第4話「服を、貸してください」
夜が明ける前に目が覚めた。
窓の外はまだ暗い。月は沈みかけている。暖炉の火は熾になっていて、赤い光が床を這う。
ルークは——人の姿のルークは、暖炉の前で壁に背を預けて座っていた。目を閉じている。眠っているのか。
「起きてる」
低い声。目を閉じたまま。
「……びっくりした」
「すまない」
「謝らなくていいよ」
起き上がって、暖炉に薪をくべる。火が息を吹き返して、オレンジの光が広がった。ルークの銀髪が火に照らされている。
「月が沈んだら戻るって言ってたよね」
「ああ。もうすぐだ」
「じゃあ聞きたいことを先に聞くね」
「……何だ」
私は膝を抱えて、ルークの隣に座った。少し距離を空けて。でも声が聞こえる距離で。
「なんで罠にかかったの」
ルークが目を開けた。金色の瞳が暖炉の炎を映している。
「猟師が森の奥に罠を仕掛けている。最近増えた。狼を狙っているわけじゃない——鹿や猪の罠だ。だが場所が悪い。俺たちの縄張りに近い」
「俺たち?」
「狼族は群れで暮らしている。俺の兄が群れの長だ」
兄がいるのか。狼族には群れがあって、長がいて、社会構造がある。
「罠を避けられなかったのは——少し、考え事をしていたからだ」
「何を考えてたの」
沈黙。
「……それは」
言いかけて口を閉じる。狼のときの「顔を背ける」と同じ仕草——首を少しだけ横に向ける。
「まあ、いいよ。無理に聞かない」
ルークが少し驚いた顔をした。「聞かないのか」と。
「動物病院でね、保護された子が何を経験してきたか、すぐには聞かないの。信頼関係を作ってから。焦ると逆効果」
「俺は動物じゃない」
「半分は動物でしょ」
「………」
否定できなかったらしい。
窓の外が白み始めている。東の空に薄い藍色が広がる。月が森の向こうに沈みかけている。
「もう少しで朝だ」
ルークが立ち上がった。私の予備シャツの裾を掴んで、もじもじしている。さっきまで無表情だった人がもじもじしている。ギャップが凄い。
「このシャツ、朝になったら——」
「あ、脱ぐのか。狼に戻るとき」
「……ああ」
「破れるの?」
「服を着たまま変わると破れる」
「じゃあ脱いでから変わって。それ私の予備だから」
ルークがまたもじもじした。
「——後ろを向いてくれ」
「もちろん向くよ!」
くるりと背を向ける。衣擦れの音。シャツが床に落ちる音。
そして、昨夜の逆の変化が始まった。骨が軋む音がする。前ほど荒々しくない。ゆっくりと、静かに、人の輪郭が獣の輪郭に溶けていく。
音が止んだ。
振り返ると、銀色の狼がいた。
ルークだ。いつものルーク。金色の瞳でこちらを見上げているルーク。
「……おかえり」
変な言い方だ。どっちの姿がルークの「本当」なのかわからないけれど、七日間一緒にいたこの銀色の姿が、私にとっては先に馴染んだ方。
ルークが尻尾を振った。ぱたん、ぱたん。ゆっくり。
「お手」
前脚が手のひらに乗った。ずしり。温かい。毛並みの感触。
昨夜の約束を、覚えていた。
不思議な感覚だった。この前脚を持ち上げている存在は、数分前まで銀髪のイケメンだった。名前を呼ばれて心臓が跳ねた相手と同じ存在だ。でも今は狼で、もふもふで、手のひらにある体温がどうしようもなく懐かしい。
「……困ったな」
ルークが首を傾げる。
「あなた、もふもふのときは可愛くて撫でたくなるし、人のときはイケメンで直視できないし。どうしたらいいの」
尻尾がぱたぱた揺れている。犬の笑顔に似た表情。わかっていないのか、わかっていてとぼけているのか。
「ルーク。一つお願いがあるんだけど」
耳がぴくっ。
「次の満月に人になったら——先にサイズの合う服を用意しておくから。私のシャツじゃなくて、ちゃんとしたの」
尻尾が止まった。一秒。二秒。
そしてふわっと大きく一振り。
「約束ね」
ルークが鼻先を私の手首に押し付けた。昨日まで毎朝していた挨拶。でも今日は意味が違う。この仕草の向こう側に、言葉を持つ存在がいると知っている。
「さ、朝ごはんにしよう。あなたは肉のスープね。人のときは何が食べたいか、次の満月に聞くから」
立ち上がって鍋を火にかける。ルークが暖炉の横に座って、いつもの場所に陣取る。
いつもの朝だ。でも、もう「いつも」は昨日までと同じじゃない。
——次の満月は二十九日後。
ほぼ一ヶ月。その間、ルークは狼のままだ。言葉で話すことはできない。
それでも。
「ルーク、尻尾一回は『はい』、二回は『いいえ』にしよう。便利でしょ」
ルークが一回振った。はい。
「ここにいたい?」
一回。
「お腹すいてる?」
一回。大きく。
「じゃあごはんだね」
スープの湯気が小屋に広がる。肉と薬草の匂い。ルークの鼻がひくひく動いている。
日常が戻ってくる。でもこの日常の中に、新しい秘密が一つ増えた。
満月の夜に人になる狼と、追放された悪役令嬢の二人暮らし。
「——あ、そうだ。ルーク」
耳がこちらを向く。
「次の満月まで、あなた用の服を縫わなきゃいけないんだけど。サイズ感がわからないの。人のときの記憶しかないから——肩幅とか、腕の長さとか」
ルークが私の顔を見て、ゆっくり尻尾を振った。一回。はい。
「じゃあ採寸させてくれるの? ……って、今は狼か。人の体を測りたいのに」
ルークが床にうつ伏せになって、前脚をぐっと伸ばした。後ろ脚も伸ばす。全長を見せている。
「なるほど、狼のサイズから推定しろってこと?」
一回。
「無茶言わないでよ。狼と人間じゃ骨格が全然——」
ルークの耳がぺたんと垂れた。しゅん、とした表情。
「……ごめん。がんばって推定する」
尻尾復活。
私は笑った。追放されてから初めて、声を出して笑った。
この生活は想定外だ。前世のゲーム知識にこんなイベントはなかった。でも——前世で保護動物と過ごした日々と、どこか重なるものがある。
言葉が通じなくても伝わるものがあって、言葉が通じるのに伝わらないものがある。
次の満月の夜まで、聞きたいことを溜めておこう。服も縫っておこう。
——そういえば、ルークの兄がいると言っていた。群れの長。人間と関わらないのが掟。
この生活を知ったら、その兄はどう思うのだろう。
考えかけて、やめた。今はスープが冷める方が大事だ。




