エピローグ
春が来て、森に花が咲いた。
小屋の前に植えたローズマリーの苗が、冬を越えて芽吹いている。ミーナに分けてもらった株だ。「あなたの名前と同じでしょう」と笑いながら渡してくれた。
朝日に照らされたテーブルで、二人分の朝食を並べている。パンと、スープと、干し果物。フォークが二本。
「ルーク、ご飯」
暖炉の前で丸くなっていた銀色の狼が、もそもそと起き上がった。新月が近いので、ここ数日は狼の姿だ。
尻尾を振りながらテーブルに近づいてくる。床に置いた器からスープを舐め始めた。
——一年が経った。
森で傷ついた狼を拾った日から、もう一年。あの日、前脚から血を流してぐったりしていた銀色の狼は、今では毎朝元気に尻尾を振っている。傷跡はもう見つけられない。
この一年で、いろいろなことが変わった。
グリムは月に一度、小屋に顔を出すようになった。最初は薬の受け渡しだけだったのが、いつの間にかミーナのお茶を飲んでいくようになり、先月はピートと三人で暖炉の前に並んで昼寝していた。群れの長としての威厳はどこに行ったのか。
ピートは人化が上手くなってきた。まだ半日しか持たないけれど、人間の姿で小屋に遊びに来ては、覚えたての言葉をまくし立てていく。先週は「ローゼマリーのパン、おいしい」と完璧な文で褒めてくれた。その直後に狼に戻って、テーブルの下で丸くなったけれど。
群れとの関係も安定した。月に一度、ルークが薬を届ける。私も時々同行して、怪我をした狼の手当てをする。最初は警戒されたけれど、灰色の老狼が足を引きずっているのを治してからは、群れの狼たちも私に鼻先を寄せてくるようになった。
ミーナは相変わらずだ。「あら、今日は人? 狼?」と聞くのが挨拶代わり。薬草の秘密の調合は、まだ教えてもらえていない。「もう少し仲良くなってから」と言い続けて一年。いつまで引っ張るつもりだ。
スープを飲み終えたルークが、テーブルの脚に体を擦りつけてきた。満腹で機嫌がいいときの仕草だ。
「ルーク、毛がつく」
聞いていない。ごろんと床に転がって、腹を見せてきた。
「……撫でろってこと?」
尻尾がばたばた。
しゃがんで腹を撫でた。銀色の腹毛は背中より柔らかい。指を入れるとふわっと沈む。冬毛が残っていて、特にもふもふ度が高い。
「あなた、一年前よりもふもふ度上がってない?」
得意げに鼻を鳴らした。自覚があるらしい。
腹を撫でながら、ふと思う。
——私は、悪役令嬢だった。
伯爵令嬢ローゼマリー・シュトラウス。乙女ゲームの悪役で、王子に断罪されて辺境に追放された。前世の記憶がなければ、もっと惨めに朽ちていたかもしれない。
でも、前世の記憶がある。動物病院の看護師だった記憶。動物の扱い方、怪我の手当て、薬の知識。この世界では何の役にも立たないと思っていた記憶が、森での暮らしを支えてくれている。
そして、ルークを拾った。
王子に見捨てられた悪役令嬢が、森で拾った狼に救われるなんて。前世でプレイした乙女ゲームには、こんなルートはない。
ルークが腹を撫でる手に鼻先を押しつけてきた。「もっと」の合図。
「欲張り」
耳の後ろに手を移した。目を細めて、鼻からふうっと長い息を吐く。至福の顔だ。
午後になって、ルークと森を歩いた。
群れの縄張りの手前まで来ると、茂みからピートが飛び出してきた。小さな狼が、私の足に体当たりしてくる。よろけた私をルークが支える形になって、三匹——もとい、一人と二匹が団子になった。
「ピート、もう少し加減して」
「きゅん!」
加減する気はないらしい。
帰り道、夕日が森を染める中を歩いた。ルークが半歩前を行く。銀色の毛並みが橙色に光って、一年前と同じ景色。でも一年前とは違う。
あの頃は「放っておけない」だった。今は「手放したくない」だ。
小屋に戻ると、クローゼットが目に入った。左側に私の服。右側にルークの服。一年かけて少しずつ増えたルークの服は、今では私のものと同じくらいの量になっている。
夜。暖炉の前に並んで座った。ルークが私の膝に頭を載せて、目を閉じている。
月は新月に近い。細い三日月が窓の外に浮かんでいる。
「ルーク」
耳がぴくり。
「一年前、あなたを拾ったとき。まさかこうなるとは思わなかった」
尻尾が一度揺れた。
「追放されて、一人で暮らすつもりだった。前世の知識があるから、なんとかなるって。動物の世話なら得意だし、薬の知識もあるし。一人でも平気だって」
ルークの耳がこちらに向いている。
「でも、一人じゃなくなった。あなたがいて、ミーナがいて、ピートがいて、グリムまでお茶を飲みに来る。森の狼たちも私に鼻を寄せてくれる」
頭を撫でた。銀色の毛が指の間をすり抜ける。
「全部、あなたが始まりだった。あの日、森であなたを見つけたから」
ルークが顔を上げた。琥珀の目がまっすぐ私を見つめる。
「ありがとう。ここにいてくれて」
ルークが私の手をぺろりと舐めた。ざらりとした舌の感触。初めて会った日も、こうやって舐めてくれた。手当てをする私の手を、お礼のように。
「次の満月になったら、また言ってね」
首を傾げる。
「人間の声で、聞きたいの。『ずっとここにいる』って」
ルークの尻尾が揺れ始めた。ゆっくりと、大きく。
私は笑った。
「やっぱり分かる。しっぽが揺れてると、嬉しいんだって」
ルークが鼻を鳴らした。照れたときの声。一年一緒にいれば、鳴き声だけで感情が読める。
暖炉の火が爆ぜた。小さな火の粉が舞い上がって、消える。
窓の外で、虫が鳴いている。春の虫。冬の間は聞こえなかった音が、戻ってきた。
ルークが目を閉じた。規則正しい呼吸。安心しきった寝顔。
この狼が人になる夜を、私は待っている。
でも、待たなくてもいい。狼のままでも、ルークはルークだ。もふもふで甘えん坊で、尻尾で全部喋ってしまう、世界で一匹の——いや、一人の。
——どちらでもいい。
ルークはルークだ。
しっぽが、揺れている。眠りの中でも、揺れている。
私はその銀色の頭を撫でながら、暖炉の火を見つめた。
悪役令嬢の追放生活は、もふもふとイケメンに囲まれて、まだまだ続く。




