第29話「しっぽが、揺れている」
満月の夜が来た。
夕暮れ時から、ルークはそわそわしていた。狼の姿のまま小屋の中をうろうろ歩き回り、窓の外をちらちら見ている。
「落ち着きなさいよ」
私だって落ち着いていないのだけれど、それはルークには言えない。心臓がうるさい。朝から何も手につかなくて、薬草の瓶を二回落とした。ミーナに「何かあったの?」と聞かれて「何もない」と答えたら、「嘘が下手ねえ」と笑われた。
月が昇る。
ルークの毛並みがざわつく。銀色の毛が光を帯びて、体の輪郭がぼやけていく。何度見ても息を呑む。
光が収まった。
銀髪の青年が立っている。
「服」
「はい」
クローゼットを開けた。右側に並ぶルークの服を取り出す。シャツとズボン。ルーク専用の、この小屋に置かれた服。
ルークが袖を通す。ボタンを——今回は正しく留めた。成長している。
「ルーク」
「ああ」
「外、出よう」
小屋の前に出た。月が真上にある。森が銀色に照らされて、木の葉が一枚一枚光っている。空気が冷たくて、吸い込むと胸の奥がきゅっとなる。
ルークが隣に立っている。人間の姿。背が高くて、銀色の髪が月光を反射している。横顔が——きれいだ。いつも思うけれど、今夜は特に。
「ルーク」
「何だ」
「あのね」
口を開いて、閉じた。
練習した。この二週間、何度も。鏡の前で、薬草を整理しながら、ルークの寝顔を見ながら。何百回も頭の中でリハーサルした。
なのに、言葉が出てこない。
「ローゼマリー」
ルークが私の名前を呼んだ。低い声。人間のときの、少しかすれた声。
「俺から、言っていいか」
「え?」
ルークが正面を向いたまま、口を開いた。
「ここにいたい」
「——うん。知ってる。グリムにも言ったでしょ」
「違う。あのときとは違う」
ルークが私に向き直った。銀灰色の目が月の光を映して、透き通っている。
「あのときは——群れを離れてここにいたい、という意味だった」
「うん」
「今は違う」
ルークの手が伸びてきて、私の手を掴んだ。大きくて温かい手。狼のときの鼻先の感触とは全然違う。人間の指が、私の指を包み込む。
「お前の隣にいたい」
心臓が止まるかと思った。
止まらなかった。むしろ加速した。血液が全身を巡る音が耳の中で反響している。
「ルー——」
「狼のときも、人のときも。朝も夜も。ずっとここにいる。お前が許すなら」
許すなら、じゃない。許すとか許さないとか、そういう話じゃない。
目が熱い。鼻の奥がつんとする。
「ちょっと待って」
「断るのか」
「断らない! 断らないから、ちょっと待って。泣きそうだから」
ルークが困った顔をした。人間の顔で困る表情を見るのは珍しい。眉が下がって、口が半開きになっている。
「……泣くな」
「あなたのせいでしょう」
深呼吸した。冷たい夜気が肺を満たす。月の光が目に滲んで、ぼやけている。
「私もね」
ルークの手を握り返した。指に力を込める。
「言おうと思ってたの。この二週間、何度も練習してた」
「何を」
「——好き」
言った。
「狼のあなたも。人間のあなたも。もふもふで甘えん坊のあなたも、無口で不器用なあなたも。全部好き」
ルークの手がびくりと震えた。
「最初は分からなかった。傷ついた狼を拾って、看病して。それは前世の職業病だと思ってた。でも途中から変わったの。手放せなくなった」
ルークの銀灰色の目が揺れている。月の光を映した瞳が、きらきらしている。泣いているのか、それとも光の加減か。
「あなたの傷はもう治ってる。あの日、森で拾ったときの前脚の傷、とっくに完治してる。——なのにここにいてくれる。それがどれだけ嬉しいか、分かる?」
「……分かる」
「分かるの?」
「俺も同じだから」
ルークが一歩近づいた。近い。顔が近い。月明かりの下で、銀色のまつ毛が影を落としている。
「怪我が治ったとき、出ていくべきだと思った。世話になった礼を言って、群れに戻るべきだと」
「うん」
「でも、戻れなかった。お前が、朝起きて一番に俺の名前を呼ぶのが——」
ルークが言葉を切った。耳が赤い。人間の耳は狼の耳ほど正直じゃないけれど、赤くなるという点では大差ない。
「名前を呼ぶのが?」
「……嬉しかった」
ああ、もう駄目だ。泣く。
「泣くなと言ったぞ」
「無理」
涙がこぼれた。止められない。空を仰いだら月がぼやけて見えて、余計に涙が出た。
ルークの腕が伸びてきた。大きな手が私の頭にぽんと載る。
「お前がやっていたやつだ」
「なに」
「頭を撫でる。これで、泣き止むんだろう」
「犬じゃないんだけど」
「俺も犬じゃない」
笑ってしまった。涙と笑いが同時に出て、ぐちゃぐちゃだ。
ルークの手が不器用に髪を撫でている。力加減が分かっていなくて、少し痛い。でもいい。この不器用さがルークだから。
「ルーク」
「何だ」
「ここにいて。離れないで」
「言われなくても」
「狼でも人でも好き」
「……さっきも聞いた」
「何回でも言う」
ルークの手が止まった。それから、私の肩にそっと触れた。引き寄せられて、シャツの胸元に額がぶつかる。洗いたてのシャツの匂い。人間のルークの匂い。森と日向の匂いは狼のときと同じだ。
「ローゼマリー」
胸元から声が響く。低くて、温かい振動。
「俺は——狼でも人でも、お前の隣がいい」
腕が回された。ぎこちない抱擁。力の入れ方が分からないのか、締めつけたり緩めたりを繰り返している。
「力加減」
「すまん」
「もうちょっと、強くていい」
腕に力が込められた。温かい。人間の体温。心臓の音が聞こえる。狼のときと同じリズムで、力強く打っている。
月が二人を照らしている。
森は静かだ。虫の声も、風の音も、遠くなっている。聞こえるのはルークの心臓の音と、自分の呼吸だけ。
どれくらいそうしていたか分からない。
ルークが体を離した。銀灰色の目が、まっすぐ私を見ている。
「ローゼマリー」
「何」
「俺のしっぽ、今動いてるか?」
「——は?」
ルークの背後を見た。人間の姿なので、尻尾はない。
「ないわよ。人間だもの」
「そうか。でも、動いている気がする」
——ああ。
見えなくても、揺れているのだ。嬉しくて。
「動いてるよ」
「見えないだろう」
「見えなくても分かる。毎日見てきたから」
ルークが目を伏せた。月明かりの下で、頬が赤く染まっているのが見える。
「……そうか」
短い返事。でも、その声には今まで聞いたことのない柔らかさがあった。
私はルークの手を取った。指を絡めて、握る。
この手は、明日の朝には前脚に変わっているかもしれない。ふわふわの毛に覆われた、肉球のある前脚に。
でも構わない。
前脚なら前脚で、肉球を触ればいい。もふもふを堪能すればいい。人間の手なら手で、こうして指を絡めればいい。
「帰ろう」
「ああ」
手を繋いだまま、小屋に戻った。
扉を閉めて、暖炉に火を入れる。ルークがいつもの場所——暖炉の前に座った。人間の姿で。
私はルークの隣に座った。肩が触れる距離。
「ルーク」
「何だ」
「おやすみ」
「……おやすみ」
目を閉じた。
隣から、ルークの呼吸が聞こえる。規則正しくて、穏やかで。
しっぽは見えないけれど、揺れている。
——きっと、これからも。




