第7話「しっぽが揺れている」
ルークの尻尾には感情が全部出る。
一緒に暮らし始めて六週間。満月を二回越えた。人の姿のルークは無口で表情が乏しいが、狼の姿のルークは尻尾が雄弁だ。
朝、私が起きたときの尻尾——ぱたぱた。小刻みで速い。「おはよう、待ってた」の揺れ。
ごはんを準備しているときの尻尾——ぶんぶん。大振りで力強い。「腹減った、早く」の揺れ。
私が薬草を摘みに出かけるときの尻尾——ゆらり。一回だけ、ゆっくり。「行ってらっしゃい」の揺れ。
私が帰ってきたときの尻尾——全力。残像が見える。体ごと揺れている。もはや尻尾が本体で胴体がおまけみたいな振り方。「おかえり!」の揺れ。
「あなた、尻尾で全部バレてるからね」
ルークが耳を後ろに倒した。気まずいときの仕草だ。
今日は特別な日ではない。いつもの朝だ。でも「いつもの朝」が心地よいこと自体が特別だと思うようになったのは、いつからだろう。
朝食を済ませて、小屋の外に出た。ルークがついてくる。最近は薬草摘みにも一緒に来る。先に走っていって、良い薬草が生えている場所で座って待っている。道案内のつもりらしい。
「今日は南の方に行ってみたいんだけど」
ルークが首を傾げて、少し考えるような間を置いてから歩き出した。南東に進路を取っている。
「東に寄ってない?」
尻尾一回。はい——わざとだ。南より南東の方がいいと判断しているらしい。
着いた場所は小さな泉だった。透明な水が湧いている。周囲に薬草が密生していて、見たことのない種類もある。泉の水面に映った空が青い。
「ここ、知らなかった」
しゃがんで泉の水に手を浸す。冷たい。でも凍えるほどではない。地下水だろうか。年間を通して温度が一定な感じがする。
ルークが泉の縁に座って水を飲んでいる。銀色の毛並みが水面に反射して、二匹のルークがいるみたいだ。
「綺麗だね」
尻尾がふわりと揺れた。一回でも二回でもない、はいともいいえとも違う揺れ。同意とも少し違う。
「どういう意味のしっぽ?」
ルークが水面から顔を上げて、濡れた鼻先でこちらを見た。口元が開いて舌が少し出ている。犬の笑顔。
「——嬉しいの?」
尻尾が大きく一回。はい。
「何が嬉しいの。泉? 水?」
二回。いいえ。
「じゃあ何」
ルークが視線を泉から私に移した。じっと見つめている。尻尾がゆったり揺れている。
「……私?」
一回。控えめに。
心臓がどきりとした。狼に見つめられて心臓が鳴るのは客観的にどうかと思うが、この狼が月に一度イケメンになることを知っている以上、ただの動物として扱いきれない部分がある。
「はいはい。ありがとう」
照れ隠しで顔を逸らした。泉の水面に自分の顔が映っている。頬が赤い。狼に照れている悪役令嬢。絵面がおかしい。
薬草を摘んで帰る途中、ルークが立ち止まった。
耳がぴんと立っている。警戒の姿勢。尻尾が水平になって動かない。
「どうしたの」
低い唸り声。私の前に出て、片前脚を引いた。威嚇のポーズ。でも向いている方向は私じゃなく、森の奥——北西の方角。
何かがいる。
茂みが揺れた。重い足音。枝を踏む音。
——熊だ。
茶色い巨体が木の間から現れた。体長は二メートルを超えている。前世の知識が「ツキノワグマより大きい。ヒグマくらいか」と分類しようとするが、この世界の熊が地球の熊と同じとは限らない。
ルークの唸り声が一段低くなった。全身の毛が逆立っている。牙をむき出しにして、体を大きく見せている。
熊がこちらを見ている。鼻をひくつかせて匂いを嗅いでいる。
前世の知識。熊に出会ったら——走らない。目を合わせない。ゆっくり後退する。
でもルークが前にいる。戦うつもりだ。
「ルーク、やめて。戦わなくていい」
ルークが振り返らない。唸り声が止まらない。
「お願い。退いて。一緒にゆっくり下がろう」
片手でルークの背中に触れた。毛が逆立っている感触が手のひらに刺さる。心拍が速い。異常に速い。
「ルーク」
もう一度名前を呼ぶ。しっかりと。動物看護師の声で。
ルークが一瞬だけ振り返った。金色の瞳。怒りと——恐怖。私が傷つくことへの恐怖。
「大丈夫。私がいるから。一緒に下がるよ」
ルークの毛が少しだけ落ち着いた。
二人で、一歩ずつ後退する。私が先に下がって、ルークが追いかけるように下がる。目は熊から逸らさない。
熊が一歩前に出た。
ルークが吠えた。ものすごい声量の咆哮。地面が震えるような低音。前世で聞いたどの犬の声とも違う。これは狼の声だ。群れを守る狼の。
熊が止まった。
二秒。三秒。
熊が背を向けて、のそりと森の奥に消えていった。
私の脚から力が抜けた。その場にへたり込む。心臓が痛いくらいに鳴っている。手が震えている。
ルークが駆け寄ってきた。鼻先を頬に押し付けてくる。くうん、くうん、と高い声で鳴いている。大丈夫か、大丈夫か、と。
「……大丈夫。大丈夫だよ」
ルークの首に腕を回した。銀色の毛に顔を埋める。心臓の鼓動がルークの体を通じて伝わってくる。ルークの心臓もまだ速い。
「守ってくれたんだね」
尻尾が揺れている。大きく、ゆっくり。はいでもいいえでもない、あの揺れ方。
「ありがとう、ルーク」
毛並みに顔を押し付けたまま、深く息を吸った。森の匂い。土と苔と、ルークの体温。
しばらくそのままでいた。手の震えが止まるまで。
「——帰ろう」
立ち上がって歩き出す。ルークが隣を歩く。いつもより近い。肩が私の腰に当たるくらいの距離。離れようとしない。
小屋に着いて、暖炉に火を入れて、スープを温めて。日常の手順を一つずつこなしていくうちに、恐怖が薄れていく。
夕食を食べ終えて、暖炉の前に座る。ルークが私の膝に顎を乗せている。
「ルーク」
耳がこちらを向く。
「次の満月にね、聞きたいことが増えた」
尻尾が小さく揺れる。
「この森にはああいう危険もあるんだね。一人じゃ無理だったかも」
ルークが顔を上げた。金色の瞳がまっすぐにこちらを見ている。
尻尾が揺れている。一回。力強く。
——ここにいる。
言葉がなくても、尻尾が語っていた。
「うん。知ってるよ」
窓の外で半月が光っている。満月まであと二週間。
ルークの尻尾がゆっくり揺れている。穏やかな揺れ。安心の揺れ。
私はその尻尾を見ながら思った。この揺れが止まらない場所を、私は守りたいのだと。




