れてもいた。

 人を傷つけるという行為に、手だけでなく全身が震える。

 他人の心を傷つけた事ならたくさんあるが、生身の人間を殺そうとかかった事など、ない。

 それなのに想像力ばかりが稼動する。薄い皮の下には、いつか屋敷の台所で見た真っ赤な豚の生肉のような赤い肉があるのだ。突き刺すには、並み以上の力が要る。

 いや、引っかくだけでいいのだ。容易くロウソクの中に身を沈める燭台の針は、鋭利だ。

 殿下を傷つけないように気をつけて、男の注意をひけばいい。

 相手を殺す事は考えない。

 こんな時なのに、過去の記憶が蘇る。

 初めて手紙を書いた時、褒められたのは覚えているのにそれが誰だったかは覚えていない。厳しい表情ばかり見せていた母上。父上は、最後に屋敷に戻ったのかいつだったかはもう分からないくらいだ。

 仲のよかった侍女の辞めた時、ひどく悲しかった事。兄弟にいじめられて、私が対抗できるまでに長い時間がかかった事。

 他家との親交を深めるうちに、何かが違うと感じていった。世の中の常と、自分の信じるものに、齟齬(そご)を感じる。世界と私との間にズレが生じていた。

 それを忘れるために、なかった事にするために身に着けたあれこれ。

 笑顔の仮面。さり気ない仕草。明るい性格を見せて、相手に安心をさせる。

 “普通の人間”を、演じるのに慣れた。

 私の瞳の奥を知らない人間たちとつきあう事にうんざりしているのを、見抜いたひと。

 そうだ。私は、あの人のために。

 怖くて、正視が出来なかった少年。認めてしまえば、もう――…。

 彼を、助けるのだ。

 迷っている暇はない。

 隙など、なければ作ればいい。いや、そのために私がいるのだ。

 幸いにして敵は私を無力と見なしてこちらに背を向けている。

 私は無力。でも、追いつめられたネズミが、何をするか思い知ればいい。

「……ああッ!!」

 声を殺して気配もなく襲うつもりが、気合いを発しなければそれが出来なかった。

 敵は大柄、背は広く標的になる場所は多かった。

 私の奇声に振り返ったが、もう遅い。私の手は私にも止められない。

 肩口を引っかく程度の衝撃でも、生々しく私の腕を振動が伝わった。寒気がする。

 その時の私の世界は、ゆっくりと、しかしものの一秒もたっていないような奇妙な時間が流れていた。

 目の前の男は、驚いていながら非常に愉快そうに私を見ていた。まるで、こんな小娘に油断をしていた自分のまぬけな姿が面白くて仕方がないとでもいうように。自嘲ではないそれが、瞬時に向こう側へ消える。

 驚愕に目を見開いた少年は、私に意識を向けている暇はないと、男より一歩早く我に返ったようだ。

 裂帛(れっぱく)の気合いが、操舵室に響いた。

 彼の勝利を確信した。確かに少年の剣は男を突き刺していたが、男の懐に入ったことで、殿下までそれをもらっていた。致命的な、傷を。

「……!!」

 燭台が床に転がった音も、聞けないでいた。

「しぶとい、ヤツだな…」

 突き出した剣を抜きもせず、彼は荒い息を吐いた。

 その表情は無いようで、痛みにこらえていた。自身の傷の痛みだけではない何かに、表情をゆがめるのを我慢するように。

「お前も、な……。まさか、こんな小僧っ子が…」

 男が言い終わるより早く、少年の体がずるりと床に崩れ落ちる。

「殿下!」

 自らが突き刺した剣を賊は引き抜いて、自分も座りこむように倒れた。

 感情が、ついていけなかった。

 目の前の事象は物語の一部で、本を読んでいるだけなのかと思うほど、私は蚊帳の外だっただけでなく、事態に全くついていけなかった。

 ただ、肩を貸した王子の脈が素早く打って、血を外へ追い出そうとしているのが分かると私は自分のやるべき事をさとった。血を、止めなければ。

 それなのに、体が、動かない。

 だめ。

 こんなのはだめだ。

 全身の血の気が引く。本当に血がなくなっているのは、彼の方なのに。

 相打ち。

 ここは海の上。

 流れる血の赤。

 通った道のどれも、窓のない部屋でここがどこの海かも分からない。

 気のせいか、冷たく感じる彼の肌。

 医者を呼ばなければ。

 突然、名を呼ばれて目を見開く。初めて名前を呼ばれたのだと気づくには、冷静さが足りなかった。

「…どこかに、ボートが…あるはずだ」

 緊急時用の船。

 それは私の頭の端にもあった。でも、そんなものを探している間に男はまた立ち上がるかもしれない。王子の血は体から全てなくなってしまうかもしれない。

 喉が、ひきつる。

 体の臓器をそっくり取り除かれたような虚脱感。彼の姿が遠く感じる。

 頭が、勝手なイメージを作り出してしまう。

 だめ。そんな、想像すらしてはいけないわ。

 いつかは失われるといわれても、今は理解出来ない。

 初めて会って、感じた恐怖を今また味わうなんて。今度は彼を失う怖さに、全身が縛られたように動かない。

「…君だけでも、それに乗って…」

「やめて!」

 そんな事を言うのはやめて。

 やっと、彼が私の頬を打った理由が分かった。

 自分は死んでもいい、みたいに言うのはやめて。

 ぬりつぶされた未来。闇。

 恐怖が、失うこわさを知ってしまった心が鉛のように私の足を床に縫い付ける。

 だめ。私が、私が今立ち上がって彼を助けるの。

 何のために、私は。

「泣く……な」

 あなたの方が辛いのに。顔色は真っ白なのに。震えた手で。

 こわい。

 こんな時に、何も出来ない自分の無力さが、恐ろしい。まだ、彼を心配させて。

 だめ。

 これが、最後。

 弱々しく差しのばされた彼の手をそっと掴むと、安心させるようにほほ笑んでみせた。表情作りに成功したかは分からないけれど、私はもう座ってはいられなかった。

 瀕死の彼の手をゆっくりと下ろすと、立ち上がった。

 振り返ることは出来なかった。

「助けを、呼んできます」

 彼の顔を見ると、足がまたすくむから。

 だからお願い。

 誰でもいいから、あのひとの命をつなぎとめてください。


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