Ⅲ
◇◇◇
幼い頃、私は要領の悪い子どもだった。不器用でのろま。周りの兄弟たちが難なくこなす事がいつまでも出来ない子どもだった。
それ故によく叩かれた。
子どもを躾るのに鞭は必要で、出来の悪い子どもに多くそれが飛ぶのは当然だった。
私はそれが怖くて怖くて、毎日必死に皆の倍の工程で一つの事をやり遂げた。
時間をかけて何度でも。私は今でも変わらず要領良くは生きられていない。
だけど人並みになった。
人並みを手に入れた。
でもそれは他人にとっていたって普通の事。当たり前。
当たり前を、やっと手に入れた時、人はもっと上の場所にいて、そこでもまた私の届かない当たり前を享受している。
それに気がついてから、私は自分の行いが意味のないものに見えた。
私の存在が世界には本当にとるに足らないものだと、思い知る。
自分はもう、いらないかな。
意識せず、瞼を開ける。
暗闇。
まだ夢の中にいるようだ。
暗くてちっとも楽しくない、悪夢のような夢。現実と大した変わりはないけれど。
このまままどろんでいたら、いつかこの闇に溶けていけるかしら。
小さく、息を吸った自分に気がついた。
まだ、生きているんだ。
これは夢じゃない―――
落胆した。
夢も現実も、大して変わらないけれど。夢はきっともっと曖昧だから……。
暗闇に慣れた目がすぐ目の前に、何かを捉えた。人だ。
一つ瞬きをして見つめていると、それはどんどんとはっきりとしてきた。狭く薄暗い室内に、一つの影だけがあった。
「……殿下」
ぼんやりとした頭は確かに驚いていた。
激しい口論の末に別れた第八王子。彼がどうしてここにいるのだろう。疑問に思った。自分と王子以外には、誰も居ないようだ。
「………君は……」
彼はむすっとして不機嫌な顔で、怒ったように見えた。
しかしすぐに何かに思いあたったようにこちらに顔を寄せた。
「そうだ、怪我はないか。具合はどうだ?」
気のせいか、黒い瞳に心配がにじんでいるように思えた。
身を起こして頭を一度振ると、不調は全くない事を知る。ただ頭は靄がかかったようにはっきりしない。目覚めたばかりだからだろうか。
「…何も……大丈夫、です…」
「…そうか……」
心持ち、彼の表情は和らいだ。瞳に安堵の色が見える。
見える。
はたと私は彼の事を正面から見ている事に気がついた。
見ないように、していたのに。
でもそれすら今はどうでもよくなっていた。
また、彼から顔をそらすと私はつぶやく。
「……ここは…どこなのでしょうか…」
暗いせいでよく見えないが、天井は低い。あまり広い空間ではないようだ。
ゆらゆらと、揺れる床にやっと気づく。さっきからぼんやりとしていた頭が少しずつ動き出す。
「…ここは…海…?」
小さく驚いていた王子に気づかず、私は耳をすました。
「どうやら、そのようだ。今我々は船内にいるらしい」
かすかな波の音がする。海は見た事はないが、聞いた話とそっくりだ。
「覚えているか。私と貴女は何者かに拐かされたのだ」
「かどわかされ……ああ……」
彼との口論の後飛び出した廊下で、男に追いかけられ捕まった。一介の貴族令嬢相手に、何の目的があるのか知らないが、ご苦労な事だ。
しかし、それならばどうして彼まで一緒に捕まっているのか。私が目的だったのであれば、最初から王族を狙ってはいなかった事になる。王子だからとその身を利用する者は多いだろうが、彼はただ巻きこまれただけかもしれない。
それに。彼は私をすぐには追ってきていなかった。あのまま、関わらないでいればこんなところに居るような事はなかったはず。
「………うして……」
「…え?」
「……どうして…放っておいてくれなかったの…」
何故だか、見なくても彼が眉を寄せたのがわかった。
「…あのまま、私なんか死んでしまえばよかったのに……」
消えてしまいたかった。
あれもこれも全部、いらない。世界が嫌い。自分が嫌い。みんないなくなってしまえ。
…違う、私がいなく、なればいい。
だから、あの時死んでいたって―――
