第8話「昼は甘えん坊」
三度目の満月を越えた翌朝のことだった。
昨夜の満月で人になったルークは、服のボタンを自分で留められるようになっていた。前回より指先が器用になっている。月に一度の人体験で、少しずつ慣れていくのだろう。
昨夜はたくさん話した。ルークの群れのこと。兄のグリムが長として群れを守っていること。弟分のピートという子狼がいること。ルーク自身は群れの中で偵察役で、森の端まで走り回るのが仕事だったこと。
「だからこの辺りの地理に詳しいんだね」と言ったら、「薬草の場所も全部覚えている」と少しだけ胸を張った。無口なくせに得意なことを語るときだけ饒舌になる。
そして今朝。月が沈んで、ルークは狼に戻った。
戻った瞬間から甘えが始まった。
「ルーク、ちょっと、顔、顔に乗らないで」
銀色の巨体が私の上に覆いかぶさっている。朝の毛布の中にいた私に向かって突進してきたのだ。顔を舐められている。鼻先が頬を、額を、こめかみを押す。
「やめ——くすぐったい——」
尻尾が全力で振れている。体ごと揺れている。四本の脚を踏ん張って、でも尻尾に引っ張られて腰が左右に振れている。
「嬉しいのはわかったけど、あなた重い!」
ようやく押しのけて起き上がった。髪が銀色の毛だらけだ。シャツにも毛がついている。春の換毛期でもないのにこの抜け毛はどういうことだ。
朝食を作る。ルークが足元にまとわりつく。鍋をかき混ぜる腕に鼻先を突っ込んでくる。火の近くは危ないからどいてほしいのに、どかない。
「ルーク。座って」
座った。偉い。でも三秒で立ち上がってまた足元に来た。
「お座り」
座った。二秒で立った。
「……あなた昨夜はちゃんと座ってたでしょ。人のときは」
尻尾ぶんぶん。人のときの記憶と狼のときの行動は別なのか。それとも狼のときは甘えのリミッターが外れるのか。
前世の知識を総動員して分析する。犬の甘え行動——飼い主のそばを離れない、体をすり寄せる、顔を舐める——は分離不安の兆候でもあるが、ルークの場合は不安というより純粋な嬉しさに見える。目が輝いている。口が開いている。舌が出ている。ストレスのサインがない。
「昨夜人として話した分、朝になって甘えが爆発してるの?」
尻尾一回。はい。自覚はあるらしい。
「自覚あるなら控えてよ」
二回。いいえ。控える気はないらしい。
「……もう」
スープが完成した。ルークの分を皿に注ぐと、尻尾全開で食べ始める。食べ終わった瞬間に私の膝に頭を乗せてくる。
「食後すぐに甘えるの、犬っぽいよ」
ルークが不満げに鼻を鳴らした。犬っぽいと言われるのが嫌なのは知っている。でも犬っぽいものは犬っぽい。
膝の上の頭を撫でる。耳の後ろを掻く。目が細くなる。後ろ脚がわしわしする。
「ねえルーク。昨夜聞き忘れたんだけど」
耳がこちらを向く。
「狼のときと人のとき、性格違うよね。どっちが本当のあなた?」
沈黙。尻尾が止まった。
重い質問だったかもしれない。でも前から気になっていた。昨夜の無口で不器用な青年と、今膝の上で甘えている狼が、同じ存在だとは思えない瞬間がある。
ルークが顔を上げた。金色の瞳で私を見て、ゆっくり尻尾を一回振った。
一回。はい。
「はいって——質問、はいかいいえで答えられないやつだった。ごめん」
ルークが前脚で私の膝を軽くぽんと叩いた。それから自分の胸を前脚で指す。もう一度私の膝を叩く。
「……どっちも自分、ってこと?」
一回。大きく。
「狼のときも人のときも、全部ルーク?」
一回。
「じゃあ——今の甘えん坊も、昨夜の無口も、全部?」
ルークが勢いよく私の顔を舐めた。返事の代わりに。
「わーっ! よだれ!」
笑いながら顔を拭く。ルークの尻尾が狂ったように振れている。
「——わかった。どっちもルーク。覚えておく」
午後。薬草を乾燥させる作業をしていたら、ルークが外から何かを咥えてきた。
木の枝だ。太くて長い、いい感じの木の枝。
私の足元に落として、座って、尻尾を振って待っている。
「……投げてほしいの?」
一回。勢いよく。
「犬じゃないんでしょ」
ルークが枝を鼻先で押してきた。「いいから投げろ」の圧力。
投げた。ルークが走った。すごい速さで枝に追いつき、咥えて戻ってくる。足元に落とす。座る。尻尾を振る。
「もう一回?」
一回。
投げた。走った。持ってきた。落とした。振った。
五回目で私が先に疲れた。
「あなた、体力おかしくない?」
ルークがけろりとした顔で枝を咥えて待っている。息が上がっていない。狼の持久力は犬の比ではない。前世で読んだ論文では、狼は一日に七十キロメートル以上移動できるとあった。
「はいはい。もう五回だけね」
結果、二十回投げた。
夕方。暖炉の前でぐったりしている私の横で、ルークが元気にうろうろしている。
「ルーク」
耳がこちらを向く。
「明日、次の満月で人になったとき、この枝投げ遊びのこと覚えてる?」
ルークが固まった。一秒。二秒。耳がぺたんと倒れる。
「覚えてるのね」
尻尾がゆっくり、申し訳なさそうに一回振れた。
「覚えてて恥ずかしくなるのね」
二回——いや、振りかけて止まった。否定しきれなかったらしい。
私は笑った。声を出して、お腹を抱えて笑った。
昼は甘えん坊で、枝を投げてもらって大喜びして、夜になると無口なイケメンになって「あれは狼の本能だ」とか言うのだろう。
このギャップは反則だ。
「おやすみ、ルーク。明日も枝、投げてあげるからね」
ルークが私の手のひらを一度だけ舐めて、暖炉の前に丸くなった。
尻尾の先が、とん、と一回だけ床を叩く。
おやすみ、の合図。最近できた、二人だけの合図。
窓の外で星が瞬いている。次の満月まであと二十六日。その間ルークは狼のままで、甘えん坊のままで、毎日もふもふだ。
——楽しみだ。人のルークに会えるのも、もちろん楽しみだけれど。
今夜は今夜で、この銀色のもふもふの寝息が隣にあることが、とても良い。




