第27話「人化が長くなった」
異変に気づいたのは、満月の翌朝だった。
日が昇っている。窓の格子が床に影を落とすほど、朝の光が強い。
隣を見た。
銀髪の青年が、まだそこにいた。
「——え」
ルークが寝ている。人間の姿のまま。朝なのに。太陽が出ているのに。
いつもなら、夜が明ける前に狼に戻る。満月の夜だけの人化。それがルークの体の仕組みだったはずだ。
「ルーク。ルーク、起きて」
肩を揺すった。シャツ越しに触れた肩は温かくて、骨格がしっかりしていて——人間だ。狼じゃない。
「……ん」
銀灰色の目が薄く開いた。寝起きのぼんやりした顔。髪がくしゃくしゃに乱れている。
「ルーク、朝よ。朝なのに人間のままなんだけど」
「……あさ?」
ルークが窓を見た。目が見開かれる。
「——戻ってない」
「戻ってないわよ。どういうこと?」
ルークが自分の手を見つめた。五本の指。開いたり閉じたりしている。それから腕を触り、足を確認し、自分の顔に触れた。鼻は人間の鼻。耳も人間の耳。
「分からない」
「分からないって——」
「こんなことは経験がない」
ルークが立ち上がった。背が高い。狼のときは私の腰くらいまでしかないのに、人間のときは頭ひとつ以上違う。この身長差に慣れない。
「体調は? どこか痛いとか、おかしいとか」
「ない。むしろ——楽だ」
「楽?」
「いつもの人化は、体の奥で力を絞り出す感覚がある。今は、何も感じない。自然にこうなっている」
ルークが自分の手のひらをじっと見つめている。不思議そうな顔だ。怖がってはいない。戸惑ってはいるけれど。
「ミーナに聞こう」
「ああ」
二人で——人間の足で——ミーナの小屋に向かった。
ルークが隣を歩いている。人間の姿で、昼間の森を。不思議な光景だった。銀色の狼が駆け回るいつもの道を、長い足でのっしのっしと歩く青年。似合わない。
「ルーク、歩き方が狼のまま」
「何?」
「上半身が前に出すぎ。人間はもう少し真っ直ぐ歩くの」
「……こうか」
ぎこちなく姿勢を正す。今度はロボットみたいになった。
「力抜いて」
「難しい」
笑ってしまった。満月の夜に裸で現れるときは堂々としているのに、昼間の人間姿はこんなにぎこちないとは。
ミーナの小屋に着くと、ミーナは庭先で薬草を干していた。
「あら」
ルークを見て、それから空を見て、もう一度ルークを見た。
「……昼間じゃない」
「そうなの。朝から戻らなくて」
「ちょっと座りなさい」
ミーナがルークの手首を取り、脈を確認した。目を閉じて、しばらく黙っている。
「脈は正常。体温もおかしくない。むしろ安定してるわね」
「何が起きてるの?」
「たぶんだけど——人化の閾値が下がったのよ」
「閾値?」
「狼族が人になるには、月の力を体内に溜める必要がある。若いうちは満月の夜じゃないと溜まらないけど、年齢や——環境によって、少ない月の力でも人化を維持できるようになるの」
ミーナがルークの目を覗き込む。
「あなた、最近気持ちが安定してるでしょう」
「……ああ」
「心が安定すると、体も安定するの。月の力を効率よく使えるようになる。つまり——」
「つまり?」
「ここでの暮らしが、ルークに合ってるってことよ」
ルークの耳が——人間の耳だけれど——ほんのり赤くなった。
「じゃあ、ずっと人間でいられるの?」
「ずっとじゃないでしょうね。新月の前後は狼に戻ると思う。でも、今までより人の時間が長くなるはず」
私はルークを見た。ルークも私を見ている。銀灰色の目が、窓から入る光を受けて透き通って見える。
「——よかったね」
「ああ」
ルークの返事は素っ気ない。でも、口の端がわずかに上がっている。人間形態での微笑みは初めて見たかもしれない。いつもは無表情か、困った顔か、寝起きのぼんやり顔しか見たことがなかった。
帰り道は、来たときより歩き方がましになっていた。ミーナの小屋でお茶を飲んでいる間に、人間の体に慣れてきたのかもしれない。
「ルーク」
「何だ」
「人間のときのあなた、こうやってちゃんと話してるの、新鮮」
「……いつも話してる」
「満月の夜だけでしょ。しかも夜だから暗くて、あなたの表情がよく見えなかった」
ルークが黙った。
「昼間の光の中で見ると、ちゃんとイケメンなのね」
言ってから後悔した。何を言っているんだ、私は。
ルークの首が赤くなっている。耳も赤い。顔全体が赤い。
「……」
「忘れて。今のなし」
「なしにするな」
「え?」
「なしにしなくていい」
ルークが前を向いたまま、早足で歩き始めた。長い足のせいで、私は小走りにならないと追いつけない。
「ちょっと、待ってよ」
「……」
「ルーク、顔赤いわよ」
「黙れ」
「黙れ」なんて言われたのは、これが最初だ。でも怒っているわけではないことは、なんとなく分かる。声が少し裏返っていたから。
小屋に戻って、昼ご飯を作った。
人間の姿のルークが、テーブルの向かいに座っている。昼間の食卓を人間同士で囲むのは、これが最初だ。いつもは私がテーブルで食べて、ルークは床で食べている。
「フォーク、使える?」
「……試す」
ルークがフォークを握った。握り方が逆だ。
「こう」
手を伸ばして、ルークの指にフォークを正しく持たせた。触れた指先が熱い。
「力入れすぎ。もっと軽く」
「こうか」
「そう。上手」
ルークがフォークでパンを刺した。刺し方が豪快すぎてパンが割れたけれど、口に運べた。咀嚼する横顔を見つめる。
人間のルーク。昼間の光の中の、ルーク。
狼のときとは違う。甘えてこないし、尻尾も振らない。でも、同じ人だ。フォークを持つ指が不器用で、パンの食べ方がぎこちなくて、でも一生懸命で。
「おいしい?」
「ああ」
短い返事。でも、二個目のパンに手を伸ばしたから、本当においしいのだろう。
午後の日差しが窓から差し込んでいる。テーブルの上に光の四角が落ちて、フォークが小さな影を作っている。
人化が長くなったということは、こういう時間が増えるということだ。
昼間の会話。向かい合う食事。人間同士の距離感。
嬉しい。でも、少しだけ寂しくもある。
狼のルークが膝の上に顎を載せてくる、あの重みが恋しくなる瞬間が、きっと来る。
「ルーク」
「何だ」
「狼に戻りたくなったら、無理しなくていいからね」
ルークが私を見た。銀灰色の目が、少し柔らかくなった気がする。
「どちらでもいい、ということか」
「うん。どちらでもいいよ。あなたはあなただから」
ルークがフォークを置いた。目を伏せて、何かを噛みしめるように黙っている。
その沈黙が心地よかった。