ぱしり、
乾いた音と、熱い頬で、自分が叩かれたのを知った。
目の前の、王子に。
「そんな言い方はやめろ」
彼を、見た。
彼は何故か傷ついたように表情を歪めていた。
私にはそれがよくわからなかった。
「そんな風に、自分を言うのはよせ」
泣きそうに、細められて、私は初めてその目をもっと見てみたいと思えた。
「……あ……す、すまない」
頬を打った事を謝られ、私は自分の世界の秩序を取り戻した。歪んだ世界の。
「なんで、どうして死にたいと言ってはいけないとおっしゃるの? 私の命を私がどう扱おうと自由でしょう?」
否定しなければ、と思った。彼の言う事は間違いで、私の言い分こそが正しいのだと。言葉を重ねなくてはと思った。
「あなたと何も関係がないでしょう? 私はあなたのもの? そんなはずがないのにどうしてそのような物言いが出来ますの?」
纏わなければ、鎧を。
「貴女のご家族が悲しむに決まっているだろう」
「まあ、どうしてそのような事がわかりますの? 私の家族の事をご存知で? 両親は揃って愛人を作るのに大忙しで子どもなんて顧みる事などありませんのよ」
作らなければ、壁を。
「そ…それは……ご兄弟だって、いるだろう」
「知らないって、幸せですわね! 私には心配してくださるご両親もご兄弟も居ません! わかったような口をきかないで。あなたに何がわかるの?!」
掘らなければ、溝を。
隔てて、拒んで、消え去って。それが必要なのだ。
ここでは強く突っぱねて、彼には呆れてどこかへ去ってもらわないと。
別に涙は必要ない。
この場に相応しいのは彼を怒らせてしまえるだけの要素。
私の感情は涙を流す事に作用してはいけないのよ――――…
◆◆◆
まさかとは思った。
あの時、賊に連れ去られそうになったあの時。
彼女は一度、抵抗の光を瞳に宿した。それなのにすぐ、手放した。
諦めて 求めない。
何故。
何故、叫ばない。何故、その手をのばさない。何故、目をそむける――。
あの時、死を選んだのだと告げられ、おれは頭に血がのぼった。
そう言いながら、また、目をそらしたから―――
何故、おれを見ない。
こっちを、向け。
瞬間、酷く後悔した。何故おれはいつも、彼女に追い討ちをかけるような事をする?
しかし言わなくてはいられなかった。
それらを告げると彼女は反論した。
彼女の仮面が再び現れはじめた。苦しそうに、歪めた表情なのに口角を上げる。悲鳴でも上げそうな顔なのに、そうはしない。
感情が、ぐらぐらと。今の揺れる船内よりも大きく揺れ動いている。
陸から遠ざかる船のように、彼女はおれを遠ざけようとしている。
それがわかると、酷く不安になった。どうしてまた、そうやって一人になろうとする。
やめろ、やめてくれ。
泣くな。泣かないでくれ。
お前が泣くと、どうすればいいのかさっぱりわからないんだ―――
慌てふためいたおれは、彼女が焦点もぶれ早い呼吸で泣きじゃくる、その姿が酷く小さいものだと気づいた。
空き部屋に追いかけて行った時にも、泣いていた。
何故あの時に気づかなかったのだろう。
こんなにも胸が痛い。こんなにも苦しい。こんなにも彼女に何かしてあげたい。
彼女は、小さな少女。こんなにも壊れてしまいそうに―――儚く、弱い。
どうにかしなきゃ、自分の方がおかしくなってしまいそうだ。
小さな彼女を失うのが怖くて、消えてしまうんじゃないかとすら思えたから、確かめたくて抱きしめた。
◇◇◇
最初は、違和感。
すぐに、ぬくもり。
それから、質感。
確かにそこに、ある、感じ。
彼の腕の中に自分がいて、つまりは彼に抱きしめられていると気づくのはもっと後だったのだけれど―――呼吸の苦しさを、忘れた。
息継ぎが、ゆっくりになる。
瞳の泉は枯渇する。
焦点が、合って、ゆく。
私は、どこに居るのだろう。
ここに、居る? 要る?
私は、意味があるの? 意味があって生きてるの?
私は―――…
きゅう、と背中に回された手が私自身の存在を教える。
私は、ここにいても、いいの?
