Ⅱ
◇◇◇
世界を回す神様が居るのなら見てみたいものだ。一体どんな顔をして下界の生活を見下ろしているのか。一度、見てみたいくらいだ。
無表情だろうか。全てを超越した神だ、さもありなん。しかし私としては愉悦に歪められていてほしいくらいだ。
面白おかしくしたいのだろう、世界を。だからこのようにくるくると世界を回す。滑稽な人間たちを見たいのでしょう。
今の私を見ても顔色が変わらないなんて、それだったら何のためにこれを起こしたの。
母上の浮気なんてとるに足らない日常だった。
ただ間が悪かった。星の巡り合わせが悪かった。運が……なかった。
私は、どうしてもしたい事があって母上の自室に勝手に入った。
それはとある手紙のためだった。その焼却を目的に禁じられていた母上の部屋へ侵入した。
手紙の内容は以前のようなお茶会のお誘い。あれからもう一度、お茶会は開かれた。例の第八王子も一緒だ。その時は出席してから気づいた。あの王子が居るなら出なかったのに。
とはいえ前回より人数が増えたせいか会話を交わす事はなかった。
相変わらず、彼はあの黒い瞳で世界を見ていたが。
あの眼差しに捉えられるのが怖くて私は必死に逃げ回った。そして二度と会いたくない王子との会話だけは二度と繰り返されなかった。
その場はそれで済んでも、やはりまだお茶会のお誘いは続くのだ。
私は偶然執事の手紙の束からお茶会の誘いの封筒を見つけた。封蝋が王宮の紋のついた、私宛の封筒を。
王宮からのお茶会の誘いに他ならないと悟り、私は母上の留守を良い事に彼女の部屋の手紙を燃やしてしまう事を決意した。
今思うとなんでそんな馬鹿な事を考えついたのかわからない。
ただあの時は、あの黒い瞳を追い払うのに必死でそれだけしかなかった。
封筒を燃やしてしまっても、もう一度誘いの手紙が来ないとも限らないのに。
しかし過去の私は実行に移してしまう。半分までは。
母上の部屋に入ると、すぐには目的のものは見つけられなかった。机は二つ、どちらも手紙でいっぱいだった。その中に目的の手紙を探していると、部屋の入口から声がした。
母上だ。
私は気が動転した。
母上は厳しい方だ。自らの部屋に許可なく入る者を嫌い、我が子でさえそれを許さない。
私は過去に一度だけ勝手に母上の部屋を覗いた時の事を思い出した。
頬をぶたれた。躾用の鞭が飛んできた。
母上は汚泥にまみれた犬でも見るような目で私を見た。
納屋に一週間は閉じ込められた。
絶対的な力を持つ母上に、嫌われるとは一体どういう事なのか思い知った。
咄嗟の判断、というものは恐ろしい。
私は母上に見つかるのを恐れて大きな衣装棚に飛びこんだ。
それから、息を殺して母上が部屋を出るのを待つ。
小さく小さく、身を縮めて。自分の存在を消そうとした。
ぴっちり閉めた扉でも、母上の部屋に入ってきたのがわかる。母上は一人ではなかった。
しばらく話声がして、相手は男性、しかもかなり若い事が判明した。
どちらも早くここを去ってくれと願っていたら、睦み事が始まった。
母上が愛人と共に居るのを見た事がないわけではないが、さすがに情事にまで居合わせた事はなかった。
厳格で絶対の存在である母が、次第に女の声を出していくのがわかった。
性を意識した事もない自分にはただただ恐ろしかった。
しかも、母上が。母が、あんなにも淫らな声を上げている。
耳をふさぎたかった。ふさいでも意味がないなら突き刺して音を認知させないよう―――…
突如、がしゃんと尋常ならざる大きな音がした。
驚いた私は声を出さなかったか不安に思った。
しかし幸運な事に、その音は母上の気をそらすのに一役かった。
仮にも一家の主の妻、彼女は何が起きたのかを確認する事にしたようだ。それほど大きな音だったのだが、それよりも私には母上が出て行った事に安堵した。更に幸運な事に共に青年まで。
それから急いで母の部屋を出た。
そして、自室に戻ると、私は例のお茶会が今日でこれから向かうと告げられた事も知らずに、呆然としていた。
私は無意識のうちに喉に覚えた乾きのために、侍女を呼ぼうとした。侍女たちの出入りする扉の前に立つと聞こえる噂話はいつもの事。
それが何であろうといつも聞こえないふりをしてきた。
―――……あたし、見たのよ
―――いやあ…っ。またあ?
