表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢、森で拾った狼が満月の夜にイケメンになる  作者: 夜凪 蒼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/31

第7話「しっぽが揺れている」

ルークの尻尾には感情が全部出る。


一緒に暮らし始めて六週間。満月を二回越えた。人の姿のルークは無口で表情が乏しいが、狼の姿のルークは尻尾が雄弁だ。


朝、私が起きたときの尻尾——ぱたぱた。小刻みで速い。「おはよう、待ってた」の揺れ。


ごはんを準備しているときの尻尾——ぶんぶん。大振りで力強い。「腹減った、早く」の揺れ。


私が薬草を摘みに出かけるときの尻尾——ゆらり。一回だけ、ゆっくり。「行ってらっしゃい」の揺れ。


私が帰ってきたときの尻尾——全力。残像が見える。体ごと揺れている。もはや尻尾が本体で胴体がおまけみたいな振り方。「おかえり!」の揺れ。


「あなた、尻尾で全部バレてるからね」


ルークが耳を後ろに倒した。気まずいときの仕草だ。


今日は特別な日ではない。いつもの朝だ。でも「いつもの朝」が心地よいこと自体が特別だと思うようになったのは、いつからだろう。


朝食を済ませて、小屋の外に出た。ルークがついてくる。最近は薬草摘みにも一緒に来る。先に走っていって、良い薬草が生えている場所で座って待っている。道案内のつもりらしい。


「今日は南の方に行ってみたいんだけど」


ルークが首を傾げて、少し考えるような間を置いてから歩き出した。南東に進路を取っている。


「東に寄ってない?」


尻尾一回。はい——わざとだ。南より南東の方がいいと判断しているらしい。


着いた場所は小さな泉だった。透明な水が湧いている。周囲に薬草が密生していて、見たことのない種類もある。泉の水面に映った空が青い。


「ここ、知らなかった」


しゃがんで泉の水に手を浸す。冷たい。でも凍えるほどではない。地下水だろうか。年間を通して温度が一定な感じがする。


ルークが泉の縁に座って水を飲んでいる。銀色の毛並みが水面に反射して、二匹のルークがいるみたいだ。


「綺麗だね」


尻尾がふわりと揺れた。一回でも二回でもない、はいともいいえとも違う揺れ。同意とも少し違う。


「どういう意味のしっぽ?」


ルークが水面から顔を上げて、濡れた鼻先でこちらを見た。口元が開いて舌が少し出ている。犬の笑顔。


「——嬉しいの?」


尻尾が大きく一回。はい。


「何が嬉しいの。泉? 水?」


二回。いいえ。


「じゃあ何」


ルークが視線を泉から私に移した。じっと見つめている。尻尾がゆったり揺れている。


「……私?」


一回。控えめに。


心臓がどきりとした。狼に見つめられて心臓が鳴るのは客観的にどうかと思うが、この狼が月に一度イケメンになることを知っている以上、ただの動物として扱いきれない部分がある。


「はいはい。ありがとう」


照れ隠しで顔を逸らした。泉の水面に自分の顔が映っている。頬が赤い。狼に照れている悪役令嬢。絵面がおかしい。


薬草を摘んで帰る途中、ルークが立ち止まった。


耳がぴんと立っている。警戒の姿勢。尻尾が水平になって動かない。


「どうしたの」


低い唸り声。私の前に出て、片前脚を引いた。威嚇のポーズ。でも向いている方向は私じゃなく、森の奥——北西の方角。


何かがいる。


茂みが揺れた。重い足音。枝を踏む音。


——熊だ。


茶色い巨体が木の間から現れた。体長は二メートルを超えている。前世の知識が「ツキノワグマより大きい。ヒグマくらいか」と分類しようとするが、この世界の熊が地球の熊と同じとは限らない。


ルークの唸り声が一段低くなった。全身の毛が逆立っている。牙をむき出しにして、体を大きく見せている。


熊がこちらを見ている。鼻をひくつかせて匂いを嗅いでいる。


前世の知識。熊に出会ったら——走らない。目を合わせない。ゆっくり後退する。


でもルークが前にいる。戦うつもりだ。


「ルーク、やめて。戦わなくていい」


ルークが振り返らない。唸り声が止まらない。


「お願い。退いて。一緒にゆっくり下がろう」


片手でルークの背中に触れた。毛が逆立っている感触が手のひらに刺さる。心拍が速い。異常に速い。


「ルーク」


もう一度名前を呼ぶ。しっかりと。動物看護師の声で。


ルークが一瞬だけ振り返った。金色の瞳。怒りと——恐怖。私が傷つくことへの恐怖。


「大丈夫。私がいるから。一緒に下がるよ」


ルークの毛が少しだけ落ち着いた。


二人で、一歩ずつ後退する。私が先に下がって、ルークが追いかけるように下がる。目は熊から逸らさない。


熊が一歩前に出た。


ルークが吠えた。ものすごい声量の咆哮。地面が震えるような低音。前世で聞いたどの犬の声とも違う。これは狼の声だ。群れを守る狼の。


熊が止まった。


二秒。三秒。


熊が背を向けて、のそりと森の奥に消えていった。


私の脚から力が抜けた。その場にへたり込む。心臓が痛いくらいに鳴っている。手が震えている。


ルークが駆け寄ってきた。鼻先を頬に押し付けてくる。くうん、くうん、と高い声で鳴いている。大丈夫か、大丈夫か、と。


「……大丈夫。大丈夫だよ」


ルークの首に腕を回した。銀色の毛に顔を埋める。心臓の鼓動がルークの体を通じて伝わってくる。ルークの心臓もまだ速い。


「守ってくれたんだね」


尻尾が揺れている。大きく、ゆっくり。はいでもいいえでもない、あの揺れ方。


「ありがとう、ルーク」


毛並みに顔を押し付けたまま、深く息を吸った。森の匂い。土と苔と、ルークの体温。


しばらくそのままでいた。手の震えが止まるまで。


「——帰ろう」


立ち上がって歩き出す。ルークが隣を歩く。いつもより近い。肩が私の腰に当たるくらいの距離。離れようとしない。


小屋に着いて、暖炉に火を入れて、スープを温めて。日常の手順を一つずつこなしていくうちに、恐怖が薄れていく。


夕食を食べ終えて、暖炉の前に座る。ルークが私の膝に顎を乗せている。


「ルーク」


耳がこちらを向く。


「次の満月にね、聞きたいことが増えた」


尻尾が小さく揺れる。


「この森にはああいう危険もあるんだね。一人じゃ無理だったかも」


ルークが顔を上げた。金色の瞳がまっすぐにこちらを見ている。


尻尾が揺れている。一回。力強く。


——ここにいる。


言葉がなくても、尻尾が語っていた。


「うん。知ってるよ」


窓の外で半月が光っている。満月まであと二週間。


ルークの尻尾がゆっくり揺れている。穏やかな揺れ。安心の揺れ。


私はその尻尾を見ながら思った。この揺れが止まらない場所を、私は守りたいのだと。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