「……大丈夫だ」
鼓膜に染みこむテノール。
それはきっと、子どもを安心させる意味のない呪文のようなもの。
でも。
「………わたし……」
私、わたしは、大丈夫、なのかもしれない。
だって、ここには、あったかいものがあるから。
私をつなぎとめるものがあるから。
私が言葉を続けないから疑問に思ったのかもしれない。彼が顔を起こしてこちらを向いた。
まっすぐ。
黒い瞳で。
吸いこまれそう。
私は思った。
ああ、人間だ。
ここには人間がいる。二人も。彼は人間で私も人間。
人は、こんなにも確かに存在する。力があって、体温があって。
不思議だった。
私が今まで見てきたニンゲンとは、まるで違う。
彼はこちらを見ている。私も彼を見ている。彼の黒い瞳に私が映る。
不思議だ。
今までにこんな事が一度だってあっただろうか。
こんなにも、やわらかで、こんなにも、あたたか。
人はぬくもりを持つなんて、知らなかった。
そのぬくもりを、逃したくなくて、私はおずおずとそれに触れた。
あたたかい。
どうしてだろう。
胸のあたりまで、ゆっくりと和らいでいく。ぬくもりは感染するのか。
もっとずっとそれと触れたくて、彼の背中に手を回していた。
離れないで。
思うと、こわくなった。
こんなにも良いものがいつか離れる時が来るなんて。考えただけで怯えが顔を出す。
せっかく触れられたのに。離されるなんて。
こわい。
こんなにあったかい気持ち、初めて知ったのに、いつかなくなるなら、いっそ――…知らなければ、よかったのに。
その考えを打ち消したくて、力をこめた。
どこにもいかないで。
私は、私は――――――
◆◆◆
苦しかった。
だから、自分のために彼女に触れた。それだけなのに。
彼女ははっきりとおれを見た。
それだけで、腹の上がくすぐったかった。落ち着かない。心臓が変に早い。
それから、彼女が痛いほど強く抱きしめてくれたから、何故か、胸が苦しくなった。
苦しいのをどうにかしたくて、こうしたのに。また苦しくなるなんて、どうかしてる。
それでも不快じゃない。嫌じゃない。
ずっとこうしていたい。
彼女が大きく息をついた。吐息をかすめた首筋に電流が走った。全身が震えるのが分かる。
心臓が、強く、うるさく、何かを告げた。
おれは、彼女の顎に手をそえるとこちを向かせた。彼女がちゃんと灰色の瞳で見つめ返すから、おれは――――――――
がったん、
音をたてるのが目的かと思うほど大きな音をたてて扉が開いた。
「ぬわぁんだお前ら、デキてたのかァ?」
馬に蹴られたい様子の男が一人現れたので、彼女はおれから飛んで離れた。
「けっ、ガキがいっちょ前に……ったくよぅお、オレなんかこないだアンナにフラれたばっかだっつーのに…」
ぶつぶつと愚痴る男が一体誰なのか、好意的な想像が全く出来ないのをいい事に、おれはとりあえずのす事に決めた。
「あいつの気を、ひけるか?」
彼女は一瞬驚いた顔をしてすぐに頷いた。
「はい」
おれは、油断しきった男との間合いをゆっくりと狭めた。
さて彼女が何をしてくれるだろうと考えて。
◇◇◇
さて、何をしてあの男の注意をひこうか。
人は、予期せぬ出来事が起こるとそちらに意識を向けてしまうもの。私の見た目から他人に及ぼすイメージと、それに反する突飛な行動。
裾の長い、ドレスを捲し上げた。中身の下着まで見えるくらいに。
男が目を丸くして動きを止める。
思い出したのだ、過去に怒られた事象の一つを。厳格な母上に、邪魔なスカートを捲し上げてしかられた事。あまりに幼い頃の事で、何がきっかけでそうなったのかは知らないが、誰もが仰天して注目を集めたのは覚えている。
私の取った行動は、王子にまで影響を与えていたが、作戦は成功したようだ。
私がふわふわとするドレスを押さえているうちに男の「ぐわっ」という悲鳴が聞こえてきた。
「次は、しなくていい」
どうしてかこちらを見ない彼は、倒れた男の武器を奪っていた。
誘拐されたのだから、無手だったのは当然だ。新たな武器を手になじませるように二・三度振るい「行こう」と彼は閉じ込められていた部屋から出た。
船の中の構造はよくは分からないが場所を移動する度に大男が現れ、私たちを取り押さえようと襲いかかって、第八王子殿下に返り討ちにあっていた。
驚いた。
王子は何人もいた賊たちをあっという間に倒してしまった。
彼は、まだ成長しきっていない体であんなにも華麗に剣舞を舞う。
一体どれだけの事が彼の身に降り注いだのだろう。何が彼をあそこまで強くせしめたのだろう。
あの若さ、幼さと言っても差し支えない年頃で。
彼の事を知りたいと思った。どのように生まれ、どのように育ったのか。何を思い何に笑い何に怒り何に悲しんだのか。
その黒い瞳で一体何を見てきたのか。
私は、知りたいと思った。
出来れば、未来の彼の瞳の中に、自分の姿があればいいと思う。
思って、相当に大それた考えだと気づいて顔が赤くなった。
まさか。そんな。
