第3話「満月の夜、裸の男」
満月の夜がきた。
夕方から空気が違った。ルークが落ち着かない。小屋の中をうろうろして、窓から外を見て、また歩いて、また窓を見る。
「どうしたの、ルーク」
普段は私が声をかけると尻尾を振るのに、今日は耳を伏せてくうんと鳴くだけだ。顔を背ける。目を合わせようとしない。
前世の経験則が囁く。動物が目を合わせなくなるときは二つ。恐怖か、後ろめたさだ。
「大丈夫。何があっても大丈夫だから」
根拠のない言葉だ。でも動物に向ける言葉に根拠は要らない。声のトーンが全てだ。穏やかに、低く、安定した声で。
日が暮れた。暖炉に火を入れる。ルークは暖炉の前ではなく、小屋の隅で丸くなっている。私から距離を取ろうとしている。
窓の外で月が昇り始めた。
雲がゆっくり流れて、満月が顔を出す。月光が窓枠の影を床に落とし、その白い帯がじりじりとルークの背中まで這っていった。
ルークが低く唸った。苦しそうな声。怪我の痛みとは違う、もっと深いところから絞り出されるような。
「ルーク!?」
駆け寄ろうとした。でもルークが歯をむき出してこちらを威嚇した。初めてだ。出会ってから一度もなかった威嚇。「来るな」と言っている。
私は立ち止まった。
月光がルークの全身を包む。銀色の毛が——光っている。内側から発光するように。
体が変わり始めた。
骨格が軋む音が聞こえる。がりがりと、関節が外れるような嫌な音。毛並みが波打ち、体の輪郭が揺らぐ。前脚が伸びて、後ろ脚が伸びて、丸まっていた背中が起き上がる。
私は動けなかった。恐怖ではない。前世で何度も動物の出産に立ち会ったときと同じ——「今この瞬間に声を出してはいけない」という、職業的な直感。生き物が変わる瞬間は、静かに見守るしかないのだ。
光が収まった。
月明かりの中に、人がいた。
銀色の髪。裸の背中。床に膝をついて、荒い呼吸をしている。筋肉質だが細身の体。肌が月光を反射して白く浮かんでいる。
男だ。青年だ。裸の。
「——————!?」
悲鳴が出なかった。出そうとしたのに、喉が締まって声にならなかった。代わりに一歩後退って、椅子の背もたれを掴んだ。爪が木に食い込む感触。
青年が振り返った。金色の瞳。ルークと同じ金色の瞳。
「……すまない」
声が聞こえた。低い。かすれている。今まで何日も使っていなかった喉で出す声。
「驚かせて、すまない」
私の脳がようやく働き始めた。目の前の状況を一つずつ整理する。ルークがいた場所に裸の男がいる。銀髪。金色の瞳。ルークと同じ。つまりこの男はルークで、ルークはこの男で——。
「え、ちょっと」
「……落ち着いて聞いてほしい」
「落ち着いてるわけないでしょう! ルークなの!? あなたルークなの!?」
青年が——ルークが——ゆっくり頷いた。
その瞬間、私の中で二つの感情が衝突した。「狼が人になった」という驚愕と、「裸の男が自分の小屋にいる」という危機感。そして三秒遅れて第三の感情がやってくる。
イケメンだ。
すごく、イケメンだ。
銀色の髪が肩まで流れて、彫りの深い顔立ちに金色の瞳が映えて、鎖骨のラインが暖炉の光で影を作っている。
——いやいやいや、今それどころじゃない。
「あ、あの」ルークが口を開く。言葉がたどたどしい。「服を——」
「!?」
裸だった。完全に裸だった。狼に服はない。当たり前だ。変身して服が出てくるわけがない。でもだからって——。
「み、見てない! 見てないから!」
振り返って目を覆う。指の隙間から何も見えないことを確認する。心臓が暴れている。前世でも男性の裸体を見たことはあるが——違う、前世は動物看護師で見るのは動物で——話がおかしくなってきた。
「タンスに予備のシャツがあるから! 下の段! 勝手に出して!」
背後で布がすれる音。引き出しを開ける音。衣擦れの音。
「……着た」
おそるおそる振り返る。
ルークが私の予備のシャツを着ていた。丈が短い。ボタンが閉まらない。胸元が開いて鎖骨から腹筋の上あたりまで見えている。太ももは完全に出ている。
「サイズ合ってないんだけど!」
「俺のせいじゃない」
低い声。ぼそりとした口調。表情がほとんど動かない。でも耳の先が赤い。
——あ、照れてるんだ。
その「照れてる」が狼のときの「耳を後ろに倒す」仕草と重なって、脳が混乱する。さっきまでもふもふの狼だった存在が、今はシャツ一枚のイケメンとして目の前に立っている。
「説明して。今すぐ」
「……長くなる」
「短くまとめて」
ルークが一拍黙って、それから口を開いた。
「俺は狼族だ。普段は狼の姿で生きている。満月の夜だけ、人の姿になれる」
「狼族」
「この森に住む一族だ。人間とは関わらないのが掟」
「掟を破ってるじゃない」
「……怪我をしていた。お前が助けた」
「お前」
「すまない。……ローゼマリーが助けてくれた」
名前を呼ばれて心臓が跳ねた。前世含めて、こんなに低い声で名前を呼ばれたことがない。
暖炉の火がぱちりとはぜて、ルークの横顔を照らす。金色の瞳が炎を映している。さっきまで狼の目で見ていたのと同じ色。同じ光。
「……あなたが、あのルークなのね」
「ああ」
「お手もお座りもできるルーク」
「……あれは、その」
「腹を見せて撫でてもらって尻尾振ってたルーク」
ルークの顔が赤くなった。銀髪の下で耳まで真っ赤だ。
「あれは——狼の本能で——」
「本能で腹を見せるの?」
「……見せる。信頼した相手には」
暖炉の薪が崩れて、火の粉が舞った。
信頼。この人は——この狼は——私を信頼して腹を見せていたのか。
急に恥ずかしくなった。もふもふだもふもふだと夢中で腹を撫でていた相手が、人の姿でこんな顔をする存在だったなんて。
「月が沈んだら、また狼に戻る」
ルークがぽつりと言った。窓の外の満月を見ている。
「人でいられるのは、満月の夜だけだ」
その横顔が、少しだけ寂しそうに見えた。
——ああ、だから。言葉で伝えたいことがあるのに言えなかったのは、声が出せなかったからだ。
「ルーク」
「何だ」
「明日の朝、また狼に戻ったら——もう一回お手してくれる?」
ルークがぽかんとした顔をした。狼のときには見たことがない表情。間抜けで、驚いていて、少しだけ笑いそうな顔。
「……正気か」
「正気だよ。だって、もふもふのルークも好きだし」
言ってから気づいた。「好き」は語弊がある。もふもふが好きなのだ。毛並みが。
ルークが何か言いかけて、やめた。代わりに視線を逸らして、小さな声でぼそりと呟いた。
「……朝になったら、する」
窓の外で、月がゆっくりと西に傾き始めていた。