―――…いくらなんでもいい加減いい年なのに……
―――相手の男性の若い事といったら……
血の気が引くのがわかった。
母の事だ。侍女たちは先ほどの事を言っているのだ。
足を引いた。数歩下がったところで、椅子にぶつかった。物音で扉が開く。
どうか致しましたか?
恭しく侍女がたずねてくる。
私が顔をそむけ目をそらして言いよどんでいると―――
扉の向こうの侍女たちと目前の侍女は小さくその顔に侮蔑の表情を浮かべた。
けがらわしい。
汚らわしい母親のむすめ。
それが見えた。
蔑み、見下し、厭う。
汚いのはお前だ。
お前も汚物だ。
そう、言われた気がした。
私は…………気がつくと、お茶会の席にいた。
王宮の、いつか見たような、一度も訪れていないような、煌びやかだがこれといった特徴のない部屋。見た顔がちらほらと談笑しているのが分かる。
いつの間にここに来たのかわからない。人間、気がつかないうちに移動が出来るものなのだろうか。
私は三度目のお茶会というお遊戯に目眩がした。
おままごと。
小さく思った。
本当に気分が悪くなり、少しだと言い訳し退室した。
吐き気が、した。
◆◆◆
本当は、機嫌が悪かった。
その時は、何某かに有り難いお言葉を頂いたので丁寧にお礼を返してやった。そうしたらば、己が愚鈍に気がついたようで憤怒した相手に、おれはちっぽけな自尊心を満足させていた。
本当はこのようなやり取りも好まないのだが。
それを腹違いの兄に当たる第五王子によって、相手方の肩をもたれ、結局はおれが愚か者となりさがった。
権力者が是といえば、是。
ちからにちからを重ねられて、不機嫌になっていた。
それをまたあのお茶会と称した下らない集まりにまで出されて、気分が良くなるはずがなかった。
同い年の顔も定かではない少年少女たち。空虚な室内。
それでも、自分が傷つけてしまったあの少女の姿を見つけた。複雑な感情が頭角を現していたのと同時に――彼女は部屋から出て行った。
噂話が歪んだ真実になる王宮では、妙な勘繰りをされると知っていたのに、知らず足が彼女を追った。
◇◇◇
勝手に空き部屋に入った。
薪も火もない暖炉の前にたたずむ。
カラカラカラカラ…回っている音がした。
いつか見たからくりの時計。小さな人形がカラカラ回っていた。仕組みがわからず驚いたと同時に、滑稽だった。
同じところを移動する人形は、自分となんら変わりがないではないか。
静かに込み上げた悪寒に、からくり時計を脳裏から消した。
カラカラカラ……それは嘲笑の音にも聞こえた。
カラカラカラカラ。頭に響く。吐き気を誘う。
「…………っう…」
不思議な事に、吐き気は口に作用せず、目に作用した。
後から後から、目から吐瀉物があふれる。わかっている。これは涙だ。
自分が悲しんでいるのか怯えているのか、嘆いているのか苦しんでいるのか。そんなものはわからない。
何が、私をそうさせるのか。何が、私を動かすのか。
わけが、わからない。
ただ意味もなく流れる涙と、しゃくりあげる喉が狭まり息苦しい事が、うっとおしかった。
私を覆う、影にも気づかず。私は空気を求めて嗚咽した。
◆◆◆
少女は泣いていた。
初めて会った時には完全装備の令嬢の姿で。
「気持ち悪い」と言った時も、仮面にヒビさえ寄せず。
二度目に会った時も、完全武装の仮面をこちらに目もくれずに。
彼女は世界に背を向けていたけど、確かに自分の足で立っているように見えた。
それが今では、彼女の足元はバラバラのように感じられる。彼女は自分の足で立ってはいない。
グラグラ揺れて、ひどく不安定だ。
それに。仮面など、なかった。今の彼女には身を守る全てを失っていた。
豪奢な衣装。見事な髪型。精巧な装飾品。それから笑顔の仮面。
彼女を守る、すべて。存在しない。
はじめて、彼女を、見た。
小さな少女。
泣いている女の子。
守る事など忘れた子ども。
それに思いあたると、何故か苦しくなった。
おれは、彼女に手をさしのばした―――
◇◇◇
母上の事、侍女の事、お茶会の茶番、自分の事。それらが一気に押し寄せて私を圧倒する。悲しいのか憤りたいのか怖いのか嫌悪感なのか、わからないが負の感情を全部集めても足りないくらいだ。
少しずつだけど、冷静な自分が姿を現す。
どうして、こんな場所で泣いているのだ。これから部屋に戻って何と言い訳する? その赤い顔で? 瞳で?