「おい、どうかしたか」
「いっいいいえ!!!?」
慌てて私は熱を発散させるように顔を振った。
「…この先は、操舵室だろう」
「もしかして、彼らを束ねる者がいるのでしょうか」
今までにそんな人物は現れ出なかった。どの男たちも、私たちを見張るように言いつけられて取り押さえようとした行動をとっていた。命じた人間はひとところに留まって、座っているのが定石だろう。
その首領のような人間がこの先に居るのかもしれない。
「………ああ…おそらく…」
私はどうしてか不安になった。彼の声が緊張に満ちていたからだ。今まで賊たちを簡単に倒してきた時とはまるで違う。嫌な予感がした。
我知らず、彼の服の裾を掴んでいた。
「………大丈夫だ」
緊張をほころばせ、私を安心させるように彼は表情を緩めた。
不安はまだ残っているが、彼の控え目な笑みで私は覚悟を決める事が出来た。
この先、何があっても。
私は目をそらさない。
そして、私は…彼を守る。
―――……大丈夫だ
あの時と同じ言葉。
あったかい、力ある言の葉。
大丈夫。私は、大丈夫。
彼から手を離すと、意外そうな顔をされたので告げておく。
「…大丈夫…、です」
笑って、返す。
大丈夫。もう私は見えないふりはしない。
全部、受け止める。
辛くても怖くても。
きっと、ヒトとして生きてみせる。
だから。
だから、どうか。
どうか私たちを守ってください。神様。
◆◆◆
本当は、不安だった。
自分の戦う姿を見て、彼女が怯えてしまわないか。おれを怖いと思わないか。拒絶されてしまわないか。
婦女子の前で剣を振るうなどした事はなく、躊躇がなかったといえば嘘になる。しかしそうとしなければ彼女の命がおびやかされる。
また、海の上では逃げ場がなく、ただ船から出るだけでいいという訳にはいかない。窓のある部屋を通らなかったから、海上のどの辺に居るのかも全く見当つかない。
出来れば誰かを人質にとって舵をきる者に針路を変えさせる事が出来たらよいのだが、操舵室には鍵がかかっているのか、施錠されていない部屋に舵輪はなかった。
最後に見つけたこの部屋が、操舵室だと思われる。
この先に賊の首領か操舵手が居るのなら人質を連れてくる必要があるが―――
扉の先には、強い武人がいる。それが気配でわかる。
人質うんぬんの前に、そんな小細工が使えないのではと思わせるほどの威圧感。
汗がにじむ。
最悪のイメージが脳裏に浮かぶ。
彼女が服を掴んできた時に、やっと自分が緊張していた事に気づいた。
それから自分が、ここに居る事も。
大丈夫だ。
今度こそ、守ってみせる。
おれは強くなった。強くなったはずだ。
あの時は守られるだけだったけど。今度は、違う。守る力があるのだから。
「………大丈夫だ」
ふと小さなぬくもりが消えた。彼女がその手を離したのだと気づくと同時に残念に思った。
もっと頼っていてくれて、いいのに。
触れていないと不安なのは自分の方だと気づくと、なんだか恥ずかしくなった。
「…大丈夫…、です」
彼女は言った。
真っ直ぐに、瞳を開いて。
灰色の瞳。初めてまともに見てから、その灰色以外にきれいなものなんてないと思った。
それを守りきる事が出来たら。
「もし無事に帰れたら」
そうしたら、おれは。
きょとんとする彼女を見つめれば、何故か笑みがこぼれた。
「そう、もし、無事に帰れたら」
「絶対そうなるに決まっています!」
ぎゅっと両手を包まれた。
彼女はおれが笑っていながら「もし」など仮定法を使うのが気にくわないのか、眉を上げて言う。彼女がそう言うなら、きっとそうなるのだろう。
大丈夫だ。
最初はおれがあげた言葉が彼女から返ってくる。
「ああ、きっとそうだな」
「きっと、は余計です!!」
意固地な彼女に、胸から込み上げる何かをぶつけてしまう事にした。
「無事に帰ったら」
彼女は今度は真剣に次の言葉を待っている。
「デートしよう」
「えっ」
顔を分かりやすく真っ赤にし、彼女は恥ずかしそうに顔をうつむけた。
「……嫌か」
「いえっ全然っ! う、うれしいですっ」
じゃあ何故そんなに不満そうなんだ。おれは不機嫌になる。
その理由はもっと後、かなり時がたってから解明される事になるのだが、この時のおれはまだそれを見当づけさえできないでいた。
だからちょっとした、いたずら心が脳内に侵入してくる。
◇◇◇
彼にデートをと口走られ、恥ずかしい事に私は、あろう事か、あの時の続きを望んでいたのだと気づいた。
無事に帰れたらキスを。
そんな自分が恥ずかしくて恥ずかしくて仕方がない。
なんという事を!
なんという不躾で破廉恥で不心得者!
恥ずかしさで涙すらにじみそうな私の手を取って、彼はキスをした。
私―――…の額に。
それは勝利を願う戦勝祈願のキス。
普通は女性が兵士である男性に行うもの。
「―――――――ッッ!!!?」
「普通は逆か」
口を開け閉めして何も言えない私に、にやりと笑うと彼は言った。
「行くぞ」
殿下が、操舵室の扉を開いた。