第5話「ここにいていいか」
二度目の満月が来た。
ルークを拾ってからほぼ五週間。傷はとっくに治っている。狼の姿のルークは毎日森を駆け回り、夕方になると獲物を咥えて帰ってくる。鹿の脚とか、兎とか。狩りが上手い。
おかげで食糧事情が劇的に改善した。追放されたばかりの頃は木の実と干し肉で凌いでいたのに、今はルークが持ってきた兎で煮込みスープを作れる。
服も縫えた。狼のサイズから人間の体格を推定するのは無理があったが、「前脚の長さ×こう×ああ」と試行錯誤して、多分着られるだろうという一着ができた。麻のシャツと、余り布で作ったズボン。裁縫の技術は前世にも今世にもなかったので、縫い目はがたがたしている。
日が暮れて、月が昇り始めた。
ルークが落ち着かない。前回と同じだ。小屋の中をうろうろして、窓の外を見て、私の顔を見て。でも前回と違うのは、威嚇しないこと。距離を取ろうとしないこと。
「大丈夫だよ。わかってるから」
私が声をかけると、尻尾を一回振った。はい。
月光が窓から差し込む。銀色の毛が光り始める。骨格が軋む音。
今回は見ていた。前回は驚いて思考が停止したが、今回は動物看護師の目で見た。
変身は三十秒ほどで完了する。痛みを伴うようだが、前回ほどではない。慣れるものなのか、それとも前回は長い間人化していなかったのか。
月明かりの中に、銀髪の青年が膝をついていた。
「——服」
第一声がそれだった。
「はい、どうぞ」
用意しておいたシャツとズボンを差し出す。今回は後ろを向かなくてもいい——と思ったが、やっぱり向いた。
「……着た」
振り返る。ルークが立っている。シャツのサイズは大きすぎず小さすぎず、一応着られている。ただし袖が少し短い。ボタンは一つずれている。
「袖、もうちょい長くすればよかったね」
「充分だ」
「ボタンずれてるよ」
ルークが下を向いて、ボタンを一つずつ外して嵌め直す。指先がぎこちない。人の手の感覚に慣れていないのだろう。月に一度しか使わない手だ。
「手伝おうか」
「——自分でやる」
三十秒かけてボタンを嵌め直した。表情がほとんど変わらないのに、どことなく達成感が漂っている。
「よくできました」
「子ども扱いするな」
「大きい子どもみたいなんだもの」
ルークがむすっとした顔をした。狼のときの「不満げに鼻を鳴らす」と同じ表情。口の端が下がって、眉間に皺が寄る。
可愛い。——いけない。イケメンを可愛いと思うな。混乱する。
「座って。今日はちゃんと話したいことがあるんでしょう」
暖炉の前に並んで座る。前回は距離を空けたが、今回はもう少し近い。スープを温めて、二人分の器に注ぐ。
ルークが器を受け取って、湯気の向こうから匂いを嗅いだ。
「……兎と根菜の煮込み?」
「正解。あなたが獲ってきた兎だよ」
ルークがスープを一口飲んだ。目が少しだけ見開かれた。
「美味い」
「狼のときは味がわからないの?」
「わかるが、違う。人の舌の方が——複雑に感じる。甘いとか、塩気とか」
「へえ。犬も味覚の受容体は人間より少ないって言われてるもんね」
「犬と一緒にするな」
「狼と犬は同じ種だよ。カニス・ルプスの亜種」
「……何語だ」
「前世の学名。気にしないで」
スープを飲みながら、少しずつ話した。
ルークの一族——狼族は、この森の奥深くに住んでいる。二十頭ほどの群れ。全員が満月の夜に人化できるが、普段は狼として暮らしている。人間の言葉は理解できるし話せるが、人間と関わることは禁じられている。
「なぜ?」
「昔、狼族と人間の間で争いがあった。それ以来、互いの領域を侵さないのが掟だ」
「でもあなたは私の小屋にいる」
「……ああ」
ルークがスープの器を両手で包んで、中を見つめている。湯気が銀色の前髪を揺らす。
「怪我をしたとき、群れに戻れなかった。動けなかった。お前が——ローゼマリーが助けてくれた」
「うん」
「治ったら群れに戻るつもりだった」
「うん」
「でも——」
ルークが口を閉じた。暖炉の薪がぱちりとはぜる。沈黙が長い。狼の姿なら尻尾で答えてくれるのに、人の姿だと言葉を選びすぎて黙ってしまう。
「ルーク」
「何だ」
「尻尾ないけど、振りたい?」
「…………は?」
「いや、狼のときは質問したら尻尾振ってくれるから便利だなって。人のときは読みづらい」
ルークの耳——人間の耳だが——が赤くなった。
「……振りたくない」
「今のは尻尾一回? 二回?」
「どっちでもない。人には尻尾がない」
「残念」
ルークがふっと息を吐いた。笑ったのかもしれない。表情が微かにゆるんでいるが、暖炉の明かりでよく見えない。
「——ここにいていいか」
ぽつりと落ちた言葉。スープの器を見つめたまま。
「怪我は治った。群れに戻る理由はある。掟も破っている。でも」
暖炉の火が揺れる。ルークの影が壁に伸びている。
「ここの飯が美味い」
「……え?」
「お前のスープが美味い。狼のときも人のときも。それと」
「それと?」
「お前は——ローゼマリーは、俺を怖がらない」
「怖がるわけないでしょ。前世で動物看護師やってたんだから」
「俺は動物じゃない」
「半分は——」
「今は人だ」
目が合った。金色の瞳が真っ直ぐにこちらを見ている。暖炉の光を映して、深い琥珀色に輝いている。
人だ。今目の前にいるのは、狼ではなく人だ。
心臓がとくんと鳴った。一回だけ、強く。
「——いていいよ」
私は視線を逸らさずに言った。
「ここにいていいよ。ルーク」
ルークの表情が動いた。口元が微かにゆるんで、目が少しだけ細くなる。笑顔、というには控えめすぎる。でも確かに何かがほどけた顔。
「……ありがとう」
「お礼は兎で。明日も狩りよろしく」
「ああ」
窓越しの月が、二人の間の床に白い四角を落としている。
あと数時間で月が沈んで、ルークは狼に戻る。言葉が使えなくなる。でも尻尾がある。金色の瞳がある。もふもふの毛並みがある。
「ルーク」
「何だ」
「次の満月に人になったら、もっといろいろ聞きたい。あなたのこと。狼族のこと。この森のこと」
「……わかった」
「あと、今度はもうちょっとましな服を縫っておく」
「今のでいい」
「袖が短いでしょ」
「気にしていない」
「私が気になるの」
またふっと息を吐く。今度ははっきり笑みが見えた。ほんの一瞬。でも見逃さなかった。
月が傾き始めている。二度目の満月の夜が終わろうとしている。
——この人を、もっと知りたい。
そう思ったとき、遠くで狼の遠吠えが聞こえた。ルークの耳がぴくりと動く。
「兄貴だ」
ルークの声が低くなった。群れの長が、弟を探している。
「……戻らなくて大丈夫?」
「朝になったら、少し顔を出す」
それだけ言って、ルークはスープの残りを飲み干した。その横顔は、さっきまでとは少し違う——何かを決めたような、でもまだ迷いを残した顔。
遠吠えが、もう一度森に響いた。