もう、泣き止め。泣いても何も変わらない。
母親は淫売で侍女たちは主を見下している。
その事実は変わらない。
父親だってあのような事を日頃からしているのだ。
今までにもわかっていた事。
それが今更、何?
だってでも、だって。
―――あんなの、見たくなかった
こわい。こわいよ。
なんであんな事。なんであんな顔。どうして私があんな目で見られなきゃいけないの。なんで。
どうして。
こわい。
やめて。
もう何も見せないで。もう何も告げないで。もう何も――――
顔の横に、手。
私は叩かれると思ってその手をはねのけた。
見ると、そこに、第八王子。
驚いた顔をして、こちらを見ている。
あの黒い瞳で。
私を不安にさせる――真っ直ぐな、瞳で。
◆◆◆
驚いた。
声をかけるのもためらわれて、つい先に肩を叩こうとした。
その手を叩き落とされ、顔を上げた彼女の瞳。
その睨んむような瞳は――確かにこちらを向いている。
瞳の色はグレイ。
おれを憎むように鋭い眼光で――それなのに今にも脆く崩れ落ちそうな、灰の瞳。
顔がカンバスなら、感情は絵の具、様々な色の絵の具でいっぱいで――彼女は頬を濡らしていた。
おれが誰だかわかった彼女は、すぐに困ったような慌てたような、怒りのような諦めのような、奇妙な色をカンバスにのせた。
それから。
「近寄らないで」
◇◇◇
これ以上、私に何かを求めないで。
私には何もない。
もう何もいらない。
どうして、なんで私を見つけてしまうの?
どうしてあなたはここにいるの?
なぜ、どうして。放っておいて欲しいのに。
こんな風にみっともなく泣いた姿を誰かに見られるなんて、屈辱以外のなにものでもない。
それにこの人は私をひどく揺さぶりかける。こわい人だ。どうしてよりによって彼が。
私は何もいらないのに。一人にして。放っておいて。構わないで。私を避けて。いないものと見なして。私を認めないで私を消して私なんか殺してしまって―――
「何故だ?」
力ある、声。
彼の声は私の全身を震わせる。
それは恐ろしい事だ。
「なぜって? あなたが嫌いだからよ」
「では何故嫌うんだ」
こんな時になぜこんな事を言うのだろう。
私は、こわかった。
攻撃を加えなければやられる。そう思った。
それから、私たちは口論した。
感情のコントロールの効かない私は酷い言葉を幾度も吐いた。意地悪く薄汚く罵った。誰もが傷つく言葉を積極的に使った。相手をこてんぱんにのしてやろうとさえ思った。
もう、何がしたいのかわからずに――とっくに自分の事なんかわからなくなっていたのだけれど――私は「二度と顔も見たくない」と吐き捨てると、空き部屋を後にした――…。
◆◆◆
彼女は、普通じゃなかった。何かあったのだ。
何があったのかはとてもわからないが、彼女の根幹を揺るがす何かがその身にふりかかった。
彼女は酷く傷ついていた。泣きはらした目で、こちらを見ていたではないか。
そう、こちらを見ていた。それがいけなかった。これまで一度もこちらを見なければ素顔を見せもしない彼女が、それを見せたから。
だから、こちらもどうかしてしまった。
優しくすべきだったのに、口論などに応じてしまった。彼女の不安を少しでも和らげる言葉を囁くべきだったのに。感情のはけ口は、あんな風に流させるべきではなかったのに―――…。
部屋から駆け出した彼女を追うべきか逡巡した。
また彼女を傷つけるだけじゃないかと。
だがそんな迷いもすぐに消え去る事になる。
彼女を追いかける人間の気配。不穏なそれは不自然なほど足音がなく――…賊とか暗殺者とかいう言葉が飛び交う前に、体が動いていた。
腰の剣を引き抜く。
廊下に賊以外の人はいない。普段通りの風景に舌打ちをする。
相手は一人。彼女を追っている。
曲者だと叫ぼうとしたが、もし彼女を盾にされたら?
一瞬の迷いが彼女を賊の手に渡してしまった。
血の気が引いた。
剣を握る手が汗でゆるむ。
その時―――諦めた、彼女の表情を、見た。
―――何故―――……
突如、頭に衝撃。
それはおれの意識を奪っていった―――…